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古事記・日本書紀のなかの史実 (71) ~ スサノオの神宝を奪う

オホナムチとスセリヒメは、スサノオが寝たすきに脱出を図ります。 

”この間に、スサノオの髪を取って、室の垂木という垂木に結びつけて、五百人もの人が引くほどの大きな磐石で室の戸を塞いで、妻のスセリヒメを背負って、スサノオの生太刀と生弓矢と天の詔琴(あめののりごと)を手に持って逃げ出しました。その時、その天の詔琴が樹に触れて大地が鳴り響きました。

寝ていたスサノオはその音を聞いて、目を覚まし、室を引き倒しました。けれども垂木に結んである髪を解いている間に、遠くにお逃げになりました。”

オホナムチはスセリヒメとともに、スサノオから生太刀と生弓矢と天の詔琴(あめののりごと)を奪って逃げだします。
ところでなぜここで生太刀と生弓矢と天の詔琴の3つを奪ったのでしょうか?

太刀と弓矢は武器ということでわかりますが、なぜ琴まで奪ったのでしょうか?
「スサノオは風流な人で、日ごろから琴を弾いて楽しんでいたのだ」などと考えてしまいますが、そうではありません。

以下引用します。
”「日本神話における琴と言霊とシャーマニズム」
古語の「ワザヲギ」とは、魂を招く作法である。その「ワザヲギ」の一種の言語精霊を呼び出す技法として、琴弾のワザがあった。つまり、神聖言語=神託・託宣を引き出す(弾き出す)モノとして琴が用いられ、「言」(観念あるいはこころ)と「事」(現実)とは「琴」弾きのワザによって媒介され結びつけられたのである。

その関係性を表現した伝承が神功皇后の神懸り(『日本書紀』では「帰神」)のくだりである。神功皇后は夫の仲哀天皇の弾く琴の音に導かれてトランス状態に入り、神懸りし、託宣を述べる(『日本書紀)では武内宿禰が琴弾となる』。その託宣を建内宿禰(武内宿禰)が「サニハ」(『古事記』では「沙庭」、『日本書紀』では「審神者」)し、神託の真偽判断と価値判断を行なった。その神懸りの儀礼において、「琴」は神託という「言」すなわち神聖言語を降ろすための媒体楽器として用いられている。こうして、「言」(観念世界)は「琴」(媒体)によって「事」(現実世界)に連動する。ここにおいて、琴弾という楽器演奏と神懸りはきわめて重要な聖なるワザ=「ワザヲギ」となるのである。

こうしてみると、『古事記』の中で、日本の和歌の濫觴とされるスサノヲノミコトが聖なる琴の原所有者であるという伝承が語られていることには大変深い意味があるということになる。根の国(音の国か?)の主であるスサノヲは、自身の神力を象徴する三つの神聖道具を持っている。①生太刀、②生弓矢、そして、③天詔琴の三つである。

刀と弓矢の二つは、スサノヲの武の力を象徴する。それに対して、琴はスサノヲの歌の力、言葉の力を象徴する。文武で言えば、「文」を象徴するのが、天詔琴である。刀と弓矢という武力=男性性と琴という文化力=女性性の両方をスサノヲは所有しているということである。したがって、この天詔琴は、その名のとおり、「天の言葉を詔ることを導く琴」を意味する。言霊の誘発剤が琴なのである。

この天詔琴はもともとスサノヲの所有であったが、オホナムヂの神に委譲され、その神聖楽器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し祝福を与えている。オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する①生太刀、②生弓矢、③天詔琴という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。”(鎌田東二編『モノ学の冒険』所収論文より、創元社、2009年12月刊)

つまり琴は、神の言葉を聴くためのモノである、ということです。そして生太刀・生矢・天の詔琴は、古代出雲の三種の神器であったということになります。その後も、日本各地で使われていたようです。

大刀・弓矢・琴の組み合わせは、五世紀前半頃に明確となる祭祀遺跡の出土品で多く見ることができる。明ヶ島古墳群五号墳(静岡県)の下層から出土した、五世紀前半頃の土製模造品では、この三種類の組み合わせを確認でき、五世紀後半の祭祀遺跡、山ノ花遺跡(静岡県)からは実用の木製の弓、倭系大刀の柄・鞘、琴が出土している。
少なくとも五世紀代には、多くの神祭りの場には、大刀・弓矢・琴は用意されていたと考えられ、それは神宮の神宝へと受け継がれた。神宮の神宝の性格から考えると、これらの品々は神の御料としての性格が推定でき、その伝統は、少なくとも五世紀前半に遡るのである。(国学院大学 器物データベース「大国主神と生太刀・生弓矢・天の沼琴」より)

この一方、天皇系(もとは北部九州系)の三種の神器は、八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉ですから、違いがあることがわかります。


