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日本神話の源流(3)~五つの「種族混合文化」

前回は、日本に神話をもたらした可能性のある4つのルートの話でした。詳しくみていきましょう。

吉田氏は本の中で、民族学者である岡正雄氏(1898-1982年)の説を引用してます。
岡氏によれば、先史時代の日本列島には、少なくとも5種類の起源を異にする「種族文化複合」が渡来したと想定されてます。

1.母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
2.母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
3.父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
4.男性的・年齢階梯的・水稲栽培=漁労民文化
5.父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化


まず最も古い1の「母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化」です。タロ芋栽培を主とするメラネシア原住民の文化と類似している、というのです。日本の正月では里芋を食べますが、この名残だとしてます。
またメラネシアでは、男性秘密結社の祭りがあり、その際仮面・土面をかぶりますが、それは日本のナマハゲに伝わっている、というのです。

ところで欧米にはハロウィンという祭りがあります。もともとはケルト人の祭りで、仮装した子供たちが家々を廻るわけですが、日本でも盛んに行われるようになりました。最近では少し度が過ぎたきらいがないでもないですが、それはそれとして、もしかしたら日本人の深層心理の中に、仮面をして祭りをしたいというものがあるのかもしれませんね。

なまはげ
2の「母系的・陸稲栽培=狩猟民文化」は、縄文時代末期に陸稲栽培を伝えた人々で、オーストロアジア語系としてます。この人々が、太陽神アマテラスや家族的・村落共同体的シャーマニズム・司祭的な役割をもつ女性支配者文化を伝えた、と述べてます。これらは、アマテラスをはじめとした古事記・日本書紀の描く神話の世界に合致してます。また三国志魏志倭人伝の描く「卑弥呼」の姿にも重なります。

また日本の古典に、イロ・ハ(母)、イロ・エ(父)という言葉が出てきますが、これは「イロ」という要素を共通にする同母系呼称です。このことから、日本に「イロ」と呼ばれた母系親族集団が存在し、それは1あるいは2が伝えたのではないか、と推測してます。
岡氏はどこから伝わったのかは書いてませんが、陸稲ということから、中国南部から伝わったことになります。

<アマテラス>
天照大御神

3の「父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化」は、アワ・キビなど雑穀焼畑と狩猟文化で、弥生時代初期に、満州・朝鮮半島から、ツングース系統のある種族によって伝えられた、としてます。弥生文化のなかに北方的要素があるといわれますが、それはこの文化です。

面白いのは、私たちは今でもヤカラ(輩)・ハラカラ(同胞)という言葉を使いますが、この文化が関係するというのです。ヤカラとは仲間という意味で使いますが、もともとは同じ血筋を引く人、の意味です。ハラカラは兄弟姉妹のことですが、もともとは同腹の兄弟姉妹(母が同じ)という意味です。
ハラ=カラで、外婚的父系同族集団を読んだツングース系のハラ(Hala)とのことで、2000年以上たった今でもこうした言葉が残っているのは、興味深いところです。

4の「男性的・年齢階梯的・水稲栽培=漁労民文化」は、弥生文化の主体を構成した文化で、紀元前4-同5世紀頃、中国の呉・越などの戦乱により揚子江河口地方より南から伝わった、としてます。弥生文化の南方的要素とされます。水稲栽培のほか、漁労文化も伝えた、としてます。

一昔前の地方にあった、若者宿・娘宿・寝宿・産屋・月経小屋・喪屋など、機能に応じて独立の小屋を建てる風習も、この文化特有とのことです。独立小屋は古事記・日本書紀にもたびたび出てきますので、注目です。

最後が、5の「父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化」です。日本列島に支配者王侯文化と国家的支配体制を持ち込んだ、天皇氏族を中心とする種族の文化としてます。4の文化の種族が西から来たアルタイ系騎馬民族によって征服され、国家組織として満州南部において成立しましたが、日本列島には3、4世紀のころ渡来した、としてます。

