古事記・日本書紀のなかの史実 (52) ~ 天岩戸神話⑦ 神話のリアリティ
前回までは、天岩戸神話について何らかの史実があり、それが祭儀として伝承されたのではないか、という話でした。
このように神話が単なる創作ではなく、「何らかの史実が祭儀として伝承されたものである」という考え方について、もう少しみていきましょう。
前著「日本古代史の謎6 日本神話はいつどこから伝わったのか」でも書きましたが、あらためて掲載します。
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"例えば天石窟戸の段とか国生みの段のオノロゴ島生成の神話などのように、明らかに一種の「口承による語り」の部分らしきものが散見することなどでも、これらがもと「祭式的口誦」によって語られた痕跡があると言えよう。また諸家が論ずるように、天石窟神話と鎮魂祭、イザナギの黄泉国下りと道響祭・イザナミの焼死と鎮火祭り、天孫降臨と大嘗祭というように、重要な神話のモチーフと、宮廷の祭祀儀礼とは、固く結びついていた。これを否定することは、不可能である。”(「神話の語りと祭式」(松前健)より)
松前氏は、文学者として、天理大学・立命館大学・奈良大学で教授で教壇に立った方です。あくまで文学的見地からの論説であり、表現もわかりにくいところがありますが、たいへん参考になります。
彼は、国生み・天岩戸・天孫降臨神話が、祭式を伴っていた、としてます。
ここで挙げられた鎮魂祭ですが、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式です。そのうちの「宇気槽(うきふね)の儀」について、みてみましょう。
”宇気槽(うきふね、うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。これは日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。
『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。”(Wikipediaより)
島根県の物部神社で行われている様子です。

巫女さんが実際に、古事記・日本書紀の描写するアメノウズメの踊るさまを演じてますね。物部神社の由緒は古く、最初は神体山である八百山を崇めており、継体天皇8年(513年)に社殿創建されたとされてますから、かなり古い時代から行われていた祭りだったと推測されます。
論文に戻ります。
松前氏は、韓国の済州島を訪れ、神房(シンパン)の祭(クツ)を調査し、神話と祭式との結合をみた、と次のように述べてます。
”この祭次の初めは、初監祭(チョカムジェ)といい、神迎えの儀であるが、このとき首神房は、天地の分離、日月星辰の発生、山水、国土の形成、人間の誕生、火食や農業の始まり等々を語る創世神話が口唄される。
神房はソウルの巫女のように、最初から華美な神装を着るのではなほく部く、笠に長衣という普通の礼装で、最初板の間(マル)に設けられた祭壇の前で、四拝し、次に長々と「天地のはじまり」の歌を、諷誦(ふうしょう)する。これを「ペーボーチム」と呼ぶ。一くぎり終わると、舞をし、舞い終わると、また一くぎり語る、という形で、語り、かつ舞うのである。”(「神話の語りと祭式」松前健)
たいへん興味深い祭です。
なぜ興味深いかというと、”天地の分離、日月星辰の発生、山水、国土の形成、人間の誕生、火食や農業の始まり等々語る創世神話”が、古事記・日本書紀の冒頭と、きわめて似ているからです。
これはどちらからどちらに伝わったとかいうことより、むしろ元々九州北部~対馬~朝鮮半島南部にかけて活動していた「海人族」の人々がもっていた神話と儀式だったと、考えられます。
その神話と儀式が、日本においてはやがて古事記・日本書紀に取り込まれていった、と考えれば、スムーズに理解できます。
さて先の松前氏が、別論文で、同様の指摘をしてます。
”古代の英雄は、常に自己を神格化し、祭式ドラマにおける神話上の英雄と己とを同一視しようとした。王権祭式は、ガスターやフックらによれば、創造神話の口唄、死と復活の儀や試練、神の冥府下り、幾つもの頭のある悪龍との闘争と勝利、豊穣(みのり)のための聖婚、登極、勝利の神幸式などの一連のドラマ的行事があり、王がこの主役をつとめ、原古の神との同化と、その創造行為の再現により、宇宙国土の更新とその秩序の恒久化を図ったのである。原始的な思考では、王のカリスマと国土の安寧とは、融即しているのである。
