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古事記・日本書紀のなかの史実 (86) ~ ソホリ神とは?

 オオトシが生んだ五神の三番目からです。

”第三は「曾富理(ソホリ)神」。つぎを見よう。
 日向の襲(そ)の高千穂の添(そほり)山の峯。・・・
 添山、此を曾褒里能耶麻(そほりのやま)と云ふ。<神代紀、第九段、第六、一書。天孫降臨>
「ソホリ」の地がここにズバリ出ている。したがって、「ソホリの神」はほかならぬこの地の神だということになろう。”
(「盗まれた神話」(古田武彦)P396より)

ソホリは、これから出てくる天孫降臨と関連します。そこでは、アマテラスの孫であるニニギが高天原から降臨するさまを、次のように記載してます。

<日本書紀本文>
日向の襲(そ)の高千穂峯(たけ)・・・槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の・・・。

<同上 第一、一書>
筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)之峯

<同上 第二、一書>
日向の槵日の高千穂の峯

<同上 第四、一書>
日向の襲の高千穂の槵日の二上峯

<同上 第六、一書>
日向の襲の高千穂添(そほりの)山の峯

<古事記>
竺紫(つくし)の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)

これらをみれば、ソホリ山とは天孫降臨の地と同じ場所であることがわかります。これまでも、天孫降臨とは単なる神話ではなく、対馬・壱岐を領域とする天族による本土への進出であることは、お話してきました。

そしてその初めに進出した地こそ、古事記のいう
「筑紫の日向の高千穂の槵触岳(くしふるだけ)」です。この地については、宮崎県の高千穂をはじめ、多くの候補地が挙げられています。

私は、古田氏のいう福岡県福岡市の日向峠付近(高祖山を中心とする地域)と考えてます。根拠としては、以下が挙げられます。
1.「筑紫(筑前)の日向の・・」とある。
2.「高千穂」は、”高い山々””高くそそりたつ連山”の意の普通名詞。
3.同じ地域に「くしふる山」がある。
4.襲(そ)は「曾(そ)」と同じ。高祖山の東側(博多湾岸)に「曾根原(そねばる)」がある。「原」とは村落を示す語。「曾の根」とは、「曾」と呼ばれる地帯の根(幹に対する語)に当たっていることを意味する。
(「盗まれた神話」(古田武彦)P199より)

古田氏は、添(そほり)山について言及してませんが、「曾の山」という意味ではないでしょうか。

高祖山の東には、弥生時代中期前半の吉武高木遺跡があります。
大型掘立柱建物の跡のほか、三種の神器(玉・剣・鏡)が出土したことから日本最古の王墓といわれる墓も発掘されてます。

西には三雲南小路遺跡があり、魏志倭人伝に出てくる伊都国の王墓ともいわれる墓が発掘されています。さらに西側には、女王墓とみられる平原遺跡があります。彼らの系統が信仰した神こそ、ソホリ神だった可能性があります。

なお、「天孫降臨」の地についての論証は膨大になりますので、詳細は「天孫降臨」の際にお話しします。

ソホリ・シラヒ・ヒジリ神信仰圏

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古事記・日本書紀のなかの史実 (85) ~ 大年神の系譜

前回まで、オオクニヌシの国造りの話でした。

古事記では、ここから突然大年(オオトシ)神の系譜になります。
オオトシは、スサノオカムオホイチヒメとの間に生まれた子で、「来訪神」「穀物神」「祖霊」ともいわれます。その系譜が、ここから長々と続きます。

大年神系譜
 なぜここにこれだけの系譜が記載されているのか、はっきりしません。また神名の由来も、よくわからないものが多いですね。

”大年神の子孫の神々は、その系譜の成立事情や『古事記』中の位置付けが問題になり、それと関連づけて論じられる。
本文中、大年(オオトシ)神の系譜が、一連となるはずの須佐之男(スサノオ)命の系譜から分断された位置に記されていることについて、不自然さが指摘されており、これを古くからの伝承でなく新しく作られて編纂者の意図を反映したものとする説や、『古事記』成立以後に、特定の集団の関与により附加されていったものとする説がある。
また反対に、系譜と前の物語との接合関係や古事記全体からの関わりを検討し、この系譜の位置に『古事記』全体の構成上の必然性を認める説もある。
この系譜の神々は、大年神が農耕神であることから、農耕や土地にまつわる神を主としたものと捉えられる。”(国学院大学「古典文化学」事業HP 神名データベースより)

