古事記・日本書紀のなかの史実 (79) ~オオクニヌシの子 アジスキタカヒコネ
ところで古事記には、
”アジスキタカヒコネは、今、迦毛大御(カモノオホミ)神と謂ふぞ。”
とあり、大御神という最高の敬語が用いられています。古事記で大御神と記載されるのは、カモ以外はイザナギとアマテラスだけです。これはどういうことでしょうか?
出雲国造神賀詞に
「アジスキタカヒコネの命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」
延喜式神名帳大和国葛上郡十七座の中に
「高鴨アジスキタカヒコネ命神社四座」
とあります。
こうしたことから
”この神の本縁は大和国葛城地方、鴨氏の祭神と思われる。”(国学院大学「古典文化学」事業HP、神名データベース「阿遅志貴高日子根神」より)
ともされます。つまりもともとは大和出身とする説がありますが、そうでしょうか?
出雲国造神詞のこの部分について、たいへん興味深い考察があるので、紹介します。著者は門脇 氏です。
”出雲国造神詞は、新任の出雲国造がヤマトに赴いて奏上した賀詞(よごと)である。すなわち、出雲国造が国内百八十六社を忌(いわ)い静めて賀詞の奏上を述べ、高天原のタカムスビ(高御魂)神の命によるアメノホヒ(天穂比)神・アメノヒナトリ(天夷鳥)による出雲平定と出雲のオホナモチ(大穴持)神の服従の由来と祝いの神宝(かむたから)奏上を述べ、最後に献上の品々になぞらえながら出雲の神々の言寿(ことほ)ぎの詞章を奏上するのである。・・わたくしがとくに重視したいのは、出雲のオホナモチ神が、自分の和魂(にぎたま)と子の神々の和魂を大和に「皇孫(すめみま)の命の近き守神」として貢(たてまつ)り鎮座させた件(くだり)である。
すなわち次のような関係になる。
大物主櫛𤭖玉命(オオモノヌシクシミカタマノミコト、オホナモチ神の和魂)
⇒ 大御和(三輪山)の神奈備に
子神の阿遅須岐高孫根命(アヂスキタカヒコネノミコト)の和魂
⇒ 葛木(かづらき)の鴨の神奈備に
事代主命(コトシロヌシノミコト)の和魂
⇒ 雲梯(うなて)の神奈備に
賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の和魂
⇒ 飛鳥(あすか)の神奈備に
つまり、東西は三輪山と葛城山、南北は飛鳥と雲梯が「皇孫の命」の住む所の四囲と意識されているわけである。”(「古代出雲」(門脇禎二)P249-250)”
図示すると次のようになります。

"・・・大和盆地の東部の元来の倭国の主神は、倭大国魂(わこくおおくにたま)神であった。しかし、のちの律令制下のほぼ「畿内」の範囲をすでに支配領域にした「大倭国」(これを「ヤマト王国」とする)は、祭祀体制の主神を三輪山の大物主神にした。つまり、『記』『紀』が最初の「倭国」の王が祀ったとする天照大神・倭大国魂神ではなく、大物主神を主とし倭大国魂神を並祭する組織を整えた。この大物主神を中心に三輪山の神なびに籠る神々が、ヤマト王国の大王の祭政を支えていた。オホナモチ神の和魂は、この段階の三輪の神なびに貢り置かれたのである。”(同上P255-256)”
多くの神名が出てきてややこしいのですが、
<第一段階>倭国の最初の神・・天照大神、倭大国魂神を並祭
↓
<第二段階>倭国の次の段階・・倭大国魂神
↓
<第三段階>大倭国(ヤマト王国)になったのちの神・・大物主神、倭大国魂神を並祭
という流れです。なぜ当初祭られていた天照大神がいなくなったのかという話は、いずれということにします。いずれにしろ第三段階において、オホナモチ神の和魂は、三輪の神奈備に置かれたとしています。
そして同時に、アジスキタカヒコネ、コトシロヌシ、カヤナルミの三神も、それぞれ上図の神奈備に置かれたとしています。さらに、
”・・・『出雲国風土記』には確かに大巳貴神の子神とあり、塩冶比古(ヤムヤビコ)命の父とされるので、塩冶を中心に斐伊川下流域で育まれた神である。”(同上P256)
とあります。
こうしたことからみると、アジスキタカヒコネはもともとは出雲の最高神であり、のちに大和で信仰されるようになったとするのが自然ですね。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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”アジスキタカヒコネは、今、迦毛大御(カモノオホミ)神と謂ふぞ。”
とあり、大御神という最高の敬語が用いられています。古事記で大御神と記載されるのは、カモ以外はイザナギとアマテラスだけです。これはどういうことでしょうか?
