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古事記・日本書紀のなかの史実 (58) ~須賀と須佐

ヤマタノオロチを退治したスサノオですが、その後クシナダヒメとと暮らす場所を求めて出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで

「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 」
(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を)


と詠みます。
そして、アシナヅチを呼んで「お前は私の宮の主となれ」と言い、名を稲田宮主須賀之八耳(イナダノミヤヌシスガノヤツミミ)神と名付けます。

まず須賀ですが、通説では、島根県雲南市大東町須賀にある須賀神社あたりとされています。

スサノオと妻のイナダヒメ、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(スガノユヤマヌシミナサロヒコヤシマノミコト。八島士奴美神)を主祭神とし、諏訪大社の分霊のタケミナカタを配祀する。

『古事記』によれば、スサノオはヤマタノオロチを退治した後、妻のイナダヒメとともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時にスサノオが詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」と称している。

天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰(スガネ)命であったものが、記紀神話の影響によりスサノオに結び付けられたとも考えられる。


背後にある八雲山には、夫婦岩と呼ばれる巨石と小祠があり、当社の奥宮となっている。この巨石は磐座であり、元は須賀の地の総氏神として信仰されていたものである。”(Wikipedia「須賀神社」より)

須賀神社






しかしながら、単純に須賀神社でいいのかという疑問があります。

まず注目は、
”本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰(スガネ)命であったものが、記紀神話の影響によりスサノオに結び付けられたとも考えられる。”
という指摘です。

神社の祭神は、必ずしも現在の祭神がもともとの祭神であるとは限りません。もともとの支配者の祭る神が、その支配者が征服された際に、征服者の神に代わることがしばしば起こります。須賀神社の場合も、その可能性があります。

門脇禎二氏(京都府立大学名誉教授)によれば、

”『古事記』『日本書紀』の出雲神話に出てくる地名や出雲関係の記事を拾っていきますと、どうしたことか、西方の斐伊川とその下流に関して出てくる話ばかりです。逆に申しますと、『記』『紀』には、出雲東部の意宇を中心とした歴史の動きはスポッと抜けているのです。”(「古代日本の「地域王国」と「ヤマト王権」上P14より)

”須佐の地域で語り継がれた話のなかに、須佐の首長の話もあったのだろうと思います。須佐之男命の須佐之男は、須佐の男という意味なのだろうと思います。

『記』『紀』に出てくる出雲の神話の原型は、すべて出雲西部の語部たちの間に語り伝えられてきたものが下敷きになっていたわけです。それが西部も統御した意宇の王たちに語り上げられ、さらに、意宇の王がヤマト朝廷の国造にされると、この出雲国造からヤマト朝廷に伝されたものだといえるようです。”(同上P41)

つまり出雲西部には、原イツモ国とでもいうべき巨大な勢力があり、国譲り神話など古事記・日本書紀に記載されている物語は、すべて彼らの神話だったというのです。

実際、出雲西部にある荒神谷遺跡からは、大量の銅剣358本の他、銅鐸、銅矛が発見されるなど、古代史をゆるがす画期となりました。

その後、東部のクニが勢力を拡大して原イズモ国を呑み込み、最終的にヤマト王権の支配下になったと述べています。

こうした動きのなかで、須賀神社とスサノオの結びつきが、あとから創られた可能性があります。

では、その西の勢力の中心は、どこにあったのでしょうか?

”スサノオの宮殿があったとされる地には須佐神社(島根県出雲市)がある。代々須佐神社の神職を務める稲田氏(後に須佐氏)はオオクニヌシの子孫であり、アシナヅチ・テナヅチから数えて2010年現在で78代目であるとしている。”(Wikipedia「アシナズチ・テナヅチ」より)

『出雲国風土記』に、スサノオが各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来スサノオの本宮とされた。社家の須佐氏は、オオクニヌシの子の賀夜奈流美命を祖とすると伝える。(Wikipedia「須佐神社」より)

古来、スサノオの本宮とされていること、社家の稲田氏(のち須佐氏)が古事記の
稲田宮主須賀之八耳と重なっていること、またオクニヌシの子孫と伝承されていることなど考えると、須佐神社こそ、スサノオの宮殿にふさわしいともいえます。

なお須佐神社の摂社に須賀神社があります。由緒は不明ですが、何らか関係している可能性がありますね。

須佐神社
須賀・須佐神社

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古事記・日本書紀のなかの史実 (57) ~草薙の剣

前回は、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣、十拳剣(とつかのつるぎ)についてでした。
もうひとつ重要な剣があります。

今一度、その描写を確認しましょう。
 
”準備をして待っているとヤマタノオロチがやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。ヤマタノオロチが酔って寝てしまうと、スサノオは十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀(くさなぎのたち)」(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))である。”

ヤマタノオロチの尾から出てきた剣、これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)別名あめのむらくものたちです。
草薙剣は、十拳剣より重要といえます。なぜなら、この太刀をアマテラスに献上しており、三種の神器の一つだからです。そしてその後、天孫降臨・ヤマトタケルの東征など、さまざまな重要な場面に登場します。

草薙剣1
草薙剣2


三種の神器の一つですが、実は現在見たことのある人はおらず、天皇でさえ見たことがないといわれています。

”綱吉時代に熱田神宮の改修工事があった時、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4~5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。
梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)の『玉籤集』裏書にある記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。

上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。

箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵で全てが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。
この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。

一方で、後藤守一は、(皇国史観の束縛がなくなった)太平洋戦争終戦翌年(1946年)に明治大学専門部地理歴史科(夜学)の講義で、神官が盗み見た剣は青黒かったとの伝承を紹介し、それが事実なら、赤く錆びる鉄製でなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性があるとの推測を述べた(聴講した考古学者大塚初重による回想)。

なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。”(Wikipedia「天叢雲剣」より)

以上からは、草薙剣は鉄製ではなく、青銅製の可能性が高いですね。もちろんこの剣が、本物であればの話ですが・・・


さてここで、ここで大きなポイントがあります。
十握剣の刃が草薙剣(くさなぎのつるぎ)に当たった際、刃が欠けたということです。つまり十握剣よりも草薙剣のほうが、強い剣だったということになります。
それほどまでに強い剣であればこそ、スサノオは草薙剣を高天原のアマテラスに献上したのでしょう。

これはよくよく考えると、不思議な話です。
普通であれば、征服者(スサノオ)の刀は強靭で、被征服者(ヤマタノオロチ)のもつ刀をいとも簡単に打ち砕いた、という描写にするでしょう。

このことは、征服者(スサ
ノオ)の持っていた武器より、被征服者(ヤマタノオロチ)の持っていた武器のほうが、性能が優れていた、つまり文化的に上であったことを象徴しているともいえます。

さらにまた草薙剣は、のちに三種の神器になってます。被征服者の剣を、わざわざ自らの神宝にするものでしょうか?
普通の感覚であればありえないと考えますが・・・

なぜそうしたのか?

それは
古事記・日本書紀編纂時において、もともとの出雲の支配者のほうが、渡来してきた自分たちより文化的に上であったという認識が一般的だった、ということを示しているのではないでしょうか? その霊力のある神剣をありがたくいただいて、自分たちの神宝にした、ということの表れとの見方も可能ですね。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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