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古事記・日本書紀のなかの史実 (29)~神生み⑭ 禊祓(みそぎばらい)と住吉神社

イザナギが禊祓いを行った場所の候補地として、博多湾岸の志賀島と小戸大神宮についてみてきましたが、もうひとつ重要な場所があります。

古事記には、
”底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神は墨江の三柱の大神(住吉三神)である。”
とあります。

通説では、墨江とは、大阪市の住吉大社のこととされていますが、それは早計です。

福岡市にも、住吉神社があります。

"全国には住吉神社が2,000社以上分布し、一般には大阪の住吉大社がその本社とされるが、同社の『住吉大社神代記』には住吉三神は筑紫大神と記されているため、当社が全ての住吉神社の始祖である。"

"社記(筑前国住吉大明神御縁起)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する。これをもって『住吉神社略誌』では上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし、全国2千数百社ある住吉神社の始祖である根拠としている。 "(Wikipedia「住吉神社」より)

「墨江」とあるからには、海沿いにあることになります。一方現在の住吉神社は、博多の内陸部にあり、この条件を満たしていません。
ところが、かつては博多には入り江があったことがわかっています。下の図は鎌倉時代に作られた博多古図です。弥生時代もこれに近いか、さらに海が入り込んでいたと推定されてます。

博多古図


現在の海岸線を記載したものが、次の図です。上の図とは、南北が逆になってます。
博多古図と海岸線

住吉神社(博多)

博多の西には冷泉津、さらに西には草香江という入り江がありました。荒津山とは現在の西公園近辺です。大濠公園はその南に位置しますから、草香江の名残であることがわかります。
ちなみに長浜ラーメンで有名な長浜は、その名のとおり「長い浜」でした。

そして住吉神社は、たしかに冷泉津に突き出した岬にあります。
古事記記載の、
竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原
”九州北部の海峡にある、日向の小さい瀬戸のほとりの泡の立つ場所”
という条件に合致してますね。

では摂津の住吉大社との関係は、どうなるのでしょうか?

"主祭神の住吉三神(筒男三神/筒之男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。
1つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が筑紫日向小戸橘檍原で穢れ祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする。
次いで登場するのは神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする。特に『日本書紀』では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする。
また『住吉大社神代記』では、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(当社の地)に祀ったとある。”
 (Wikipedia「住吉大社」より)

つまり、”
住吉神は神宮皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託し、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられた”と記載されてます。

大津渟中倉之長峡は、大阪市住吉区の住吉大社のこととされていますが、神戸市東灘区にある元住吉神社との説もあります。

”社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。
「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。”(Wikipedia「元住吉神社」より)

ややこしくなりましたが、
住吉神社(博多)⇒ 元住吉神社(神戸市)⇒ 住吉大社(大阪市)
の順番ということになります。

いずれにしろ、禊ぎの行われたのは、博多湾岸ということです。

先のクライン氏も、論文中で次のように述べてます。
  
住吉の起源となった神社が九州にあった、ということはおそらく事実であろう。その地域には、今でも二つの摂社が存在している。一つは福岡(筑前)に、一つは山口(長門)にある。こうして、大社はいま大阪に近辺にあるけれども、その神が九州の沖合で出現した、ということは驚くに値しない。能の後半には、住吉神が真の姿を顕して外来者を追放するとき、原におけるその起源が次のように言及されるのである。

西の海 あをきが原の波間より

現はれ出でし 住吉の神”

ちなみにここでいう能とは「白楽天」のことですが、同じ一文は、「高砂」「雨月」「岩船」のなかにも出てきます・

次に、住吉神社の祭神をみてみましょう。  
主祭神
底筒男命(ソコツツノオノミコト)
中筒男命(ナカツツノオノミコト)
表筒男命(ウワツツノオノミコト)

以上の3柱は「住吉三神」と総称される。
配祀神
天照皇大神 (アマテラススメオオカミ)
神功皇后 (ジングウコウゴウ)

ところで、ツツノオとは何を意味するのでしょうか?