かつての騎馬民族征服説を想起させますが、騎馬民族征服説は多くの論拠から否定されてます。しかしながら文化の伝播があったことは確かです。

大家族・「ウジ」族・種族というタテの三段で種族が構成
され、「ウジ」父系的氏族・軍隊体制・王朝制・氏族制・奴隷制・鍛冶職集団など各種職業集団など所有が特徴としてます。
宗教的には、天神崇拝・父系的祖先崇拝・職業的シャーマニズムなどに特徴づけられ、ユーラシア・ステップ地域の騎馬民族文化と本質的にまったく一致する、としてます。

このように日本の先史文化は、多起源的要素の累積、混交を通して形成された、というのが岡氏の説で、この認識を学界に定着させるのに大きな貢献を果たした、と述べてます。そしてこのことを前提にするなら、日本神話の成り立ちを考える場合にも、その中に起源を異にする諸種の要素が含まれていると予想しなければならない、と述べてますが、当然のことでしょう。

こうした考えのもと岡氏は、たとえば、
(1)オオゲツヒメやウケモチヒメの神の屍体から穀物の種が生じたという神話や、アマテラスの岩戸隠れの神話、イザナギ・イザナミ神話など
⇒ 2の「母系的・陸稲栽培=狩猟民文化文化」による
(2)タカムスビを主神格とする観念や、天孫降臨神話、八咫烏(ヤタガラス)や金鵄(きんし)などの鳥類の活躍によって建国が成し遂げられたという神武天皇東征神話
⇒ 5の「父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化」による
と想定してます。

さらに日本の固有文化のなかに、異なる二つの信仰形態が混じりあっているとしてます。すなわち

(1)カミの出現を垂直的に表象する信仰形態
カミは天上にあって、人間界へは山上、森、樹梢に降下してくる
⇒ 3の「父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化」

(2)カミの出現を水平的に表象する信仰形態
祖先ー祖霊ー死者ー異形の人間・仮面仮装者、のように信仰形態の表象はより具象的ではあるが定型的ではないものが、かなたから村を訪れてくる
⇒ 1の「母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化」に固有

以上のように述べてます。

私は以上のすべてについて賛同するわけではありませんが、世界各地の膨大な神話を集積して、このようにきれいに整理分類されたことは、驚嘆に値します。ここに敬意を表したいと思います。

大略を、次の表にまとめました。

5つの種族文化

本記事で今年は終わりです。
本年も愛読いただき、まことにありがとうございます。
来年も引き続きよろしくお願いいたします。

では皆様、よい年をお迎えください。

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日本神話の源流(2)~吹溜りの文化

では早速、日本神話の源流についてみていきましょう。

まず皆さんに質問です。

「日本神話はどのようにできたのでしょうか?」

大陸北方・朝鮮半島から伝わったのだ、という方もいるでしょう。
南方諸島から、という方もいるでしょう。
いやそうではない。日本人の祖先が自分達だけで作ったのだ、とい方もいるかもしれません。

はるかかなたの昔のことですから、結論づけるのは難しいでしょう。
しかしながら、世界を見渡し、どのような神話がどこに残っているのかを調べれば、何らかの痕跡が見出せるのではないか、そのように考えて多くの研究が今までされてきました。いわゆる「比較神話学」です。

ここではその「比較神話学」から、ひも解いていきます。多くの研究書がありますが、わかりやすくまとめられている「日本神話の源流」(吉田敦彦)を参考にさせていただきます。

”日本文化は、古来「吹溜りの文化」として形成されてきた。”

冒頭、この話から始まります。
簡単にいえば、
日本列島はアジア大陸の東端にあるので、
1.北は千島・樺太・沿海州を経由して独特な狩猟民文化を発達させた北方ユーラシアの森林地帯
2.西は朝鮮半島を媒介とした「騎馬民族」、旧満州・蒙古・カザフスタン・南ロシアにまたがる「ユーラシア。ステップ地帯」
3.西南は、朝鮮半島を介し、あるいは直接的、定住の農耕民・漁労民、中国南部からインドシナを経てインドにいたる、東南アジアのモンスーン地帯の東端
4.南は、台湾・フィリッピン、インドネシア・南太平洋、「南洋」「オセアニア」に位置する一方、東には太平洋が広がっている。

