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古事記・日本書紀のなかの史実 (83) ~ 出雲の倭

オオクニヌシの国造りの続きです。古事記の訳を再掲します。

 オオクニヌシが出雲の美保岬にいたとき、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服とする小さな神が、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。

オオクニヌシはその小さな神に名を尋ねたが、答えがなく、従者もその名を知らなかった。そこにヒキガエルの多邇具久(タニグク)が現れて、「これは久延毘古(クエビコ)なら知っているでしょう」と言ったクエビコに尋ねると、「その神はカミムスヒの御子の少名毘古那(スクナビコナ)神である」と答えた。
クエビコは山田のかかしで、歩行できないが、天下のことは何でも知っている神である。

カミムスヒはスクナビコナを自分の子と認め、スクナヒコナにオオクニヌシと一緒に国造りをするように言った。オオクニヌシとスクナヒコナは協力して葦原中国の国造りを行った。その後、スクナヒコナは常世に去った

オオクニヌシは、「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。
その神は、「丁重に私を祀れば、国造りに協力しよう」と言った。どう祀るのかと問うと、の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山に鎮座する神である。”(Wikipedia「大国主の国づ
くり」古事記訳を一部修正)

オオクニヌシは、スクナビコナとともに国造りをしますが、突然常世に去ってしまいます。このときオオクニヌシが
「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と嘆いたことからして、まだ国造りは完成してないことは明らかです。ではなぜスクナビコナは、急に去ってしまったのでしょうか?

それは、スクナビコナにモデルとなる誰かがいたとした場合、その人が亡くなってしまったからではないでしょうか。行った先が「常世」ということが、このことを暗示しているように思われます。

さてここで海を照らしてやってくる神がいました。その神について、古事記にはありませんが、日本書紀には「オオクニヌシの幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)」とあります。
その神が、
”自分をの東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山に鎮座する神である。”とあります。
原文を読み下すと
”「吾(われ)をばの青垣の東の山に伊都岐(いつき)奉れ。」と答え言(の)りたまひき。此(こ)は御諸山の上(へ)に坐(ま)す神なり。”


これを日本書紀では
倭 ⇒ 日本国
御諸山に鎮座する神 ⇒ 大三輪(おおみわ)の神(=奈良の三輪山の神=オオモノヌシ)

としています。

通説でも、
”御諸山は三輪山。延喜式神名帳に「大和国城上郡、大神(オホミワ)大物主神社」とある。今の大神(おおみわ)神社。書紀の一書には「此大三輪之神也」とある。
また出雲国造神賀詞には、この神の鎮座地に関して、
「大穴持命の申し給はく、皇御孫の命の鎮まり坐さむ大倭の国と申して、己れ命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭の大物主櫛
𤭖玉(オオモノヌシクシミカタマ)の命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せて、云々」と伝えている。”(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P109より)
となっています。

ところで前に、大穴持(オホアナモチ)命すなわちオオクニヌシの和魂を、三輪の神奈備に鎮座させた話をしました。

再掲すると、
出雲国造神詞は、新任の出雲国造がヤマトに赴いて奏上した賀詞(よごと)である。すなわち、出雲国造が国内百八十六社を忌(いわ)い静めて賀詞の奏上を述べ、高天原のタカムスビ(高御魂)神の命によるアメノホヒ(天穂比)神・アメノヒナトリ(天夷鳥)による出雲平定と出雲のオホナモチ(大穴持)神の服従の由来と祝いの神宝(かむたから)奏上を述べ、最後に献上の品々になぞらえながら出雲の神々の言寿(ことほ)ぎの詞章を奏上するのである。・・わたくしがとくに重視したいのは、出雲のオホナモチ神が、自分の和魂(にぎたま)と子の神々の和魂を大和に「皇孫(すめみま)の命の近き守神」として貢(たてまつ)り鎮座させた件(くだり)である。
すなわち次のような関係になる。

大物主櫛𤭖玉命(オオモノヌシクシミカタマノミコト、オホナモチ神の和魂)
⇒ 大御和(三輪山)の神奈備に

子神の阿遅須岐高孫根命(アヂスキタカヒコネノミコト)の和魂
⇒ 葛木(かづらき)の鴨
の神奈備に

事代主命(コトシロヌシノミコト)の和魂
⇒ 雲梯(うなて)の神奈備に

賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の和魂
⇒ 飛鳥(あすか)の神奈備に

つまり、東西は三輪山と葛城山、南北は飛鳥と雲梯が「皇孫の命」の住む所の四囲と意識されているわけである。”(「古代出雲」(門脇禎二)P249-250)”


出雲の神々を大和に鎮座させたのは、門脇禎二氏によれば、出雲の勢力が大和の配下になってからで、6世紀以降としています。つまりオホナムチすなわちオオクニヌシの活躍した時代よりかなりあとの話であり、古事記の時代と話が合いません。
では真実はどこにあるのでしょうか?