”三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる。
そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は筑前国の那の津の地主神・守護神であった住吉三神であり、三韓征伐後に分祀された和魂を当社が祀り、難波の発展に伴って難波津も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したとも推測される。
また星の意とする説のうちでは、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある。”(Wikipedia「住吉大社」より)

以上のとおり諸説あります。

なぜオリオン座のカラスキ星が、そこまで重視されたのでしょうか?
それは住吉族が海人族であったことと、深く関連しています。

三ツ星の角度で、時間と方角がわかるというのです。舟で沖に出ている海人の人々にとっては、命綱のようなものといえます。

通説でも、
”筒は星(つつ)で、底中上の三筒之男は、オリオン座の中央にあるカラスキ星航海の目標としたことから、航海を掌る神とも考えられる。”(「古事記 祝詞」倉野憲司他校正 P71より)
とされています。

また、対馬の豆酘(つつ)との説も、軽視できません。元々の由来が対馬にあったことを示唆するからですが、この問題はのちほどにします。

以上のとおり、禊の場所としては、博多の住吉神社としてよさそうです。

ところがややこしいことに、住吉神社には元宮があったとの説があります。
その神社とは、住吉神社の南方にある現人(あらひと)神社です。

”『筑前国続風土記拾遺』では、当社の元地を『住吉三神総本宮 現人神社(福岡県那珂川市)』とする。この伝承では現人神社の地まで海岸線であったとし、海岸線の後退とともに現在の博多区住吉に遷座したとしている。”(Wikipedia「住吉神社」より)

住吉神社と現人神社の間には、私が邪馬台国の中心拠点であったと推測する「比恵・那珂遺跡」や三種の神器が出土した王墓がある「須玖岡本遺跡」など重要遺跡が連続してます。

また南には、安徳台遺跡があります。

遺跡付近には、神功皇后が現人神社の神田のため那珂川より水路を造成中に、迹驚岡(とどろき)(後の安徳台)で大岩に塞がれた時、天地神明に祈願されたところ落雷があり、岩が裂けて完成したとされている水路「裂田溝(さくたのうなで)」があります。

こうした遺跡に暮らした人々の信仰の場所として現人神社があり、それが海岸線の後退により住吉神社に移動したのかもしれませんね。

祭神は、
底筒男命(ソコツツノオノミコト)
中筒男命(ナカツツノオノミコト)
表筒男命(ウワツツノオノミコト)
で、住吉神社と同じです。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (28)~神生み⑬ 禊祓(みそぎばらい)と小戸大神宮

前回は、イザナギが禊祓いをした場所として、志賀島が候補として挙げられるという話でした。

候補地は他にもあります。

古事記本文は、
”竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)”
です。

この場所についてクライン氏が、
”この清めは、九州の北部の海峡でなされた、と推測される。”
と指摘していることは、前回紹介しました。

あらためて位置について、みてみましょう。

まず「筑紫」は北部九州です。九州島全体とする説もありますが、ここでは横においておきます。

次に「日向」です。
日向は、このあとの天孫降臨の段で、出てきます。

”皇孫を筑紫の日向の高千穂のくしふる峯にお届けした。”(日本書記の一書(第一))

一般的には、日向国(宮崎県)とされますが、北部九州にもあるのです。
福岡市西部、糸島市境に「日向峠」があり、この地域がかつて「日向」とよばれたことをうかがわせます。

次に「橘」です。
古田武彦氏は、
”傍線部(高千穂の)が地勢を示す地形詞であり、したがって「橘の」も地形詞である。”
としています。
そして、
”橘は「太刀鼻(たちはな)」とも書かれる岬状の突出部を示す。”
”固有名詞は「小戸」となる。”

