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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(17)~椎ケ元観音と磐井

前回は、津屋崎古墳群のうちの「宮地嶽古墳」について、九州王朝系ではないか、との説をお話ししました。

では津屋崎古墳群のなかに、他にも九州王朝系の痕跡はあるでしょうか?。

実は興味深い伝承がいくつかあるのです。

須多田古墳群と大石古墳群の間に、筑紫の君磐井が建立したといわれる寺の伝承地があります。

”大石には椎ケ元観音様が祭られており、その由来記によると、この地に龍光山恵華寺という大きな寺があり、筑紫の国造磐井の孫、大石麻呂の建立したものであると伝えられている。隣の区須多田の須多麻呂、福間町津丸の磐津麻呂とは三兄弟で、須多田・津丸とは結婚はしなかった。”(「ムラの歴史伝承」(津屋崎町の民族編)より)

”本尊は桧の一本造りで、平安時代中期の観音立像です。聖(正)観音あるいは十一面観音ともいわれてますが、現在の像容からはいずれとも判断できません。33年ごとの御開帳以外は、秘仏として堂内の厨子に納められています。
言い伝えでは、昔はこの地に龍光山恵華寺という大寺があり、本像はその本尊でしたが、1560年頃の兵火により焼失、その後もたびたびの災難にあって一時はその所在すらわからなくなってました。
ある時、境内の椎の木の根元に立っている本像を発見。村人は新たに観音堂(円福寺)を建て、椎ケ元観音と呼んで祀ることにしました。”(境内解説石碑より)

椎ケ元観音
 
以上 https://tizudesiru.exblog.jp/239398488/ より

”江戸時代後期に福岡藩士・青柳種信が編纂した地誌「筑前国続風土記拾遺」によると、
「観音像は長さ5尺余り。奈良時代の聖徳太子の作で、近くの水上の溜池の横にあったという「龍光山恵華寺」から移された」としてます。”
https://blog.goo.ne.jp/magpie03/e/62f1a2b7adc3739829253a4804acdb93 より


福津郷土史会によると、
①今はないが昔,大石水上池のほとりに龍光山恵花寺という大きな寺があった.
 寺には七堂伽藍が備わり,多くの参詣者があった.
②本尊は聖徳太子の霊木で彫られ,霊験あらたかであった.
③寺は磐井の乱で討たれた筑紫君磐井の菩提のため建立され,建立者は磐井の七代の孫,大石麻呂,須多麻呂,磐津麻呂である.乳母小児を「召連れ」宗像の地に落来る.
④建立の時期は崇峻天皇5年である.
⑤宗像氏俊(1300年代)のため彼らは農民とされた。
 https://trakl.exblog.jp/17748192/ より

3つほど挙げました。多少の違いはありますが、内容は一貫してます。
地元に、磐井にまつわる伝承が伝わっているのには、驚かされます。

まず注目は、龍光山恵花寺の建立時期です。
寺建立の崇峻天皇5年とは、591年ころとずいぶんと古い時期です。
日本最古の寺院といえば、蘇我氏が建立した飛鳥寺(法興寺)とされますが、建立の時期は6世紀末から7世紀初頭にかけてとされます。それと同時代あるいはより古い可能性もあることになります。


もうひとつの注目は、十一面観音です。十一面観音とは、
”日本では、奈良時代から十一面観音の造像・信仰は盛んに行われ、法隆寺金堂壁画(1949年の火災で焼損)中の十一面観音像が最古の作例と見なされる。”(Wikipediaより)
とあります。

椎ケ元観音について、”現在の像容からはいずれとも判断できません。”とあるとおり、劣化が進んでおり、十一面観音なのか何ともいえないのが残念です。
聖徳太子の霊木で彫られた”とあり、法隆寺金堂壁画中の十一面観音像との関連があるのかどうか、といったところに興味が惹かれます。
寺建立の崇峻天皇5年(591年ころ)ころに椎ケ元観音が作られたのなら、日本最古ということになります。
法隆寺十一面観音 
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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(16)~宮地嶽古墳の被葬者はだれ?