出雲国造神賀詞に
「アジスキタカヒコネの命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」
延喜式神名帳大和国葛上郡十七座の中に
「高鴨アジスキタカヒコネ命神社四座」
とあります。
こうしたことから
”この神の本縁は大和国葛城地方、鴨氏の祭神と思われる。”(国学院大学「古典文化学」事業HP、神名データベース「阿遅志貴高日子根神」より)
ともされます。つまりもともとは大和出身とする説がありますが、そうでしょうか?
出雲国造神詞のこの部分について、たいへん興味深い考察があるので、紹介します。著者は門脇 氏です。
”出雲国造神詞は、新任の出雲国造がヤマトに赴いて奏上した賀詞(よごと)である。すなわち、出雲国造が国内百八十六社を忌(いわ)い静めて賀詞の奏上を述べ、高天原のタカムスビ(高御魂)神の命によるアメノホヒ(天穂比)神・アメノヒナトリ(天夷鳥)による出雲平定と出雲のオホナモチ(大穴持)神の服従の由来と祝いの神宝(かむたから)奏上を述べ、最後に献上の品々になぞらえながら出雲の神々の言寿(ことほ)ぎの詞章を奏上するのである。・・わたくしがとくに重視したいのは、出雲のオホナモチ神が、自分の和魂(にぎたま)と子の神々の和魂を大和に「皇孫(すめみま)の命の近き守神」として貢(たてまつ)り鎮座させた件(くだり)である。
すなわち次のような関係になる。
大物主櫛𤭖玉命(オオモノヌシクシミカタマノミコト、オホナモチ神の和魂)
⇒ 大御和(三輪山)の神奈備に
子神の阿遅須岐高孫根命(アヂスキタカヒコネノミコト)の和魂
⇒ 葛木(かづらき)の鴨の神奈備に
事代主命(コトシロヌシノミコト)の和魂
⇒ 雲梯(うなて)の神奈備に
賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の和魂
⇒ 飛鳥(あすか)の神奈備に
つまり、東西は三輪山と葛城山、南北は飛鳥と雲梯が「皇孫の命」の住む所の四囲と意識されているわけである。”(「古代出雲」(門脇禎二)P249-250)”
図示すると次のようになります。

"・・・大和盆地の東部の元来の倭国の主神は、倭大国魂(わこくおおくにたま)神であった。しかし、のちの律令制下のほぼ「畿内」の範囲をすでに支配領域にした「大倭国」(これを「ヤマト王国」とする)は、祭祀体制の主神を三輪山の大物主神にした。つまり、『記』『紀』が最初の「倭国」の王が祀ったとする天照大神・倭大国魂神ではなく、大物主神を主とし倭大国魂神を並祭する組織を整えた。この大物主神を中心に三輪山の神なびに籠る神々が、ヤマト王国の大王の祭政を支えていた。オホナモチ神の和魂は、この段階の三輪の神なびに貢り置かれたのである。”(同上P255-256)”
多くの神名が出てきてややこしいのですが、
<第一段階>倭国の最初の神・・天照大神、倭大国魂神を並祭
↓
<第二段階>倭国の次の段階・・倭大国魂神
↓
<第三段階>大倭国(ヤマト王国)になったのちの神・・大物主神、倭大国魂神を並祭
という流れです。なぜ当初祭られていた天照大神がいなくなったのかという話は、いずれということにします。いずれにしろ第三段階において、オホナモチ神の和魂は、三輪の神奈備に置かれたとしています。
そして同時に、アジスキタカヒコネ、コトシロヌシ、カヤナルミの三神も、それぞれ上図の神奈備に置かれたとしています。さらに、
”・・・『出雲国風土記』には確かに大巳貴神の子神とあり、塩冶比古(ヤムヤビコ)命の父とされるので、塩冶を中心に斐伊川下流域で育まれた神である。”(同上P256)
とあります。
こうしたことからみると、アジスキタカヒコネはもともとは出雲の最高神であり、のちに大和で信仰されるようになったとするのが自然ですね。
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