としています。

こうした推測から、
”博多湾岸の姪の浜海岸に「小戸神社」があるので、ここが小戸である。”
としています。

最後の「阿波壱原」ですが、
”「アハ」とは神聖なであり、「アハキ」とは「神聖な木(または城)を示す。

「阿波岐原」は日本書記では「檍原」と記載されており、
「檍」は、かしのき、もちのき、あおき
「原」は「パル」で、集落のこと”
としています。

以上より、
”筑紫の日向という地域の岬の突出部にある小戸という神聖な場所(集落)”
となります。

”北は能古島に相対し、西南は高祖山連峯を望む地こそ、アマテラス誕生の聖地だった。”
と述べています。

なお、小戸の南、日向峠の東には、吉武高木遺跡があります。吉武高木遺跡は、紀元前5~4世紀頃の遺跡で、三種の神器が出土した日本最古の王墓があります。

この地域一帯が、古代神聖な場所であったことがわかります。禊祓いの場所にふさわしいといえますね。

小戸大神宮位置


小戸大神宮の祭神は、
天照皇大神
(アマテラスオオミカミ)。
手力雄命(タヂカラオノミコト)。
𣑥幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)

です。


神社の由緒です。
”海中から引き揚げられた銅矛2本が神宝とされ,享保10年(1725年)福岡藩六代藩主黒田継高が社殿を建立しました。
小戸大神宮は神代の昔,伊邪那岐命が御禊祓の神事を行われた尊い地であり,皇祖天照皇大神を始め住吉三神,他神々が御降誕され,神功皇后の御出師及び凱旋上陸された実に由緒深い神社であります。全国の神社で奏上されております祓詞の中に小戸の地名が入っております。”

たしかにイザナギが禊ぎを行った場所とされており、また、神功皇后の朝鮮半島出兵の港であったなど、由緒ある場所と伝えられています。

しかしながら、もしここが実際に禊ぎが行われた場所であるなら、古代より社殿を建立して祀っていてもよさそうなものですが、社殿建立は18世紀に入ってからと、かなり後代になってからです。しかも
銅矛2本が引き上げられたことがきっかけです。

また祭神に、主要神である住吉三神、綿津見三神などが、見当たりません。

もちろんこの地に、古代からの伝承があったのかもしれませんが、やや疑問は残ります。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (28)~神生み⑬ 禊祓(みそぎばらい)  志賀島

黄泉の国から脱出したイザナギは、黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)で禊を行います。すると次々と神が生まれます。

はじめに衣を脱ぐと十二神が生まれます

衝立船戸神(ツキタツフナトノカミ、杖から生まれる)
道之長乳歯神(ミチノナガチハノカミ、帯から生まれる)
時量師神(トキハカシノカミ、袋から生まれる)
和豆良比能宇斯能神(ワズラヒノウシノカミ、衣から生まれる)
道俣神(チマタノカミ、袴から生まれる)
飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシノカミ、冠から生まれる)
奥疎神(オキザカルノカミ、左手の腕輪から生まれる)
奥津那芸佐毘古神(オクツナギサビコノカミ、同上)
奥津甲斐弁羅神(オクツカヒベラミノカミ、同上)
辺疎神(ヘザカルノカミ、右手の腕輪から生まれる)
辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコノカミ、同上)
辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒベラノカミ、同上)


「上流は流れが速い。下流は流れが弱い」といって、最初に中流に潜って身を清めたとき、二神が生まれます。この二神は黄泉の穢れから生まれた神です。

八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)
大禍津日神(オホマガツヒノカミ)


次に、その禍(まが)を直そうとすると三神が生まれます。

神直毘神(カムナオビノカミ)
大直毘神(オホナオビノカミ)
伊豆能売(イヅノメ)


次に、水の底で身を清めると二神が生まれます。

底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)
底筒之男神(ソコツツノヲノカミ)


次に、水の中程で身を清めると二神が生まれます。

中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)
中筒之男神(ナカツツノヲノカミ)


次に、水の表面で身を清めると二神が生まれます。

上津綿津見神(ウハツワタツミノカミ)
上筒之男神(ウハツツノヲノカミ)

古事記には、
”底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神は、これら三神の子の宇都志日金析(ウツシヒカナサク)命の子孫である阿曇連らに信仰されている。底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神は墨江の三柱の大神(住吉三神)である。”
記載されてます。