今回は、宮地嶽(みやじだけ)古墳です。津屋崎古墳群のなかで、南に位置し、もっとも新しい古墳です。

”本古墳は宮地嶽神社境内にあり、宮司・手光にある他の古墳と同様に7世紀の築造と推定される。墳丘形状は大型の円墳で、直径は34メートル、横穴式石室の長さが約22メートルもある。今日内部を見学できる横穴式石室としては最大のものである。この石室に使用されている石材(玄武岩)は、玄界灘の相島から船によって運ばれたと推定されている。
現在知られている古墳時代の横穴式石室で日本最大のものは、奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のもの(全長約28メートル)であるが、これは宮内庁管理の陵墓参考地に含まれており、非公開とされている。巨石墳として有名な奈良県明日香村の石舞台古墳でさえ約20メートルである。”(Wikipediaより)

もっとも特徴的なことといえば、その規模でしょうか。横穴式石室の全長が約22mもあり、これは奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)のもの(全長約28メートル)に次ぐ、日本第二位の大きさです。あの明日香村の石舞台古墳の約20mを上回ります。

見瀬丸山古墳の被葬者は不明で、欽明天皇との説もありますが、確定されてません。一方石舞台は蘇我馬子との説が有力です。当時の最高権力者ともいわれる蘇我馬子の墓をも上回る規模ですから、宮地嶽古墳の被葬者はただものではないことがわかります。

宮地嶽古墳

宮地嶽古墳は、その豪華な出土物でも知られてます。
"古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉やガラス板など、およそ300点が発見され、どれも第一級のすばらしいものであり、そのうち十数点は国の指定物件として国宝に指定されています。この地を支配した氏族の繁栄と富みを象徴する品で、まさに地下の正倉院ともいえます。"(宮地嶽神社HPより)

宮地嶽古墳1

宮地嶽古墳2


宮地嶽古墳3

宮地嶽古墳4

宮地嶽古墳5
まさに「豪華絢爛」という言葉がぴったりです。

金銅製頭推太刀は、神社の説明によると、”頭椎(かぶつち)の太刀は皇位継承権のある人が持つもので、 地方豪族などは持てません。”というきわめて貴重なものです。https://lunabura.exblog.jp/14559788/より

また”馬具は九州で超一級で、所有者は皇太子のレベル以上のものです。国宝になった主なものとして、金銅の冠(銅に金メッキ)、馬具は鞍、壺鐙(つぼあぶみ)轡(くつわ)など、どれも銅に分厚い金メッキが施されていました。 銅の鎖、壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものです。 金のイヤリング、緑のガラス球、銅のお碗、銅のお皿、土師器のお碗 長方形の鉛系のガラス板など。これは正倉院と同じタイプです。”(同上ブログ)

注目は、太刀は「皇位継承権のある人が持つもの」であり、馬具は「皇太子のレベル以上」といわれていることです。
ここから、被葬者は、ただものではない、当時の日本を代表する人物だったのではないか、という推測ができます。九州王朝の立場に立てば、「九州王朝の王」、つまり「倭国王」ということになります。

実際、このように解釈しないと、説得力のある説明ができないでしょう。

さらに驚くべきことに、宮地嶽神社では、被葬者について、
”被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。
この宮地嶽神社の御祭神の藤氏磐井氏の孫です。ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。 一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。”
としてます。(同上ブログ)

なんと宮地嶽神社では、被葬者を「磐井の関係の者」としてるのです。

ここで「磐井」とは、「筑紫の君磐井」のことです。磐井は6世紀前半の豪族で、筑後を基盤として、北部九州一帯を勢力範囲としたとされます。日本書紀に、527年の「磐井の乱」で継体天皇と戦になり、物部麁鹿火によって斬られた、と記載されてます。

九州王朝説からみれば、磐井は「倭国王」であり、継体天皇のクーデターだったことになります。宮地嶽古墳の被葬者が磐井の関係者ということは、倭国王の関係者ということになります。先に述べた、「ただものではない、当時の日本を代表する人物」という条件にぴったり合います。

そして何よりも宮地嶽神社自身が、それを自認してます。
HPでは明確に、「九州北部王朝の聖域」という表現をしてます。

そして宮地嶽神社には、九州王朝の舞いといわれる「筑紫舞い」が伝わってます。

筑紫舞



ちなみにこの「八乙女の舞」は、志賀海神社にも伝わってます。同じ信仰圏であったことがうかがわれます。

以上のように、宮地嶽古墳が九州王朝と深い関係があるという説には、大きな可能性が感じられるのではないでしょうか。

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(15)~津屋崎古墳群

前回は、沖ノ島祭祀には多くの謎があるが、九州王朝説に立てばきれいに説明できる、という話をしました。
今回から、その具体的論拠をお話ししていきます。

まずは考古学的見地からです。

沖ノ島祭祀遺跡と近傍の古墳群との間には密接な係わりがあることがわかってます。なかでももっとも関係性が近いと考えらえるのは、津屋崎古墳群です。ここからみていきましょう。

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から、勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原/奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳からなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と集中度は九州北部における代表的な古墳群といえる。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると、北から南への変遷を窺える。”(「国指定史跡 津屋崎古墳群 整備基本計画」に関する再検討」(2016年3月 福津市教育委員会)より)

