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古事記・日本書紀のなかの史実 (76) ~オオクニヌシ、倭国に上るときの歌

オオクニヌシはヌナカワヒメに妻問をして結ばれますが、おさまらないのは正妻のスセリヒメです。当然のことながら嫉妬します。
オオクニヌシは困惑して、出雲から倭国に上ろう(旅立とう)とします。

通説では「倭国」とは「大和」すなわち奈良のことを指しているとされますが、はたしてそうでしょうか?
そもそもここまで大和のことは、一切出てきません。ここにいきなり大和の話が出てくるのは、あまりに唐突です。

では倭国とは、どこのことでしょうか?

ひとつのヒントは、倭国に「上る」という表記です。
”出雲より倭国に上り坐さむとして”
とあります。

これまで高天原へいくときに「上る」と表現されてます。たとえばスサノオが高天原のアマテラスに会いに行くときに、
”天(あめ)に参上(まいのぼ)る時”
とあります。

その反対に、高天原から周辺のクニへ行くときに、「降(くだ)る」と表現されてました。スサノオが高天原から出雲に来たときです。
”出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降(くだ)りたまひき”
私は高天原とは、対馬・壱岐を中心とした領域とみてます。

そうなると「上る」とは、出雲からみて高天原方面へ行くことを示していることになります。この「上る」とは、対馬海流に対して「上る」と表記しているのではないか、という仮説も立てられます。

ところで、福岡県の志賀島で出土した金印には、「漢委奴国王」と刻印されてます。
「漢委奴国」「漢の倭奴国」であり、
倭奴国」=「倭国」のことです。
この倭国とは北部九州にあったクニと考えられることは、これまでに繰り返しお話してきました。

もうひとつ、挙げましょう。
このあとオオクニヌシとスセリヒメが歌を交わしたあと、系譜が記載されてます。その冒頭に出てくるのが、タキリヒメです。

”故、此の大國主神、胸形の奧津宮に坐す神多紀理毘賣命を娶して生める子は、・・”

タキリヒメは宗像の沖ノ島の神、すなわち北部九州の神です。このことからも、倭国は北部九州の国であることがわかります。

対馬海流

ここからオオクニヌシの歌です。

”いま旅たちにあたって、
射玉(ひおうぎ)の実のように黒い着物を、
身じまいよく身につけて、
沖に遊ぶ水鳥が、頸を曲げて胸毛つくろうように、
袖をたぐり己(おの)が姿を見ても、
この着物は私には似合わない。
磯打つ波の引くように、我がうしろに脱ぎ棄てよ。

翡翠(カワセミ)の羽のような青い着物を、
身じまいよく身に着けて、
沖に遊ぶ水鳥が、頸を曲げて胸毛つくろうように、
袖をたぐり己(おの)が姿を見ても、
この着物も私には似合わない。
磯打つ波の引くように、我がうしろに脱ぎ棄てよ。

山の畑に撒(ま)いて育てた、
藍蓼(あいだて)の草を臼に舂(つ)き、
その染草(そめくさ)の藍の汁で、
藍に染めたこの着物を、
身じまいよく身につけて、
沖に遊ぶ水鳥が、頸を曲げて胸毛つくろうように、
袖をたぐり己(おの)が姿を見るに、
旅に行く私の身に、この着物はよく似合う。

いとしい我妻よ、
むらがり飛ぶ鳥のように、
皆の者を引き連れて私が飛んでいってしまったなら、
引かれて飛ぶ鳥のように、
連れたって私が飛んでいってしまったなら、
泣かないとお前は言っても、
人けない山のほとりの、一本の薄(すすき)のように、
首うなだれてお前は泣くだろう。

お前の嘆く息は、
朝じめりの雨のように、仄(ほの)かな霧となって立つだろう。
萌(も)え出でる若草よりも、
なよやかな我が妻よ。

これをば事件を伝える語り言としようよ>"

着物を注意深く選ぶなど、旅に出る前の心躍る様子がありありと伝わってきます。それにしても、自分が旅立つと妻が嘆く悲しむことを知っていながら、妻に冷静に歌いかけるのも、今の感覚ではありえないですね。

ところでオオクニヌシは、何のために倭国へ行くのでしょうか?
それは次のスセリヒメの歌でわかります。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (75) ~妻問いの歌

ヤチホコすなわちオオクニヌシは、高志国のヌナカワヒメと結婚しようとして出かけて、ヌナカワヒメの家にやってきて、歌を歌います。

ここで注目は、”出かける”というところが、”幸行(い)でましし”という表記になっていることです。

”古事記でイデマスに「幸」の字を使っているのは、天皇・倭建命及び尊貴な神の場合に限られる(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注))。”
とあります。
つまりヤチホコに対して、天皇にも匹敵する表現をしていることになります。
これをどのように解釈すればいのでしょうか?