したがって、北・西・西南・南からの文化が、日本列島に入ってきてそこに留まるので、
「吹溜りの文化」と呼ぶ、ということです。

私は「吹溜り」という表現に、何となくきゅうくつで自虐的なイメージをもちますが、少なくともおおまかな流れをについて、うまく表現したものとはいえます。

ただし私はこの説にすべて賛同するつもりはありません。
日本の文化が大陸に伝播したという痕跡が数多く指摘されているところであり、本当に日本列島からは海外に向けて何も文化が伝播しなかったのか?、という点については、大いに疑問があるところです。
たとえば縄文文化が、どのようなルートを経由したかは別として、アメリカ大陸に伝播した可能性も指摘されているからです。

それはさておき、「吹溜り」の表現はおいておいても、少なくとも地理上の位置関係は上記のとおりであり、神話についても、このルートから入ってきた可能性が高いと考えるのは自然でしょう。

文化伝搬ルート  
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日本神話の源流(1)~私の研究のスタイル

拙ブログも2015年2月の開始以来、5年近くを経て、記事数も300を超えるまでになりました。これもひとえに多くの読者の皆様のあたたかい応援のおかげと、深く感謝する次第です。

またさまざまなコメントもいただき、多くの知見や気づきを得ることができ、研究をより広い視点からみることにもつながってます。これからもさらに深化させていく予定ですので、よろしくお願い申し上げます。

さてこの300記事を振り返ってみますと、日本神話からはじまり、中国史書や朝鮮史書、考古学からのアプローチとして、イネ・土器・銅鐸・古墳他、遺伝子学による日本人の成り立ち、神社、沖ノ島祭祀などなど、多くの方面からの検討をしてきました。著書も5冊出版するなど、我ながら、ずいぶんとよくやってきたな、という思いです。

ここで私の研究スタンスについて、改めてお話ししておきます。それは神話等はなにがしかの史実を物語にした可能性があるという前提のもと、日本の古代史を解明していくというものです。そしてその手法として、
1.史書(日本・外国)の解読
2.考古学的成果
3、神社や地方伝承
4.遺伝子学、気候天文学、地質学等の科学的データ
等を総合的にみて、すべてにおいて矛盾なく説明しうる仮説こそ、もっとも可能性の高い説である、とするものです。

たとえばある史書を読み、「何々~」と解釈できるとしても、その説が上のすべてにおいて矛盾ないものになっているのか、それが検証されない限りあくまで一つの仮説にすぎない、と考えてます。

もちろんはるか昔の古代のことですから、すべてが完璧にできるわけではありませんが、少なくともこのような手順を緻密に積み重ねていけば、A説、B説、C説という仮説があった場合、どの説がより可能性が高いのかが検証できます。

特に重視すべきは客観的データです。統計データや科学的データなどを用いながら、ひとつひとつの事柄について、何が事実と考えられるのか、それを明らかにしていけば、真実はおのずと見えてくるはずです。まさに「データは語る」ということです。

ところでこのブログをはじめから読まれている方や、拙著をすべて読まれた方は、こういう疑問を持つ方もいるかもしれません。

”中国史書など外国史書は詳細に検討しているが、肝心要の「古事記・日本書紀」は詳細に読み解いていない。それはなぜだろうか?”