津屋崎古墳群



ご覧のとおり沖ノ島を北西海上に臨み、宗像の西方に位置します。このうち新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群は、2017年に、「「神宿る島」 宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されたことは、記憶に新しいところです。

位置的にいっても、このあたり一帯の古墳群が、沖ノ島祭祀を執り行った人々と深い関係があったであろうことは、想像に難くありません。特に注目は、北方にある勝浦峯ノ畑古墳です。小田富士夫氏(福岡大学名誉教授)が、
”勝浦峯ノ畑古墳と(沖ノ島の)21号遺跡の同型鏡から、同古墳被葬者が21号祭祀に関与したことを推定”してます(「沖ノ島祭祀遺跡の再検討2」(小田富士夫)より)。

21号祭祀遺跡は岩上祭祀段階の下限を示す時期であり、一方勝浦峯ノ畑古墳は5世紀中頃の築造とされ、「胸形の君」の墳墓に比定されてます。そして小田氏は、ヤマト王権による「委託祭祀方式」を想定したなかで、被葬者はその委託された首長ではなかったか、と想像してます。このあたりは疑問があるところですが、少なくともこの勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀に関与した、という指摘は重要です。
勝浦峯ノ畑古墳

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(14)~九州王朝説に立てばすべての謎は解決する!

 前回、沖ノ島祭祀に関する7つの謎について、矢田氏の説では納得しうる説明ができない、という話をしました。
7つの謎とは、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?

です。

ではどのように考えれば、この謎が解明できるのでしょうか?。

皆さんのなかには、「4世紀から9世紀のことなど詳細な記録が残っているわけでもないし、わからなくて当然だ。この程度の説明で充分ではないか。」と思われる方も多いかもしれません。

もちろんそういう考え方もあるかもしれませんが、それでは話が終わってしまいます。考えうる限りの可能性を想定して、少しでも真実に近づく努力をするのが、歴史研究者の定めだと思います。

では考えていきましょう。

矢田氏は莫大なデータを収集分析して、自説を構築してます。その姿勢は、大いに尊敬したいと思います。
3世紀ころの邪馬台国については、九州北部に邪馬台国連合というものを想定してます。邪馬台国の位置については大分県の宇佐市あたりと推定しており、私の推測する博多湾岸とは異なりますが、九州北部ということでは共通です。

一方で、畿内にヤマト王権を想定してます。北部九州の邪馬台国と畿内のヤマト王権との関係については触れられてないので、よくわかりませんが、3世紀には両地方において、強大な勢力があったと推測してるようです。そして、その前提のもとに、ヤマト王権が沖ノ島祭祀を執り行った、と解釈してます。

私はその前提に無理があったのではないか、と考えます。

もっと明確にいえば、畿内のヤマト王権が、そこまで沖ノ島祭祀に関与していたのだろうか?、という問題提起です。

ではどのように考えれば、すっきり解釈できるのでしょうか。

私のブログや著書をお読みの方なら、ここでピンとくるでしょう。
私は当時の倭国の中心は九州北部にあった、とする九州王朝の立場です。倭国の中心が北部九州にあったのであれば、豪華絢爛な沖ノ島祭祀も九州王朝が執り行っていた、と考えるのが自然です。

ではこの視点で、7つの謎が解けるか、みてみましょう。

1・2の「なぜ、何のために沖ノ島で行われたのか?」
九州王朝の繁栄を願い執り行われた、ということになります。もちろんそのなかには、朝鮮半島出兵の必勝祈願もあったでしょうし、日常の航海の安全を祈願したこともあったかもしれません。いずれにしろ、九州王朝における信仰のもとで行われたのであり、位置的にいっても九州王朝中枢近くにある沖の島が、信仰の対象になっても何ら不思議なことはありません。

3.「なぜ史書等に記載がないのか?」
九州王朝が執り行った、ということであれば、古事記や日本書記に記載されてなくて当然です。それら史書は畿内ヤマト王権の歴史書ですから。むしろ歴史から抹殺したかった九州王朝の信仰など知らなかった、あるいはたとえ知っていたとしても記載したくなかった、ということでしょう。 

4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
祭祀回数からいって20年に一回程度祭祀が行われた、それは天皇の在位数と一致する、という論文の推測ですが、それについて疑義を挟むつもりはありません。ただしもしそうであれば、どの王朝あるいは豪族でも、20年に1回程度で代替わりとなるわけで、必ずしもヤマト王権と結びつける必然性はなく、九州王朝でも同じことがいえます。