普通に考えれば、当時ヤチホコは、後世の天皇にも匹敵する絶大なる支配者であったということです。その支配領域がどこかは定かではありませんが、少なくとも出雲地方一帯では、ということでしょう。

また、家の前にやってきて歌を歌う、というのは、妻問い婚が一般的であったことを示していますね。

”日本に置いて妻問婚は、飛鳥・奈良時代に先立つ古墳時代に一般的であったと考えられている。妻と夫はそれぞれの氏族で居住し、妻の財産は妻方の氏族が、夫の財産は夫方の氏族が管理した。
求婚は「ヨバヒ」といい、女が許せばその場で結婚が成立した。ヨバヒには戸口などから女を呼ぶだけといった形から、歌の贈答を経るものもあったらしい。”(Wikipedia「妻問い婚」より)


以下歌の全訳です。訳は「現代語訳 古事記」(福永武彦訳)からです。なお<>部は、「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)を参考にしてます。

”ヤチホコの名前をもつ尊い神の命(みこと)は、
この大八島国の隅々まで、妻なるひとを求め歩いたが、
その人をどこにも求め得なかった。

遠い遠い高志(こし)の国
心ばえのすぐれた女がいるとお聞きになり、
姿かたちのうるわしい女がいるとお聞きになり、
妻にしようとお出かけになった。

空しく幾たびも通ってこられた。
太刀の下げ緒もまだ解くことがなく、
顔をかくした襲(おすい)もいまだ解くにいたらない。

恋しい処女(おとめ)の、籠もり寝ている寝屋の板戸を
押しあぐみ私は立っている。
引きあぐみ私は立っている。

このつれない板戸の前に、空しく私のたたずむ間に
いつしか夜はふけ、青山のほうで怨むように
鵺(ぬえ)が鳴いている。
野原の向こうから雉(きじ)の鳴声が響いている。
庭に飼う鶏(かけ)さえも、はや暁を告げ始めた。

なんという怨めしい鳥どもだろう。

私も焦がれ死にに死のうから、あの鳥どもも打ち殺して、
朝を促すのをやめさせたいものだ。

<空をかける使(鳥)よ
これをば事件を伝える語り言としようよ>”

と歌いました。
ところでヤチホコすなわちオオクニヌシは、これまでに
稲羽のヤガミヒメ
スサノオの娘であるスセリヒメ

を娶ってます。
それにもかかわらず、”妻を娶ることができないで”、というのはどういうことでしょうか?

当時の支配者は多くの妻をもつことが普通だったから、そういっているのだろう、というのが一般的な解釈でしょう。
あるいはオオクニヌシのモデルとなる支配者がたくさんいて、ヤチホコやオホナムチもその一人だった。そのなかの一人の物語だったという可能性もありますね。

さて、ヌナカワヒメは戸を開けずに家の内より歌います。

”ヤチホコの名前を持つ、尊い命は、
そのようにおおせられますけれども、
私は風に吹かれてそよぐ、
草のような処女(おとめ)にすぎません。

あなたがお呼びになったところで、
どうして出て逢われましょうか。

私の心は、浦の渚に住む鳥でございます。
今は私の心のままにしておりますが、
いつかはあなたに抱かれる鳥となるので
ございますから、

この恋のために、
ゆめゆめお命をお捨てになっては
なりません。

<空をかける使(鳥)よ
これをば事件を伝える語り言としようよ>

青山に太陽が隠れ、
射玉(ひおうぎ)の実のように黒い夜ともなれば、
戸を開いてあなたをお迎えいたしましょう。

朝日が華やかに射し込むように、
あなたは嬉しげな顔を見せてお出でになり、
栲(たく、コウゾ)の皮の緒綱(おづな)のように
白い腕(かいな)で
泡雪のようにやわらかな、私の若々しい胸を、
抱きしめ抱きしめて、
玉のようなあなたの手と、
玉のような私の手とを、
互いに取り合い枕として、

足を長くうち延ばして、
安らかに寝ましょうものを。

どうぞそんなに夢中になって、
私を恋い焦がれないでくださいまし。

<ヤチホコの名前を持つ、尊い命よ
これをば事件を伝える語り言としようよ>”