前に、スセリヒメに嫉妬されたオオクニヌシが倭国に上ろうとする場面がありました。この倭国は、北部九州を中心領域とした国ではないか、という話をしました。

この倭国と倭は、同じ意味と解するのが自然です。するとこの倭も、北部九州を中心領域とする国となります。国全体でいえば、西日本の日本海を含む範囲になります。当然出雲も、その範囲内にあります。

実は鳥取県 西伯(さいはく)郡南部町「倭」という地名があります。

”町域は豊かな自然に恵まれるとともに、県下有数の古墳密集地帯で、大国主命の古事に由来する史跡・地名が多く見られ、律令国家以前から豊かな文化が栄えた場所です。
町の南側に鎌倉山(731m)など日野郡に連なる山地、北側に手間要害山(329m)を挟んで平地・丘陵地が広がり、水田地帯と町の特産物である柿・梨・いちじくなどの樹園地が形成されています。”(鳥取県南部町HPより)


この倭とは、旧地名で「大国村倭」です。そしてこの東にあるのが、手間要害山です。手間山は、
稲羽の白うさぎのところで出てきました。再掲しますと、

”ヤガミヒメに選ばれなかった八十神は怒り、オホナムチを殺そうと謀り、伯伎(ははき)国の手間の山のふもとに連れ出し、「赤いイノシシがこの山にいるから私が追い下ろしたら、おまえは待ち受けて捕らえよ。もし捕らえられなければ、おまえを殺すぞ」といって、イノシシに似た大石を火で焼き、転がし落とした。オホナムチはその石で焼かれて死んでしまった。

倭と御諸山位置

手間山のふもとに、
赤猪岩(あかいいわ)神社という興味深い神社があります。

”神社の境内には、「大国主命が抱いて落命した」と言い伝えられている岩が祀られています。この岩は、地上にあってこの地を穢さないよう土中深く埋められ、大石で幾重にも蓋がされ、その周りには柵が巡らされ、しめなわが張られています。これは「厄の元凶」に対する注意を、子々孫々まで忘れてはならないことを教えています。”(鳥取県南部町HPより)

赤猪岩神社

手間山は倭の東にあるので、この山が御諸山かとも考えてしまいますが、さらに東には古来から信仰の対象とされている山があります。皆さんよくご存じの大山(だいせん)です。そして大山には、大神山(おおがみやま)神社があります。この続きは次回にいたします。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (82) ~ スクナビコナはどこから来てどこへ行った?

オオクニヌシの子孫の系譜のあと、話はオオクニヌシの国造りに移ります。

オオクニヌシが出雲の美保岬にいたとき、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎにして衣服とする小さな神が、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って現れた。

オオクニヌシはその小さな神に名を尋ねたが、答えがなく、従者もその名を知らなかった。そこにヒキガエルの多邇具久(タニグク)が現れて、「これは久延毘古(クエビコ)なら知っているでしょう」と言ったクエビコに尋ねると、「その神はカミムスヒの御子の少名毘古那(スクナビコナ)神である」と答えた。
クエビコは山田のかかしで、歩行できないが、天下のことは何でも知っている神である。

カミムスヒはスクナビコナを自分の子と認め、スクナヒコナにオオクニヌシと一緒に国造りをするように言った。オオクニヌシとスクナヒコナは協力して葦原中国の国造りを行った。その後、スクナヒコナは常世に去った

オオクニヌシは、「これから一人でどうやって国を造れば良いのか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。
その神は、「丁重に私を祀れば、国造りに協力しよう」と言った。どう祀るのかと問うと、の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座する神である。”(Wikipedia「大国主の国づ
くり」の古事記訳を一部修正)

オオクニヌシが美保﨑にいたときにやってきた小さな神が、スクナビコナです。乗ってきた
羅摩舟の羅摩とはガガイモのことで、この実を割ると小舟の形に似ているので、カカミ舟といいました。桃太郎の桃や瓜子姫の瓜と同じ性質のものです(「古事記 祝詞」倉野憲司他校注P107より)。

スクナビコナについてですが、
国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。
”(Wikipedia「スクナビコナ」より)

なお日本書紀では、タカムスヒの子神とされています。

スクナビコナ
ところでスクナビコナはどこからやってきたのでしょうか?