というものです。
実に核心を突いた疑問です。

古事記・日本書紀については、神話からはじまり、随所に紹介しながら解説してきました。しかしながら外国史書、たとえば三国志魏志倭人伝を解説したときのように、すべてをひとつづつ読みながら、そこから史実を引き出していくということは、今までやっておりません。

なぜか?。
それは中国史書などに比べて、古事記・日本書紀などはつじつまの合わないことが極めて多く、全体として一つのストーリーとして描くのがとても難しいからです。

そもそも古事記と日本書紀の記載には、大きな違いが多々あります。系譜も異なりますし、事績にも大きな違いがあります。日本書紀に書かれているのに、古事記には書かれていない、あるいはその逆もあります。矛盾も多々あります。そうしたなかで、何が史実であるのかを見出すのは、とても困難です。

とはいえ、やはり日本古代史の謎を解明するうえで、避けて通ることはできません。

幸いここまでさまざまな検討をしてきたおかげで、数多くの記録、データが集積できました。それらを組み合わせれば、おぼろげながらではありますが、全体的なイメージがつかめるのではないか、そういう思いももてるようになりました。

こうしたことから、いよいよ古事記・日本書紀について解明を試みたいと考える次第です。

とはいえいきなり本文の解釈に入ることは、全体像を失いかねません。特に冒頭は神話の世界です。
そこでまずは、世界の神話からみて、日本の神話がどのような位置づけにあるのか、そして日本神話はどのようにできたのか、を探ることから始めます。

これからを楽しみにしてください!!


★日本神話はどのようにしてできたのだろうか・・・?

国生み神話 
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宗像神と沖ノ島祭祀のまとめ ~ 沖ノ島の真実はいずこに?

ここまで長らく宗像神や沖ノ島祭祀について、矢田浩氏(静岡理工科大学名誉教授)の論文等を引用しながら、みてきました。
テーマとしては5つ、総記事数は77回という膨大なものとなりました。
それぞれのテーマ、記事数、引用論文は以下の通りです。

1.宗像神を祭る神社データが語ること 11記事
  「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析ー宗像神信仰の研究(1)ー」

2.北部九州の宗像神と関連神を祭る神社データは語る 13記事
  「北部九州の宗像神と関連神を祭る神社の解析ー宗像神信仰の研究(2)ー」

3.宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり 14記事
  「宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(上)―宗像神信仰の研究(3)」

4.宗像と宇佐の女神 20記事
  「宗像と宇佐の女神、そして卑弥呼 [付編]魏使の邪馬台国への行程 -宗像神信仰の研究(4)-」

5.沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか? 19記事
  「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代ー宗像神信仰の研究(5)-」

大まかな話としては、まず宗像三女神(イチキしま・タゴリ・タギツ)について、神社データなどから、その成り立ちを推測しました。そして八幡神、宇佐神、比咩神等についても考察しました。
最後に、沖ノ島祭祀の謎、そこから沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?、というテーマを取り上げました。実はこれが最大のテーマだったのですが、私は筑紫の君磐井系、すなわち九州王朝が執り行ったと推定しました。

引用論文は、理工系の研究者らしく、さまざまなデータを集積解析しながら論理構築しており、その熱意にはただただ頭が下がるばかりです。ただし残念なことに、最終的な結論は、私と異なるところとなりました。

思うにその大きな要因は、矢田氏が邪馬台国の位置を大分県宇佐市と比定していること、また沖ノ島祭祀の主催者を通説どおりヤマト王権であるとして推論を進めたことにあると思われます。

そこには大きな無理があることをここまでお話ししてきました。

結論の違いは残念ですが、あくまでデータ解釈に関する見解の相違ということで、理解したいと思います。
それはそれとして、私自身、多くの知見と気づきを得られました。改めてここで、矢田氏には深く感謝したいと思います。

さて以上で、このシリーズは終わりです。

次回からは、ガラッとテーマを変えて、日本神話の世界をみていくことにします。

★沖ノ島の真実はいずこにあるのか・・・?