と歌いました。福永武彦氏の訳は意訳で、文学的な解釈が多用されてます。そのせいもありますが、なんともなまめかしい表現ですね。

二人は、その夜は逢わずに、次の日の夜、逢って結ばれます。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (74) ~ヌナカワヒメ

オホナムチすなわちオオクニヌシは、出雲の国を治めることに成功しました。

ヤガミヒメは先の約束通りに結婚なさった。そして、そのヤガミヒメは、連れて来られたのだが、その本妻のスセリビメを恐れて、その生んだ子を木の俣に刺し挟んで帰っていった。そこでその子を名付けて木の俣(キノマタ)神と言い、またの名を御井(ミヰ)神と言う。”

オホナムチは、いなばの素兎に出てきたヤガミヒメを因幡国から連れてきて結婚します。ところが正妻のスセリヒメがこわくて、ヤガミヒメは因幡国に帰ってしまいます。ちなみにかつて因幡国には八上郡がありましたから、ここがヤガミヒメの出身とされていたことになります。

子の木の俣神はよくわからない神ですが、前にヤソガミから逃れるためにオホヤビコのいる木国へ行ったオホナムチが、オホヤビコに木の俣から逃してくれたことと関係あるかもしれません。一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されています。

ここから突然、オホナムチの名は八矛(ヤチホコ)神になり、高志(こし)国の沼河比売(ヌナカワヒメ)と結婚しようと向かいます。

まずヤチホコです。古事記でヤチホコという神名が登場するのは、このヌナカハヒメの家を訪ねるという場面と、倭国へ出発しようとするオホナムチに対して、妻であるスセリヒメが、行った先々で別の女性たちと親しくするのでしょうと嫉妬する場面においてです。

ヤチホコは女神と艶っぽいやりとりをする神として登場しており、一見、色好みの存在という印象だけを与えているようであるが、どちらの記述でも、出雲から遠く離れた場所への言及があるという点が重要である。このように遠く離れた場所に行くのは、女性に会うためだけではないだろう。「多くの矛(を持つ者)」というのは、単に所持している武器を多さを示すものではなく、多くの戦いを繰り広げていることを示していると理解すべきであろう。”(古事記神話におけるオオクニヌシとウツシクニタマ」(岸根敏幸)より)

ようは、地方征服譚でもあるということです。かつては戦に敗れた支配者(支配者が男性の場合はその妻)は相手のものになるということがありましたから、その文脈で理解すれば、よくわかります。

そして矛の名のとおり、この話は、銅矛祭祀圏内の説話であることがわかります。

次に、ヤチホコが結婚しようとしたした高志(こし)国の沼河比売(ヌナカワヒメ)です。

”『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。また諏訪でも建御名方神の母を沼河比売とする。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。なお奴奈川神社の創建は、成務天皇の御代に市入命が沼河比売の子建沼河男命の後裔長比売命を娶って創建したと伝わる。

十日町市犬伏の松苧神社の縁起には、奴奈川姫が松と苧(カラムシ)を携えて南方からこの神社まで逃亡してきたことが伝えられている。
また、長野県にも沼河比売を祭る神社があり、姫の乗っていた鹿のものとされる馬蹄石がのこされている。
諏訪大社の下社にも八坂刀売神や建御名方神と共に祀られ、子宝・安産の神として信仰されている。

『万葉集』に詠まれた
渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳)
の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。”(Wikipedia「ヌナカワヒメ」より)

ヌナカワヒメは、新潟県糸魚川市の姫川流域を治めた女王であったようです。糸魚川といえば日本屈指のヒスイの産地ですから、ヒスイの女王であったともいえます。

興味深いのは、伝承で、子にタテミナカタの名があることです。
タテミナカタは、これから出てくる国譲り神話において登場します。タテミナカタは、アマテラスから国譲りの交渉に派遣された建御雷之男神(タケミカヅチノオ)と争いますが破れます。タケミカヅチノオはタテミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとしますが、ついにタテミナカタが降参するというストーリーです。

以前、なぜ出雲で争ったのに、最終的にはるか遠くの長野まで、しかも山奥の諏訪まではるばる逃げたのか腑に落ちず、日本海を介した交流があったのか、という程度の認識でした。それにしても遠すぎますよね。

ところが、タテミナカタがヌナカワヒメの子であれば、姫川流域は実家の支配地です。
姫川を遡上すれば諏訪方面までたどり着けます。糸魚川静岡構造線に沿ったルートで、比較的平坦な地勢です。古代から重要な交通ルートであり、人の行き来がありましたから、俄然リアリティのある話になりますね。

姫川~諏訪



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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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