”海の彼方からやってきた”とあり、「海の彼方」を「
天上界」など抽象的概念と考えるのが普通でしょう。一方、”海流に乗って舟に乗ってきた”と解釈すれば、北部九州の高天原あるいは朝鮮半島方面からとも考えられます。

さて
オオクニヌシは、カミムスヒの命令とおりに、スクナビコナと国造りをします。ところがなぜか突然、スクナビコナは常世の国へ行ってしまいます。

常世の国とは、”海のあなた極遠の地にあるとこしえの齢の国”です(倉野同書)。一方、日本書紀には、
熊野御碕から常世郷に行った」とも「淡嶋」に行って、粟茎(あわがら)にのぼったところが、弾かれて常世郷に至った、とも伝えられています。

ここでいう熊野ですが、出雲の熊野でしょう。なぜなら話の舞台が出雲近辺の話とみられること、またスクナビコナがやってきたのが
出雲の美保岬であり、旅立つのもその近傍と考えるのが自然だからです。実際、島根県松江市八雲町熊野に熊野大社があります。また「日本書紀(上)」(宇治谷孟訳)でも、根拠は書いてませんが「出雲の熊野の岬」と訳されています。

「淡嶋」も兵庫県淡路島と考えてしまいがちですが、それは早計です。
鳥取県に粟島(あわしま)神社があります。

”鳥取県米子市彦名町にある神社である。
境内は標高36メートルの山(明神山)になっているが、かつては中海の小島のひとつだった。島(山)全体が神山とされ、古い時代には社殿は山麓にあったとされている

733年(天平5年)の『伯耆国風土記』(逸文)では、こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている。

民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける。”(Wikipedia「粟島神社 (米子市)」より)

スクナビコナは、出雲の三保岬からやってきたのですから、旅立つのも出雲近辺とするのが自然ですね。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (81) ~オオクニヌシの子孫

 次にオオクニヌシが、ヤシマムチの娘のトリミミを娶して生んだ子がトリナルミです。以下、トリナルミからの系譜が続きます。下図のとおりです(字が小さくなるので、横置きにしてます。)。

オオクニヌシ以下系譜







ハヤミカノタケサハヤヂヌ、アメノミカヌシ、ミカヌシヒコは、いずれもに関係ある神でしょうか。ここで、ミカヌシヒコの妻ヒナラシヒメの父神は、オカミです。オカミは、龗の神、水を掌る神の意です。

”日本神話では、神産みにおいてイザナギがカグツチを斬り殺した際に生まれたとしている。
『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽(クラミツハ)神とともに闇龗(クラオカミ)神が生まれ、『日本書紀』の一書ではカグツチを斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗(タカオカミ)神であるとしている。

高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である。

系譜
『古事記』においては、淤加美(オカミ)神の娘に日河比売(ヒカハヒメ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴(フハノモヂクヌスヌ)神とヒカハヒメとの間に深淵之水夜礼花(フカフチノミヅヤレハナ)神が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。

龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。”
(Wikipedia「淤加美神」より)

以上のとおり、オカミはこれまでに二度登場してます。二度目の系譜は下のとおりです。

ヤシマジヌミ~オオクニヌシ系譜


この系譜では、オカミはオオクニヌシより5代前の神です。一方、冒頭挙げた系譜では、3代ほどあとの神になります。これをどのように解釈すればいいのでしょうか?

ひとつは、別の神である可能性、もうひとつは同じ神であるが系譜の接合や改ざんにより、混雑した可能性が考えられます。
ただし、混雑といっても、もともとオオクニヌシより前の代の神が、後の代の神と混雑するのも考えにくいですね。
オカミは、水や雨を司る神ですから、同様の神が各地方にいたでしょうし、代々伝承されたことでしょう。そのような神々が、オカミとして古事記などに伝えられた可能性が高いでしょうね。


同様のことは、トホツヤマサキの母方の祖父、アメノサギリにも言えます。

アメノサギリは、イザナギ・イザナミの神生み段において、オオヤマツミとノヅチとが共に山・野に因って持ち別けて誕生した八神(天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・大戸或子神・大戸或女神)の第三の神です。

霧を掌るという神ですから、同様の神が各地に伝わっていたことでしょう。それらが取り込まれた可能性が高いですね。

さて、古事記ではこの最後に、
”ヤシマジヌからトホツヤマタラシまでで、十七世の神と称す”
とあります。

実は、数えてみるとわかるのですが、
ヤシマジヌミ~オオクニヌシ・・6世
トリナルミ(オオクニヌシの次世)~トホツヤマタラシ・・9世

です。

つまり6+9=15
で、17世には2世足りないことになります。
タキリヒメとの子アジスキタカヒコネとカムヤタテヒメとの子コトシロヌシをそれぞれ1世としたのかもしれませんね(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P107より)。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (80) ~オオクニヌシの子 コトシロヌシ

次に、オオクニヌシがカムヤタテヒメを娶して生んだ子が、コトシロヌシです。

まずカムヤタテヒメですが、名義不詳とされます。

”『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売(タギツヒメ)命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。”(Wikipedia「カムヤタテヒメ」より)