王はその祭式において、原古の存在としての神に扮し、渾沌の精たる多頭の巨龍を退治する。また大地の豊穣の精たる女神ー巫女がこれを演じるーと婚し、また一旦殺されて冥府に下り、後に復活し、再び登極する。この祭式ドラマを毎年新年祭において繰り返すことによって、王は己れ自身を、完全に神話上の存在に帰せしめることができるが、同時に、国土は原古に復帰し、新生のいぶきをもって、一陽来復となると信じられた。
王の生前、側近の家臣や伶人たちは、その行事のたびごとに、彼の個性的な業績の上にその祭式上のイメージを、ミックスさせて、その頌辞(しょうじ、即興的讃歌)を歌いあげ、またその死後は、そうした神秘的な色彩を、更に大きく印象づけ、理想型のパターンに基づいて王の輝かしい生涯や功業を彩り、哭辞(こくじ、挽歌)に歌いあげる。
こうしたものが素材となって、やがて英雄の一代記を語る長編の語り物が、伶人たちによって作られ、種々な民潭的モチーフが加えられて、益々範型的な人物像が結実して行く。”(「英雄譚の世界的範型と日本文学」(松前健)P9)
「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎6 ~ 日本神話はいつどこから伝わったか」(青松光晴)P158-161より
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以上のとおりです。
天岩戸神話の元となる話が、北方系あるいは南方系などから伝えられたものであることは、多くの論者から指摘されています。それがどこから伝わったのかはともかく、単なる神話として伝わったのではなく、「祭儀とともに伝わった」ということです。
当初は、原型が主役となる人(支配者)により演じられていましたが、時代を経るにしたがい、支配者の様々な事績が取り込まれ、神聖化・英雄化されていったのでしょう。それがやがて文字化され、古事記・日本書紀のような形になっていったと推測されます。
このように考えれば、天岩戸神話のなかに、北方系・南方系などいろいろな文化の諸要素が含まれていることも説明できますし、古事記・日本書紀のなかでもさまざまな話に変化して伝わっている理由もわかりますね。
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このように神話が単なる創作ではなく、「何らかの史実が祭儀として伝承されたものである」という考え方について、もう少しみていきましょう。
前著「日本古代史の謎6 日本神話はいつどこから伝わったのか」でも書きましたが、あらためて掲載します。
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"例えば天石窟戸の段とか国生みの段のオノロゴ島生成の神話などのように、明らかに一種の「口承による語り」の部分らしきものが散見することなどでも、これらがもと「祭式的口誦」によって語られた痕跡があると言えよう。また諸家が論ずるように、天石窟神話と鎮魂祭、イザナギの黄泉国下りと道響祭・イザナミの焼死と鎮火祭り、天孫降臨と大嘗祭というように、重要な神話のモチーフと、宮廷の祭祀儀礼とは、固く結びついていた。これを否定することは、不可能である。”(「神話の語りと祭式」(松前健)より)
松前氏は、文学者として、天理大学・立命館大学・奈良大学で教授で教壇に立った方です。あくまで文学的見地からの論説であり、表現もわかりにくいところがありますが、たいへん参考になります。
彼は、国生み・天岩戸・天孫降臨神話が、祭式を伴っていた、としてます。
ここで挙げられた鎮魂祭ですが、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式です。そのうちの「宇気槽(うきふね)の儀」について、みてみましょう。
”宇気槽(うきふね、うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。これは日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。
『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。”(Wikipediaより)
島根県の物部神社で行われている様子です。