神宝を奪うオオクニヌシ
ところで皆さんのなかには、こんなことを思う方もいるかもしれません。
「琴という楽器はそんなに古いものなのだろうか?。せいぜい古墳時代あたりに、中国から伝わったのではないだろうか?」
ところが近年、衝撃的な研究成果が発表されました。


”『世界最古の弦楽器か 3000年前、青森の遺跡から』
青森県八戸市にある紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)是川中居遺跡から出土した木製品が、現存する世界最古の弦楽器の可能性があることが、弘前学院大(青森県弘前市)の鈴木克彦講師(考古学)らの研究で28日までに分かった。
鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴の原型ではないか」と話している。

木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。
鈴木講師らによると、毛髪や麻などを素材とする弦を数本、穴に通して張り、指や木の枝ではじいて演奏したとみられるという。

世界最古の弦楽器は、中国湖北省随県で出土した紀元前433年ごろのものとされている。この木製品が弦楽器なら、それより500年余りさかのぼることになる。
是川中居遺跡では1926年以降、同じ形状の木製品が計20本発見されている。同様の木製品は、いずれも縄文時代の忍路土場遺跡(北海道小樽市)、松原内湖遺跡(滋賀県彦根市)、亀ケ岡遺跡(青森県つがる市)でも見つかっている。

鈴木講師は78年に弦楽器説を発表。滋賀県の発掘チームは機織り具と主張し、見解が分かれていた。鈴木講師は2008年夏ごろから再び研究を開始。機織りに役立たない突起や、作業の妨げになる穴があり、機織り具とは考えられないと結論づけた。
その上で弘前学院大の笹森建英特任教授(音楽学)とともに復元品を作製。笹森特任教授が実際に演奏し、弦楽器として使えることを証明した。2人は今年2月、報告書にまとめた。

鈴木講師は「シャーマン(呪術師)のような儀礼を取り仕切る人が、占いや祈りの際にはじいたのではないか」と話している。〔共同〕”(日本経済新聞WEB版、2012年4月28日)

縄文琴

なんと日本では、縄文時代から琴が使われていた、というのです。しかもことによると世界最古の可能性がある、ということです。世界最古かどうかはともかく、スサノオは、縄文時代からの祭祀の伝統を引き継いでいたともいえます。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (70) ~ オオクニヌシの試練

オホナムチは、蛇の部屋に寝かされましたが、ここから試練が始まります。

”スセリヒメは、蛇の比禮(ひれ)をオホナムチに授けて、「その蛇が食おうとしたら、この比禮を三回振って、打ち払いください」とおっしゃいました。いわれたとおりにすると、蛇は静まりました。かくして無事に寝て、翌朝蛇の室からお出でになりました。

また翌日の夜は、呉公(ムカデ)と蜂との部屋に入れられたましが、またムカデの比禮を授けて、先ほどの教えのとおりにしたので、簡単に部屋から出られました。

また鳴鏑(なりかぶら)を広い野に放ち、その矢を採ってくるように命じました。そしてオホナムチが野に入ったとき、火でぐるっと周囲を焼きました。どこから出ていいかわからなかったときに、ネズミがやってきて、「内はほらほら、外はずぶずぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)」といいました。

そこでそこを踏んでみると、そのほら穴の中に落ちて、身体が隠れ入った間に、火は穴の外を焼け過ぎました。ここでそのネズミは、その鳴鏑をくわえて持ってきてオホナムチに献上しました。その矢の羽は、ネズミの子が皆くわえてもってきました。

ここで妻のスセリヒメは、夫は死んだと思って、葬式の道具を持って泣きながら来ました。スサノオはすでにオホナムチが亡くなったと思ってその野にお出になりましたところ、オホナムチは矢を持ってきて差し上げました。

そこで家に連れてきて、広く大きな室屋に呼び入れて、スサノオの頭のシラミを取るように命じになりました。その頭を見ると、ムカデが多くいました。ここでスセリヒメが椋の実と赤土をオホナムチに授けました。オホナムチ椋の実を噛み砕き、赤土を口に含んで唾と共に吐き出したので、スサノオはムカデを噛み砕き吐き出したと思って、いとしい奴だと思って寝てしまった。


なんとも面白い話であり、かつまた細かい描写も見事で、物語としてたいへんよくできていますね。ここでいくつか解説します。

蛇の比禮(ひれ)
蛇を払う呪力をもった領布。領布とは、古代女子が頸にかけて左右にたらしたもの。

領布

鳴鏑(なりかぶら)
鏑のついた矢で、空中を飛ぶ時、鏑の穴に風が入って鳴るので、鳴鏑という

鳴鏑矢

オホナムチはスセリヒメのいうとおりに、椋の実をかみ砕き赤土をつばに含んで吐き捨てますが、スサノオはムカデをかみ砕いたのかと勘違いしたところが、なんかユーモラスですね。