5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
論文では、朝鮮半島出兵の兵士たちが奉献した、としてますので、この点に関しては、九州王朝説でも同じ解釈ができます。

6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
沖ノ島の出土品ではたとえば鏡などは品質がまちまちで粗悪品がみられるなど、畿内の古墳にはみられない特徴があります。また豪華絢爛な金銅製品などは、畿内の出土物を上回っています。当時の北部九州の古墳等からは、それらに匹敵する豪華な金銅製品が出土している考えことを考えれば、九州王朝が執り行っていたと考えることに不自然さはありません。

7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
遣唐使派遣の祈願という通説では説明がつかないため、矢田氏は朝鮮半島出兵にかかわる祈願をメインにしてますが、それでもなぜ白村江の戦い(663年)の敗戦以降も続いたのか、説明がつきません。一方、九州王朝は8世紀初頭にはその座を、畿内ヤマト王権に譲り渡したわけで、その時期は祭祀がローカルになった時期とぴたりと重なります。

以上のように、通説や矢田氏説では説明しきれなかった謎が、九州王朝説に立てば、きれいに説明できます。
当然といえば当然ですが、皆さんのなかには、「そんなのは九州王朝というものを仮想したうえでの解釈にすぎない。具体的な証拠があるのか?。」という思いをもたれた方も多いでしょう。
次回そのあたりをお話ししていきます。


★沖ノ島祭祀を執り行ったのは九州王朝か?

半岩陰・半露天祭祀1
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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(13)~祭祀の謎は解明できたか?

前回、論文にある「沖ノ島祭祀のストーリー」を紹介しましたが、多くの矛盾があることをお話ししました。
では、このストーリーで、以前お話しした「沖ノ島祭祀の謎」は解けるでしょうか?

「沖ノ島祭祀の謎」とは、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?

の5つです。

さらにもう少し詳しくみると、2つほどあるので追加します。
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?

では、以上の7つの謎を、矢田氏のストーリーで説明できるでしょうか?。みていきましょう。

1.2の「なぜ、何を目的として沖ノ島で祭祀が行われたのか?」について
沖ノ島は通常の朝鮮半島や中国本土への渡海ルートから外れており、沖ノ島を経由する公式なルートは存在していなかった、とされてます。ではなぜ、沖ノ島で祭祀が行われたのか、です。

遣隋使や遣唐使派遣の際の経由地、というのが通説ですが、矢田氏は独自の見解です。

論文では、
”北部九州の邪馬台国連合が半ば独占していた韓半島南部の鉄を、3世紀末から4世紀初頭に、畿内のヤマト王権が出雲や宗像海人族を抱き込むことにより瀬戸内海ルートを開拓して、手に入れることができるようになった。その誓約がウケイ神話であり、沖ノ島祭祀が始まった。
そして、5世紀後半から7世紀にかけて、ムナカタは朝鮮半島出兵の騎馬軍団渡海基地となり、将兵が寄港地の沖ノ島で航海安全と武運を祈り帰還時に感謝して奉献した
663年の白村江の戦いの敗戦で、出兵は終わり、祭祀もローカルなものになった。”
としてます。

ウケイ(誓約)神話の話は、想像の域であり、検証のしようもありません。
祭祀がもっとも盛んだった5世紀後半から7世紀後半は、岩陰祭祀、半岩陰半岩上祭祀ですが、はたして沖ノ島が朝鮮半島出兵のための経由地であったのか、不明です。というのは何ら史書等に記載がないからです。
また兵士たちが立ち寄るとなると、相当規模の船が何隻も寄港することになり、兵士の数は数百、あるいは数千人にもなると思われますが、それに対応しうる港湾遺跡はありません。飲料水などの補給基地という説もありますが、沖ノ島にそれだけの人数に対応しうる施設があったとは考えられません。

矢田氏は通説の、「遣隋使・遣唐使派遣の経由地」をあえて否定して自説を構築してますが、残念ながら納得しうるだけの説にはなっていません。

3.「なぜ史書等に記載がないのか?」について
すでにお話しましたが、具体的に「沖ノ島を祭祀した」という記載は、古事記・日本書紀には皆無です。わずかに「胸肩の神」等の記載がいくつかあるのみです。これは通説の視点からみると、きわめて不思議なことです。もしヤマト王権が国家祭祀として、沖ノ島を重要視していたなら、「〇〇天皇の御代に、沖ノ島での祭祀を奉った」という記載が数多くあってしかるべきです。

これは矢田氏の説においても、同じ疑問が残ります。朝鮮半島出兵は国家を挙げてのことであったわけで、普通に考えれば、「出兵の前に、○○天皇は必勝を祈願して沖ノ島に祈りを捧げた」といった記載があってしかるべしですが、それが全くないわけです。