巫女さんが実際に、古事記・日本書紀の描写するアメノウズメの踊るさまを演じてますね。物部神社の由緒は古く、最初は神体山である八百山を崇めており、継体天皇8年(513年)に社殿創建されたとされてますから、かなり古い時代から行われていた祭りだったと推測されます。
論文に戻ります。
松前氏は、韓国の済州島を訪れ、神房(シンパン)の祭(クツ)を調査し、神話と祭式との結合をみた、と次のように述べてます。
”この祭次の初めは、初監祭(チョカムジェ)といい、神迎えの儀であるが、このとき首神房は、天地の分離、日月星辰の発生、山水、国土の形成、人間の誕生、火食や農業の始まり等々を語る創世神話が口唄される。
神房はソウルの巫女のように、最初から華美な神装を着るのではなほく部く、笠に長衣という普通の礼装で、最初板の間(マル)に設けられた祭壇の前で、四拝し、次に長々と「天地のはじまり」の歌を、諷誦(ふうしょう)する。これを「ペーボーチム」と呼ぶ。一くぎり終わると、舞をし、舞い終わると、また一くぎり語る、という形で、語り、かつ舞うのである。”(「神話の語りと祭式」松前健)
たいへん興味深い祭です。
なぜ興味深いかというと、”天地の分離、日月星辰の発生、山水、国土の形成、人間の誕生、火食や農業の始まり等々語る創世神話”が、古事記・日本書紀の冒頭と、きわめて似ているからです。
これはどちらからどちらに伝わったとかいうことより、むしろ元々九州北部~対馬~朝鮮半島南部にかけて活動していた「海人族」の人々がもっていた神話と儀式だったと、考えられます。
その神話と儀式が、日本においてはやがて古事記・日本書紀に取り込まれていった、と考えれば、スムーズに理解できます。
さて先の松前氏が、別論文で、同様の指摘をしてます。
”古代の英雄は、常に自己を神格化し、祭式ドラマにおける神話上の英雄と己とを同一視しようとした。王権祭式は、ガスターやフックらによれば、創造神話の口唄、死と復活の儀や試練、神の冥府下り、幾つもの頭のある悪龍との闘争と勝利、豊穣(みのり)のための聖婚、登極、勝利の神幸式などの一連のドラマ的行事があり、王がこの主役をつとめ、原古の神との同化と、その創造行為の再現により、宇宙国土の更新とその秩序の恒久化を図ったのである。原始的な思考では、王のカリスマと国土の安寧とは、融即しているのである。
王はその祭式において、原古の存在としての神に扮し、渾沌の精たる多頭の巨龍を退治する。また大地の豊穣の精たる女神ー巫女がこれを演じるーと婚し、また一旦殺されて冥府に下り、後に復活し、再び登極する。この祭式ドラマを毎年新年祭において繰り返すことによって、王は己れ自身を、完全に神話上の存在に帰せしめることができるが、同時に、国土は原古に復帰し、新生のいぶきをもって、一陽来復となると信じられた。
王の生前、側近の家臣や伶人たちは、その行事のたびごとに、彼の個性的な業績の上にその祭式上のイメージを、ミックスさせて、その頌辞(しょうじ、即興的讃歌)を歌いあげ、またその死後は、そうした神秘的な色彩を、更に大きく印象づけ、理想型のパターンに基づいて王の輝かしい生涯や功業を彩り、哭辞(こくじ、挽歌)に歌いあげる。
こうしたものが素材となって、やがて英雄の一代記を語る長編の語り物が、伶人たちによって作られ、種々な民潭的モチーフが加えられて、益々範型的な人物像が結実して行く。”(「英雄譚の世界的範型と日本文学」(松前健)P9)
「図とデータで解き明かす 日本古代史の謎6 ~ 日本神話はいつどこから伝わったか」(青松光晴)P158-161より
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以上のとおりです。
天岩戸神話の元となる話が、北方系あるいは南方系などから伝えられたものであることは、多くの論者から指摘されています。それがどこから伝わったのかはともかく、単なる神話として伝わったのではなく、「祭儀とともに伝わった」ということです。
当初は、原型が主役となる人(支配者)により演じられていましたが、時代を経るにしたがい、支配者の様々な事績が取り込まれ、神聖化・英雄化されていったのでしょう。それがやがて文字化され、古事記・日本書紀のような形になっていったと推測されます。
このように考えれば、天岩戸神話のなかに、北方系・南方系などいろいろな文化の諸要素が含まれていることも説明できますし、古事記・日本書紀のなかでもさまざまな話に変化して伝わっている理由もわかりますね。
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