古事記・日本書紀のなかの史実 (72) ~ スサノオの三種の神器を奪う
オホナムチは、スセリヒメとともに、スサノオの根の堅州国から逃げ出します。
”スサノオは黄泉平坂(よもつひらさか)まで追ってきて、遥かに二人を眺めて、オホナムチに呼んで言うには、
「お前が手にしている生太刀・生弓矢で、兄弟を坂の裾くびれたところに追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主(オオクニヌシ)神となり、また宇都志国玉(ウツシクニタマ)神となれ。そして私の娘のスセリヒメを正妻として、宇賀の山のふもとに、地底の磐に宮殿の柱を太く掘り立て、高天原に肱木(ひじき)の届くほどに屋根の高い、立派な宮殿を構えて住め。この賤しい奴め」
そこであのオホナムチはその太刀と弓矢を持って、ヤソガミを負い撃つときに、坂の裾という裾で追い伏せ、河の瀬という瀬で追い払い、国造りをお始めになられた。”
スサノオはオホナムチを追いますが、黄泉平坂(よもつひらさか)であきらめます。黄泉平坂は、
前に、イザナギが黄泉の国から脱出する際に、追いかけてきたイザナミを大岩で塞いで出れないようにした場所です。島根県松江市東出雲町が伝承地です。

ここでオホナムチに言った言葉が、興味深いです。
普通であれば、「この野郎」などと憎まれ口をたたくところですが、なんと兄弟つまり八十神からの追い払い方を教え、さらにはオオクニヌシ・ウツシクニタマという名前まで与えてます。
ここでオオクニヌシとウツシクニタマはわかりやすく漢字にすれば、「大国主」「顕し国玉」となります。
両神は、
オオクニヌシ=武力的(政治的)支配力・・生太刀と生弓矢
ウツシクニタマ=呪的宗教的支配力・・天の詔琴
という関係になります。
以上の意味について
”この天詔琴はもともとスサノヲの所有であったが、オホナムヂの神に委譲され、その神聖楽器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し祝福を与えている。オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する①生太刀、②生弓矢、③天詔琴という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。”(鎌田東二編『モノ学の冒険』所収論文より、創元社、2009年12月刊)
との指摘があります。
スサノオにしてみれば、オホナムチと自分の娘のスセリヒメにしてやられたわけですが、最後にはオホナムチを自分の後継者と認めたのだという内容です。三種の神器を奪われたから仕方ないともいえますが、スサノオ自身、きっぱりとしたあきらめがいい性格だったようにもとれるところです。
さて、スセリヒメと住むことになる宮殿の宇賀の山のふもとですが、出雲国風土記に、出雲郡宇賀郷(うか)があり、現在の出雲市国富、口宇賀、奥宇賀唐川、猪目地区あたりとされています。ここに立派な宮殿を建てて住んだことになります。
これが実際にどこなのか詳細は定かではありません。オホナムチはこの後、国譲りをして出雲大社近辺に住むことになりますが、出雲大社からは距離があるので、別の場所かと思われます。
オホナムチは、ヤソガミを追い払いますが、その場所について、出雲国風土記の大原郡来次(きすぎ)の郷には次の記載があります。
”天の下をお造りなされた大神の命がみことのりして、「八十神は青垣山のうちは置かないぞ」と仰せられて追い払われたとき、ここまで追って来過(きすぎ)なされた。だから来次(きすぎ)という。”(「風土記」吉野裕訳より)
前に、来次郷がヤソガミに追われたオホナムチが逃げた木国ではないか、という話をしましたが、その論拠がこの記載でした。
また城名樋(きなひ)山の項に
”天の下をお造りなされた大神オホナムチが八十神を伐とうとして城(き)をお造りになった。それゆえに城名樋(きなひ)という”
との記載もあります。
城名樋山とは、妙見山のこととされています。城(き)が木国の木(き)と関連している可能性もあります。