スサノオがそんなオホナムチに対して、
”心に愛しく思ひて(いとしい奴だと思って)”
とあるのは、
あまりに一生懸命な姿に心を動かされたということでしょう。オホナムチとスセリヒメにしてみれば、してやったりといったところでしょうか。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (69) ~ アシハラシコヲ

オホナムチは、オホヤビコから言われたとおりに、木国からスサノオのもとに行きます。

”オホナムチは、オホヤビコのおっしゃるとおりに、スサノオのもとにやってきます。するとスサノオの娘のスセリヒメが出てきて、目と目を見合わせてそのまま結婚しました。
スセリヒメはスサノオのもとに戻ると、「とても麗しい神が来ました」とおっしゃいました。

スサノオが出てきて見ると「あれは葦原色許男(アシハラシコオ)という神だ」とおっしゃいまして、すぐにオホナムチを呼び入れて、蛇の部屋に寝かせました。

オホナムチは、スサノオの娘スセリヒメと
”目と目を見合わせてそのまま結婚した”
とあります。
原文には
「目合(まぐわい」とありますが、「まぐわい」とは男女の情交の意味もあります。古代は、性に関して現代では考えられないほど自由奔放だったという説もありますので、そういうことかもしれません。いずれにしろ出会ってすぐに結婚とは、さすが縁結びの神オオクニヌシです。

スサノオはオホナムチを見て
"あれは葦原色許男(アシハラシコオ)という神だ"
といいます。
ここで初めて物語のなかで「アシハラシコオ」が出てきます。
アシハラシコオですが、二つの解釈ができるという話を前にしました。

1.葦原色許男(古事記)
  葦原中国の頑丈で強い男神(肯定的表現)
2.
葦原醜男(日本書記)
  葦原中国の醜い男神(否定的表現)


さてここではどういう意味でしょうか?

オホナムチを見たスセリヒメが
”とても麗しい神が来ました”
とスサノオにいったのに対して、
スサノオが
”此は葦原色許男と謂ふぞ”
と言ったわけです。

単純に訳せば、
「これはアシハラシコオという神だぞ」
となります。
つまりスサノオはもともとオホナムチを知っていて、彼がアシハラシコオと呼ばれているのを知っていたようにとれます。

色許(シコ)は、他の人名でも肯定的に使われていることは前に紹介しましたが、詳しくみてみましょう。

”①頑強の意。②みにくい。いまいましい。
①は神代記に、イザナギが黄泉国においてイザナミの姿を見、驚いて逃げ帰る際、イザナミが「豫母都志許売(ヨモツシコメ)」を遣わしてイザナギを追わせたとある。
また、オホナムチが兄弟の八十神から逃れて根の堅州国を訪れたとき、麗しい神が来たと告げたスセリヒメに対して、父神であるスサノオ命が「此は葦原色許男(アシハラシコヲ)と謂ふぞ」と応えている。
オホナムチ即ちオオクニヌシの亦の名が葦原色許男(アシハラシコヲ)であり、葦原中国の頑強な男という意に解される。神代紀第八段一書第六にもオオクニヌシの亦の名として「葦原醜男」とある。葦原中国を支配する力に対して「しこ」という表現が用いられているとみられる。

また、ヨモツシコメはイザナギにとって異界である黄泉国に属する存在であり、アシハラシコヲは根之堅州国に坐すスサノオにとって、やはり異界である葦原中国の神であることから、「しこ」にはこの世ならぬ強力さを表す意があるとも考えられる。

②は万葉集に、恋の苦しみを忘れさせてくれるはずの忘れ草の効き目のないことを罵った「醜の醜草(鬼乃志許草)」(4-727、12-3062)や、鳴き声で橘の花を散らせてしまう「醜霍公鳥(しこほととぎす)」(8-1507)、逆に来て鳴いて欲しいときに来てくれない「醜霍公鳥」(10-1951)のほか、「小屋の醜屋」・「醜の醜手(鬼乃四忌手)」(13-3270)「媿士(しこを)」(16-3821)「醜つ翁」(17-4011)など、みにくい或いはいまいましい対象を罵倒する表現として見られる。

また、「醜の丈夫(鬼乃益卜雄)」(2-117)「醜の御楯」(20-4373)など、自己を卑下して用いる場合も認められる。この世ならぬ頑強さの表現であった「しこ」が、それに付随する恐ろしさなどから、みにくさやいまいましさなどの意へと転じたものか。
(国学院大学デジタルミュージアム 「しこ、醜」より) 

つまりもともとは異界の力強さを表す肯定的な表現であったものが、やがてみにくい、いまいましいなどの否定的表現に変わっていったようです。そうしたなかで日本書記で葦原醜男と表記されたのであり、同時に出雲の王であるオホナムチを貶めるためという意味合いもあったと推察されます。

大国主神像
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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