先代旧事本紀は偽書ともされますが、九世紀には成立していたとみられる物部系の書であり、軽視できません。「高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神」とは、宗像三女神のタギツヒメです。

宗像大社辺津宮
本  殿・・第一宮、イチキシマヒメを御祭神
第二宮・・沖津宮分社、タゴリヒメを御祭神
第三宮・・中津宮分社、タギツヒメを御祭神


宗像市大島の中津宮では、「湍津姫(タギツヒメ)神」が祀られています。

なお、
海部氏勘注系図には高津姫神は「神屋多底姫」(かむやたてひめ)の別名としており、『古事記』の大国主神が神屋楯比売命を娶って生んだとする記述と一致する。”(Wikipedia「事代主」より)
とあります。

以上から、カムヤタテヒメは、宗像大社のタギツヒメと同神の可能性が高いですね。そうなると、オオクニヌシが倭国に上り娶った神々の一番目がタキリヒメヒメ、二番目がタギツヒメとなり、どちらも宗像の神、すなわち北部九州の神となります。ここからも倭国は北部九州であることがわかります。

さてオオクニヌシとタギツヒメとの子がコトシロヌシです。この神は、この後、重要な場面でたびたび出てきます。

”葦原中国平定において、タケミカヅチらがオオクニヌシに対し国譲りを迫ると、オオクニヌシは美保ヶ崎で漁をしている息子のコトシロヌシが答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行きコトシロヌシに国譲りを迫ると、コトシロヌシは「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。この天ノ逆手は一般に手を逆さに打つことだと考えられている。
抵抗した弟のタケミナカタもタケミカヅチに服従すると、オオクニヌシは国譲りを承諾し、コトシロヌシが先頭に立てば私の180人の子供たちもコトシロヌシに従って天津神に背かないだろうと言った。”(Wikipedia「事代主」より)

場面は、国譲りです。アマテラスから派遣されたタケミカヅチから国譲りを迫られたオオクニヌシは、自ら戦うことなく、息子のコトシロヌシに判断を委ねます。
オオクニヌシがなんとも情けないように思えてしまいますが、戦力の差が圧倒的で、負けることが
明かだったから
でしょう。

事代主(コトシロヌシ)とは、
”言知り主、すなわち託宣を司る神の意か”(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P105より)
とあります。
託宣とは、
”神が人に憑 (かか) り,その意志を述べること(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)”
です。
つまり、オオクニヌシはコトシロヌシを通じて神に判断を委ねた、ともいえますね。その神の判断が、「国譲りせよ」ということだったことになります。

さらにコトシロヌシは、神武天皇の段でも登場します。
『日本書紀・神武紀』には、神武天皇の皇后となる媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコトに関して
事代主神、三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ、陶津耳)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメたまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)ともうす。』
とあり、事代主神は神武天皇の岳父となっています。

これは『古事記』で、
大物主(オオモノヌシ)神が三嶋湟咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)との間に富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)別名比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を生んだことと一致しています。


図示すると以下のようになります。
コトシロヌシ・オオクニヌシ系譜たしかに、古事記のオオモノヌシが、日本書紀ではコトシロヌシになっています。ただしこれをもって
コトシロヌシ=オオモノヌシ
とするのは早計です。

オオモノヌシについて、
大物主(オオモノヌシ)の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて複数の異説が見られる。
例えば古事記では詳しい説明はされておらず、オオクニヌシとは別の神である様に述べられている。
一方『日本書紀』の異伝ではオオクニヌシの別名としている(第八段第六の一書)。ただしこちらでも異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、コトシロヌシと並びオオモノヌシが明記されている(第九段第二の一書)。研究者の中には事代主神の別名が大物主神であったと主張する者もいるが、先述の異伝との比較・検証が必要である。”(Wikipedia「大物主」に加筆修正)


以上のとおり、はっきりわかりません。
門脇禎二氏は、オオモノヌシについて、次のように述べています。

”三輪信仰は、縄文文化の段階から確かめられている三輪山への自然信仰、つづく、
ご神磐座(いわくら)信仰体を蛇とする箸墓伝説などから発して、それらを集合ないし重層しつつ、大物主神がヤマト王国の国家的祭祀の中心となっていった。そして、三輪山は、天照大神が皇祖神とされる以前の皇祖神「高天原の神王高御魂の命」の静まる国家的神山であり神なびとなっていった。”

「古代出雲」(門脇禎二)P255より)

つまり三輪山信仰は、縄文にも遡りうる古代信仰であり、のちの時代にはいりヤマト王国の前身がオオモノヌシ信仰をとりこんだと述べています。

そして大和王国と出雲勢力とのかかわりのなかで、出雲の信仰も取り込まれたと考えられます。そうした過程で、出雲のオオクニヌシやコトシロヌシが、オオモノヌシに習合されていったと考えるのが、自然ではないでしょうか?


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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