左の目を洗うと天照大御神(アマテラスオホミカミ)が生まれます。
右の目を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)が生まれます。
鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)が生まれます。

イザナミは最後に三柱の貴い子を得たと喜び、アマテラスに首飾りの玉の緒を渡して高天原を委任した。その首飾りの玉を御倉板挙之神(みくらたなのかみ)という。ツクヨミには夜の食国(をすくに)を、スサノオには海原を委任します。

まずここでの問題は、神々の生まれた場所です。

竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)
とあります。

一般的には、宮崎県宮崎市阿波岐原町とされてますが、はたしてどうでしょうか。

ここまでお話ししているとおり、神話の舞台は、北部九州中心です。となると、禊をしたのも、北部九州とするのが自然です。

古事記には、綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神)は、阿曇連に信仰されていると記載されてますが、阿曇族といえば、九州北部に拠点があった海人族です。

では北部九州に、候補地はあるのでしょうか?

いくつかあるのですが、可能性の高い場所として、志賀島が挙げられます。志賀島にある志賀海神社の祭神は、綿津見三神であり、神社由緒では綿津見神社の総本社を称してます。

志賀島といえば、金印「漢委奴国王」が出土したことで知られています。

また志賀海神社では、山褒め祭りにおいて、君が代の原型ともいわれる歌が詠みあげられます。

”国歌である君が代に酷似しているが、先々代の香椎宮・宮司 木下祝夫の父、木下美重によれば香椎宮に所蔵されていた筑前国の神楽記録からこの山誉祭神楽歌が旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったとされる。”(Wikipedia「志賀海神社」より)

”社伝では、古くは志賀島の北側、勝馬浜において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら:阿曇氏祖)により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。”(同上)

志賀島位置


沖津宮・仲津宮・表津宮位置


沖津宮・仲津宮・表津宮
沖津宮の祭神は、表津綿津見神・天御中主神
仲津宮の祭神は、仲津綿津見神
志賀海神社(表津宮)の祭神は、左殿 仲津綿津見神、中殿 底津綿津見神、右殿 表津綿津見神
となってます。

そして勝馬には、
舞能が浜、大戸、小戸、三瀬、神遊瀬、御手洗
といった字が残ってます。


このうち「御手洗」について、次の記録があります。
”イザナギ大神、与美国の穢れを洗い清め給いし所という”「香椎宮史」のなかの「筑陽記」の「志賀島」より
以上「志賀海神社(Ⅰ)龍の都と呼ばれた海神の宮:ひもろぎ逍遥」参照

古事記の「小門」は、「小戸」でしょう。
また「神遊瀬」という地名も意味深ですね。

次に、「阿波岐原(あはきはら)」ですが、
”泡をもじった地口を踏まえる”とされます(「政治的寓意としての能:「白楽天」をめぐって」(スーザン・ブレークリー・クライン著:荒木浩編訳)より)。

ここで地口とは聞きなれない言葉ですが、しゃれの一種で「語呂合わせ」のことです。つまり、「阿波岐原」とは、”「泡」の立つ原”を語呂合わせで表現した”ということになります。

ちなみに論文でも、
”この清めは、九州の北部の海峡でなされた、と推測される。”
と述べられています。

クライン氏は、カリフォルニア大学アーベイン校准教授(当時)で、2009年7月までの2年余り、カリフォルニア大学東京スタディセンター所長を兼務された方です。

日本の歴史文化に対する造詣の深さに驚かされますが、何よりも、日本人研究者がはっきりと言わずにあいまいにしていることを、あっさりと言い切っています。なんのしがらみもないせいでしょうが、清々しささえ感じますね。

なお「橘」もはっきりしませんが、
”小さい瀬戸のほとり”
という意味とされます(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)より)。

以上をまとめますと、
竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原
とは、
”九州北部の海峡にある、日向の小さい瀬戸のほとりの泡の立つ場所”
ということになります。