以上、神話に出てきた地名を落とすと、次の図のようになります。
因幡国 ⇒ 伯耆国 ⇒ 出雲国
と、オホナムチの動きがきれいに整理できますね。

↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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”スサノオは黄泉平坂(よもつひらさか)まで追ってきて、遥かに二人を眺めて、オホナムチに呼んで言うには、
「お前が手にしている生太刀・生弓矢で、兄弟を坂の裾くびれたところに追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主(オオクニヌシ)神となり、また宇都志国玉(ウツシクニタマ)神となれ。そして私の娘のスセリヒメを正妻として、宇賀の山のふもとに、地底の磐に宮殿の柱を太く掘り立て、高天原に肱木(ひじき)の届くほどに屋根の高い、立派な宮殿を構えて住め。この賤しい奴め」
そこであのオホナムチはその太刀と弓矢を持って、ヤソガミを負い撃つときに、坂の裾という裾で追い伏せ、河の瀬という瀬で追い払い、国造りをお始めになられた。”
スサノオはオホナムチを追いますが、黄泉平坂(よもつひらさか)であきらめます。黄泉平坂は、
前に、イザナギが黄泉の国から脱出する際に、追いかけてきたイザナミを大岩で塞いで出れないようにした場所です。島根県松江市東出雲町が伝承地です。

ここでオホナムチに言った言葉が、興味深いです。
普通であれば、「この野郎」などと憎まれ口をたたくところですが、なんと兄弟つまり八十神からの追い払い方を教え、さらにはオオクニヌシ・ウツシクニタマという名前まで与えてます。
ここでオオクニヌシとウツシクニタマはわかりやすく漢字にすれば、「大国主」「顕し国玉」となります。
両神は、
オオクニヌシ=武力的(政治的)支配力・・生太刀と生弓矢
ウツシクニタマ=呪的宗教的支配力・・天の詔琴
という関係になります。
以上の意味について
”この天詔琴はもともとスサノヲの所有であったが、オホナムヂの神に委譲され、その神聖楽器の委譲に際して、スサノヲはオホナムヂにこれより「大国主神」と名乗れと命名し祝福を与えている。オホナムヂ=大国主神は、スサノヲノミコトの神性と神力を象徴する①生太刀、②生弓矢、③天詔琴という三種の神器を継承し、スサノヲの娘のスセリヒメを正妻とすることによって、スサノヲの威力を継承した正当な後継者と認定されたわけである。”(鎌田東二編『モノ学の冒険』所収論文より、創元社、2009年12月刊)
との指摘があります。
スサノオにしてみれば、オホナムチと自分の娘のスセリヒメにしてやられたわけですが、最後にはオホナムチを自分の後継者と認めたのだという内容です。三種の神器を奪われたから仕方ないともいえますが、スサノオ自身、きっぱりとしたあきらめがいい性格だったようにもとれるところです。
さて、スセリヒメと住むことになる宮殿の宇賀の山のふもとですが、出雲国風土記に、出雲郡宇賀郷(うか)があり、現在の出雲市国富、口宇賀、奥宇賀唐川、猪目地区あたりとされています。ここに立派な宮殿を建てて住んだことになります。
これが実際にどこなのか詳細は定かではありません。オホナムチはこの後、国譲りをして出雲大社近辺に住むことになりますが、出雲大社からは距離があるので、別の場所かと思われます。
オホナムチは、ヤソガミを追い払いますが、その場所について、出雲国風土記の大原郡来次(きすぎ)の郷には次の記載があります。
”天の下をお造りなされた大神の命がみことのりして、「八十神は青垣山のうちは置かないぞ」と仰せられて追い払われたとき、ここまで追って来過(きすぎ)なされた。だから来次(きすぎ)という。”(「風土記」吉野裕訳より)
前に、来次郷がヤソガミに追われたオホナムチが逃げた木国ではないか、という話をしましたが、その論拠がこの記載でした。
また城名樋(きなひ)山の項に
”天の下をお造りなされた大神オホナムチが八十神を伐とうとして城(き)をお造りになった。それゆえに城名樋(きなひ)という”
との記載もあります。
城名樋山とは、妙見山のこととされています。城(き)が木国の木(き)と関連している可能性もあります。

以上、神話に出てきた地名を落とすと、次の図のようになります。
因幡国 ⇒ 伯耆国 ⇒ 出雲国
と、オホナムチの動きがきれいに整理できますね。

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