沖ノ島遠景

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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(19)~沖ノ島祭祀と筑紫の君磐井の深い関係

 さてここまで、沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれかについて、みてきました。

一般的には、ヤマト王権が主体となり、直接であれ地方豪族への委託方式であれ執り行った、とされてます。

ではなぜこのような疑問が生まれるかというと、古事記・日本書紀には
”筑紫の胸肩君等が祭る神”
という記載のほかに、
”筑紫の水沼君らが祭る神”
という記載があるからです。

さらに宇佐の三女神社由緒には、
豪族筑紫君等がこれを祀る。”

とあります。

一方、ヤマト王権が直接祭ったとする明確な記載はなく、遺跡の状況からみても疑問があることをお話ししました。

具体的には、
1.なぜ沖ノ島で行われたのか?
2.何のために祭祀が行われたのか?
3.なぜ史書等に記載がないのか?
4.祭祀遺跡は祭祀場所か?
5.同種奉献品の数の多さと雑多さの理由とは?
6.なぜ畿内古墳にない特徴がみられるのか?
7.なぜ8世紀初頭に祭祀が突然ローカルになったのか?
という謎があるという話でした。

そして考古学や伝承をみてきました。

まず津屋崎古墳群と関連があることを、お話してきました。
具体的には、
1.勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が沖ノ島祭祀を執り行ったのではないか?。
2.宮地嶽古墳筑紫の君磐井との関連がある。
3.須多田古墳群と大石古墳群の中間には、椎ケ元観音や龍光山恵華寺の伝承のなかに、筑紫の君磐井との関連がうかがわれる。

という内容でした。

また、宗像にもある装飾古墳は、筑紫の君磐井系の古墳である。
という話をしてきました。

筑紫の君磐井は、通説においても、北部九州一帯を支配したとされます。

磐井勢力図2

この図では、装飾古墳の分布と屯倉(みやけ)の分布から、勢力範囲を推測してます。

磐井は、527年の乱(磐井の乱)で敗れ、斬られます。息子の葛子糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れます。糟屋の屯倉の位置は不明です。上図には、候補地の一つ、鹿部田淵遺跡の位置を、表記しました。

筑紫の君磐井の勢力範囲が、宗像地方を含んでいたのかはっきりしないところですが、北部九州一帯を支配していた様子がうかがえる上に、宗像には装飾古墳があることから、宗像にも及んでいたと考えるのが自然でしょう。

なおこの時代から1世紀ほどのちの時代になりますが、山城が築かれます。九州での範囲が、上の図の範囲とほぼ重なってくることに注目です。
古代山城分布

筑紫の君磐井の後続の王たちが、防衛のために築いたと考えられます。当時の都は、大宰府にあったと推定されます。
詳しくは、
太宰府は、倭国の都だった!?(3) ~古代山城は、何を守っていたのか?
を参照ください。

このようにみてくると、一つの仮説が生まれます。それは
”沖ノ島祭祀は、筑紫の君磐井系が執り行ったのではないか?。”
というものです。

もちろん沖ノ島祭祀は長期間にわたって行われましたから、筑紫の君磐井個人ということではなく、「筑紫の君」系の人々が執り行った、ということです。「筑紫の君」は九州王朝の王ですから、沖ノ島祭祀は九州王朝が執り行った、ということになります。


この仮説であれば、上記の
筑紫の胸肩君等が祭る神”
筑紫の水沼君らが祭る神”
豪族筑紫君等がこれを祀る。”

という記載も解釈できます。

まず胸肩の君が、筑紫君の配下であれば、胸肩の君が祭るという記載は自然です。
また水沼の君は、筑後地方の豪族ですが、九州王朝の王家に近いとされてますから、これも自然に解釈できます。
そして最後の、”豪族筑紫君等がこれを祀る”は、まさに筑紫の君磐井系が祀るということです。

そして沖ノ島祭祀の多くの謎も、このように考えればすっきり説明できるのは、すでにお話ししたとおりです。

一方畿内勢力との関係ですが、九州王朝は少なくとも西日本は支配していたと推定されます。つまり畿内勢力は九州王朝の傘下にあり、立場としては宗像君や水沼公人同様の立場だったのでしょう。そのように解釈すれば、沖ノ島祭祀が畿内の祭祀と似ている理由もわかります。

なお以上の関係性、すなわち筑紫の君がTOPにいて、配下の胸肩の君・水沼君・畿内勢力らが祭るという図式は、一定程度の期間継続しましたが、やがて変化していったと推測されます。