となるとはたしてヤマト王権が、本当に国家祭祀として沖ノ島祭祀を執り行ったのか?、という点に大きな疑問がつきます。

4.「祭祀遺跡は祭祀場所か?」について
これはすでに論文でも解説しているとおり、祭祀遺跡と祭祀場所は必ずしも同じということではなく、そこから5世紀から7世紀後半までの祭祀回数が20回程度であると推測してます。それが天皇の在位数とほぼ同じであることから、祭祀が即位後の継承儀礼の一つとして続けられてきたと見ること も 可能であろう、とも見解も示されています。
それが朝鮮半島出兵とどのような関係となるのか、よくわかりませんが、謎に対するひとつの答えにはなっなっています。

5.「同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?」について
国家祭祀として執り行われたのでれば、奉献品は祭祀に使用する奉献品が、必要な数だけでいいはずです。ところが、一回の祭祀に多種多様な奉献品があるばかりではなく、品目によってはおびたしい数が捧げられています。などは品質がまちまちで粗悪品も見受けられます。金銅製馬具類も、同じ品種のものが突出して多くあります。

論文では、多くの人が沖ノ島の祭祀に参加し、それぞれ捧げものをした、と考えなければ説明が難しいのではないか。ヤマト王権または宗像氏単独での、あるいはその両者のみでの祭祀とは考えにくいのである。”と解説してます。

このように、祭祀は即位後の継承儀礼などの国家祭祀ということも考えられますが、それよりもさまざまな人々が祭祀を行った、と考えたほうが自然です。朝鮮半島出兵の祈願ということであれば、いちおう筋は通ります。

6.「なぜ畿内の古墳にない特徴があるのか?」について
たとえば出土した鏡は、品質がまちまちで粗悪品もみられます。これについて論文では
”京都府木津川市の 椿井(つばい)大塚山古墳では、 36 面の鏡のうち 鏡種の分かる 32 面 すべて が三角縁神獣鏡であり、うち 26 面は品質が優れていため舶載(はくさい)鏡(中国からの輸入鏡)と言われている。”
と述べ、このようなことは、”畿内の古墳ではほとんどみられない。”と述べてます。

これについて、朝鮮半島出兵兵士の奉献品と考えれば、筋は通りそうです。
しかしながらことはそう簡単ではありません。

これまでにも紹介してきましたが、沖ノ島祭祀の出土品は、質・量とも傑出してます。論文でも岩上祭祀について、ヤマト王権が支配していた畿内にもこの頃これほどの遺物を出した祭祀遺跡はなく、比較的大型の前期前方後円墳(全長 100 140 m 級)からの出土品と品目が似ている。すなわち、この頃のヤマト王権に属する有力氏 族の長が持っていたと同等の宝物が捧げられていた。”と述べてます。
ようは品目が似ているという理由だけで、ヤマト王権と関連づけてますが、なぜ畿内の古墳をも上回る出土品が多数あったのか、疑問に答えてません。

また金銅製竜頭や五弦琴など、畿内の古墳にみられないものが多数出土してるわけです。

いくら畿内のヤマト王権が沖ノ島祭祀を重視したからといって、天皇陵に副葬する品々を上回る奉献品を奉げた、というのは不自然です。まして朝鮮半島出兵の兵士たちが、そのような品々を奉献した、というのも、きわめて考えにくいでしょう。

7.「なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?」について
7世紀後半から8世紀の半岩陰・半岩上祭祀において、金銅製竜頭や五弦琴など、祭祀は隆盛を極めるわけですが、8世紀初頭に突然終焉を告げ、石製人形・舟形などの、ローカルな祭祀になります。
通説の、遣唐使派遣の寄港地ということでは、逆に8世紀以降が遣唐使派遣が活発化するので、説明がつかないわけです。それを朝鮮半島出兵という観点でみれば、663年の白村江の戦いの敗戦により、国家祭祀は行われなくなり、ローカルな祭祀になった、という説は、いちおうもっともに聞こえます。

しかしながら、半岩陰・岩上祭祀は、7世紀いっぱいは継続していたとみられています。白村江の戦での敗戦が確定したた663年以降も、なぜ祭祀が続けられたのか?、謎は残ります。

以上、7つの謎についてみてきました。確かに矢田氏の説で説明できる謎もありますが、多くは納得しうる説明になっていないのではないでしょうか?。

それがなぜなのか、またどのように考えれば筋が通った説明がしうるのか、を次回お話ししたいと思います。

★沖ノ島祭祀を執り行ったのは、はたしてだれか・・・?
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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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