志賀島は、この条件をほぼ満たしていますね。
なお「ほぼ」と書いたのは、完全に一致しているとまでは言い切れない点があるためです。
それは「日向」のことなのですが、次回にお話しします。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (27)~神生み⑫ 黄泉比良坂(よもつひらさか)

呪的遁走(マジック・フライト)の最終場面です。

”最後にイザナミ本人が追いかけてきたので、イザナギは千人がかりでなければと動かないような大岩で黄泉比良坂(よもつひらさか)をふさぎ、悪霊が出ないようにした。その岩をはさんで対面してこの夫婦は別れることとなる。

このときイザナミは、「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」と言い、これに対しイザナギは、「それなら私は人間が決して滅びないよう、一日に千五百人生ませよう」と言った。これは人間の生死の由来を表している。

このときから、イザナミを黄泉津大神(ヨモツオホカミ)、また坂道を追いついたから道敷大神(チシキノオホカミ)とも呼び、黄泉比良坂をふさいだ大岩を道返之大神(チカヘシノオホカミ)・黄泉戸大神(ヨミノトノオホカミ)ともいう。なお、古事記では、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやのさか;現在の島根県松江市の旧東出雲町地区)としている。”(Wikipedia「神生み」より)

最後にはイザナミが追いかけてきますが、イザナギは大きな岩で黄泉比良坂をふさぎます。古代の人々は、磐石が悪霊邪鬼を防ぎ払う呪力を有していると信じていました(「古事記 祝詞」(校注者 倉野憲司)P67より)

黄泉比良坂とは、
生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。
生者と死者の住む領域に境界場所があるとする神話は、三途の川などとも共通する思想であり、世界各地に見当たる。
このほか、オオクニヌシの根の国訪問の話にも登場する。根堅洲国(根の国)のスサノオからさまざな試練をかけられたオオアナムチ(のちのオオクニヌシ)が愛するスセリビメと黄泉比良坂まで逃げ切るというもの。
島根県松江市東出雲町は、黄泉比良坂があった場所として、1940年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜坂伝説地」の石碑を同町揖屋に建立した。同地には、千引の岩とされる巨石も置いてある。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。”

図示しました。参考までに、イザナミが埋葬されたとされる比婆山も記載してます。

生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境というので、もっと深山幽谷の場所にあるのかと思っていたのですが、意外と人里に近いところにありますね。

当時の人々にとっては、そこから先は行ってはならないという場所だったのでしょう。


黄泉比良坂位置

黄泉比坂

さてイザナミは、
「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」
と言うのに対してイザナギは、
「それなら私は人間が決して滅びないよう、一日に千五百人生ませよう」
と言いました。

愛する妻のおぞましい姿を見て逃げていくイザナギに対して、イザナミが捨て台詞をはき、それに対してイザナギが返す刀で言い返してます。ここらあたりは、現代人の感覚からすると漫画チックで、ユーモラスにすら思えます。

とはいえこれはたいへんまじめな描写であり、一般的には、人の生死の起源を説明したものとされてます。生死の起源とはどういうことかというと、太古の昔から私たちの祖先は、
「人はどうして死ぬのだろう」
とか
「どうして生まれてくるのだろう」
という疑問をもっていたはずです。

それに対して答えたものが、この神話だということです。

これで当時の人々が納得していたのかはわかりませんが、少なくとも、人が生まれたり死んだりするのは、単なる自然現象ではなく、神様の思し召しによるものだ、と考えていたことがわかります。

実はこの際の表現が、とても面白いです。原文では、
イザナミは
「一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」
と言ったと記載されてます。

「千人の人間の首を絞めて殺そう」ということですが、なんとも過激な表現ですね。

これに対してイザナギは
「千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」
と言ったと記載されてます。

ここでいう産屋とは、産婦を隔離するために別に立てられた小屋のことす。産屋の話は、これからコノハナサクヤヒメやトヨタマヒメが出産する場面でも出てきます。
当時は、そのような風習があったことがわかります。

ともあれこれで無事、イザナギは黄泉の国から脱出します。まさに呪的遁走(マジック・フライト)にふさわしい最後ですね。

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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