宗像徳善の娘尼子娘天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、大和朝廷中枢と親密な関係にあったと見られる。”(Wikipediaより)
とあるとおり、天武天皇の時代、宗像氏は絶大な権力をもちました。一方の九州王朝は、朝鮮半島での戦争に明け暮れ、白村江ので敗れ(663年)、衰退の一途をたどります。
この時代には、九州王朝が主催したのは変わらないとしても、宗像氏が中心となって執り行った可能性は充分考えられます。


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沖ノ島祭祀を執り行ったのはだれか?(18)~装飾古墳と沖ノ島祭祀

沖ノ島祭祀との関連で、津屋崎古墳群をみてきました。

まず北部の勝浦峯ノ畑古墳の被葬者と沖ノ島祭祀の深いつながりがある、という話でした。
次いで、南部の宮地嶽古墳の被葬者は、筑紫の君磐井と関連があるのではないか、ということをお話ししました。
前回は、中間の須多田古墳群と大石古墳群の間にある椎ケ元観音などが、筑紫の君磐井とかかわりがあるという伝承がある、という話でした。

さてこの時代の古墳を代表するものとして、「装飾古墳」があります。今回は、その装飾古墳と沖ノ島祭祀との関係について、みていきましょう。

装飾古墳とは、
”日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。”(Wikipediaより)
です。
築造時期は4~7世紀ころです。

内部の装飾性もさることながら、特徴的なのはその分布です。
”装飾古墳は、日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。”(Wikipediaより)

とあるように、なぜか遠く離れた関東地方に分布してます。これが海人族と関係があるのではないか、という話をしました。
詳しくは
古墳は語る(26)~装飾古墳分布の不思議詳細は
を参照ください。

さて装飾古墳と沖ノ島祭祀の関係ですが、矢田氏も論文中で言及してます。
”またそれらの内容を見ると、様々な様式のものが混在している。原田が指摘しているように、杏葉の一つは装飾古墳の王様と言われる福岡県桂川町の王塚古墳( 6 世紀後半)出土のものとそっくりで、この古墳の被葬者が生前 沖ノ島 に渡ったのではないか、という推理まで記している。”(宗像神の研究(5)、P35)

王塚古墳説明


そしてこの装飾古墳ですが、筑紫の君磐井と深い関連があるとされてます。それに関する興味深い論文があるので、紹介します。

「北部九州の装飾古墳」(平井 正則、月光天文台・福岡教育大学)です。


”考古学者原田大六著「磐井の叛乱」に、北部九州装飾古墳列の推移に関する興味ある議論がある。451年雄略天皇の親政には有明湾沿岸の水沼(みぬま)君などの諸豪族主体の中央海軍が多大な成果をあげた。ところが507年頃継体天皇時代には大伴金村による近視眼的南鮮政策の失敗が起こり、新羅の侵犯を許し、任那滅亡の危機に瀕した。日本政府は新羅出兵を決意、雄略天皇時代以来功績のあった日本海軍たる磐井軍と継体天皇中央陸軍物部麁鹿火等と激突、527年磐井の乱となった。


”原田は雄略天皇時代からの大陸の高い外来文化の影響を受け続けた有明湾岸諸豪族には石人石馬類の岩戸山古墳など石の文化を取り入れ装飾古墳が始まった。
磐井の乱で有明湾沿岸から筑紫君、火君など九州豪族軍は大伴金村軍を追撃、その戦線に沿って、日ノ岡古墳、珍敷古墳、五郎丸古墳、王塚装飾古墳、竹原古墳と一連の装飾古墳が見つかる。こうして装飾古墳の展開は有明湾沿岸から嘉穂街道、飯塚、遠賀川河口岡垣町へ向かい、磐井の乱に深く関係していると指摘する。古墳時代中期雄略天皇時代からの韓半島侵略に貢献した諸豪族は、敵対する韓半島三国の高い文化に接し、特に、高句麗古墳文化に畏敬の念をさえもったと原田は主張する。”


磐井の乱情勢



【解説】
ここがもっとも興味深いところです。装飾古墳は有明海に沿岸にはじまり、時代とともに筑後から筑紫方面へと広がりを見せます。それが磐井の乱における磐井側の戦線に沿っている、というのです。
磐井の乱は、朝鮮半島南部の南加羅・喙己呑を回復するため任那へ向かったヤマト軍に対して、新羅が磐井に妨害するよう要請し、527年6月に磐井が挙兵したことで、始まりました。528年11月に磐井側が破れ、磐井自身斬られ、同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉(みやけ)をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた、 と日本書紀に記載されてます。

ここでいくつか疑問が浮かびます。

ひとつは、敗れたのは磐井の処遇についてです。磐井は斬られ、息子の葛子が糟屋の屯倉を献上したことで死罪を免れた、とありますが、その程度のことで許されるものだろうか、というものです。通常であれば、息子も死罪、家もとりつぶしではないでしょうか。戦国時代の戦いであれば当然そのようにしたでしょう。

もうひとつは、磐井側が破れたのにもかかわらず、その後の装飾古墳の発展をみればわかるとおり、むしろ磐井一派は繁栄していることです。これも大いなる疑問です。

また屯倉についても、疑義があります。屯倉とは
ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。 屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。”(Wikipediaより)
とあるとおり、ヤマト王権の財産のはずです。
ところが”葛子が屯倉を献上した”ということは、献上前は、葛子の財産だったということです。となると、葛子は王室だったのか、という話になります。

このように考えると、磐井の乱について、はたして本当に磐井の反乱だったのか?、という疑問が沸くわけです。実際は、磐井が王で、継体天皇側がクーデターを起こしたのではないか、という見方です。
この問題はいずれということにします。


”実際、宗像三女神に連なる装飾古墳の直列配置(平井 2016)を示し、原田説の地理的根拠を実証するとともに、6世紀東アジア天”文学の韓半島特有の天測技術を議論した。
原田は議論では古墳時代前期珍重された方格神獣鏡には中国神仙思想に基づくシンボルとして天(円)、地(方格)が描かれ、方位に伴う四獣があり、これが装飾古墳の円文、や四象の原点にあると論ずる。
韓半島の高い古墳文化に接した北部九州の豪族軍は石人石馬類の装飾古墳を建造、第18図左の石刻棺(岩戸山古墳)、左の鏡を模した大きな中心円文や不明の双極輪状文の日の岡古墳、第19図の左下の船、日、月、星、人の五郎山古墳、日、月、人、蟾蜍(せんじょ)による葬送の姿の珍敷古墳、右上の前室の四象、玄室の騎馬、人、船の竹原古墳へと発展する。”

7世紀後半築造の竹原古墳には、入口の四象、奥室中央の“さしば”、船、波浪、龍などが描かれ外洋を往来する海人と思われる描写がある。
高句麗古墳に見ない装飾古墳の葬送の様式にある騎馬や(外洋)船の装飾は日本特有のものであり、平井、古屋(2005)は日本特有の大陸と隔てられた海の環境について、大陸から日本への6世紀を中心とする北部九州の文化の源流は、騎馬民族に代表される黄河文化と、南側遼東半島やもっと南から農耕を中心とする定住生活で暦の有効な長江文化とに整理され、北部九州の背振山系を境として北と南に分かれると議論した。
この見方だと王塚装飾古墳は武具、騎馬、人物、円文は黄河文化に依存する形象であり、黄河文化による主に占術の重きを置く騎馬民族に近い、高句麗文化の影響をもつと考えられる。しかし、地下玄室を創り、内部壁黄多彩な色の描画はインドネシアなど南アジアに似たような民族儀式があるという研究者もいる。”


【解説】
筆者は天文の研究者であり、この箇所もその観点からのものです。原古墳は海人系の描写、王塚古墳は、黄河文化、騎馬民族・高句麗文化系、さらには南方系すなわち海人系の描写もあるのではないか、という述べてます。
これは磐井のもっていた文化にも関連する話で、注目です。

王塚古墳文様 
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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