順番にみてきましょう。
まずはじめに、イノヒメとの間に生まれたオオクニミタマ・カラ・ソフリ・シラヒ・ヒジリの五神   です。

”大年神と伊怒比売(イノヒメ)との間に生まれた兄弟五神については、神名から、渡来系の神かといわれ、あるいは、渡来系氏族の秦氏らによって奉斎された神とも論じられている。また、各神の順序や性格の関連から、この神名の列記が、農耕、稲作文化の日本への伝来を語ったものではないかとする説もある。”(同上)

諸説ありますが、いずれもすっきりしませんね。この五神について、古田武彦氏が興味深い論説をしているので、みてきましょう。

”これらの名前には、重大な特徴がある。ひとつひとつ調べてみよう。
まず「大国御魂(オオクニミタマ)神」。この神は、いわば”出雲(大国)の最高神”という性格の名前をもっている点、注目される。その点、「大国主神」に勝るとも、劣らぬ名前だ。

つぎは「韓(カラ)神」。わたしがこの系譜に目を注ぎはじめた糸口、それがこの神だ。当然韓地の神、韓国の神と解するほかはない。だが、『記・紀』中、ほかにこのような神は出現しない。いわば、普通の『記・紀』神話のわくを破った神名だ。ただ、この「韓」は、後にいう韓国(南朝鮮)といった広域ではなく、釜山付近の加羅を中心とする狭域であろう。これは、以下の第三~第五がいずれも「狭域」の三神と見られる点からそう考えられる。”(
「盗まれた神話」(古田武彦)P    より)

大国御魂(オオクニミタマ)神は大国主(オオクニヌシ)と似ていることから、オオクニヌシの別名かという説もあります。しかしながら、大年神の子神でありオオクニヌシの系譜とは別系統であることからみても、別神とみるべきでしょう。

古田氏は、島根県仁摩に大国という地名が残っていることから、出雲はかつて大国といわれたのではないか、と述べています。また鳥取県西伯郡南部町に大国村倭という地名が残っています。以上から、オオクニヌシの支配した出雲・伯耆国一帯が、大国と呼ばれていた可能性があります。その
「大国」の最高神といった雰囲気の神です。

次の韓(カラ)神ですが、朝鮮半島南端の釜山あたりの地域の神としています。魏志倭人伝には、そのあたりには
狗邪韓国(くやかんこく)があったと記載されていますので、関連性がうかがえます。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (84) ~ 大山と大神山神社

前回は、”オオモノヌシが自分を倭の東の山に祀れ、これは御緒山である”の「倭」とは、出雲の大国村の倭ではないか、という話でした。そして、倭の東にある「御緒山」とは、大山(だいせん)のことではないか、というところまででした。

大山には、大神山神社があります。


大神山とは神社が鎮座する「大山(だいせん)」の古い呼び名です。
大山が文献に登場する最初の書物は、八世紀(奈良時代)前半に編纂された「出雲国風土記」で、国引きの条の中に「國に固堅め立てし加志は、伯耆国なる大神岳是なり」と国を引き寄せる綱(鳥取県の弓ヶ浜半島)をつなぎ止める杭として、伯耆国の「大神岳(火神岳)」として出てきます。ちなみに今のように大山と呼ばれるようになったのは平安期以降と思われます。

主祭神の大己貴命は大山を根拠地として国土経営の計画をお立てになりました。「神祗志料」左比売山神社の条には「云々、昔大己貴命、少名彦名命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御坐、出雲國由来郷に来坐して云々」と書かれており、大山の山頂に立って雲の上から草昧の国土を見下ろし国見をされて国造りを相談なされたと伝えています。”(大神山神社HPより)

大神山とは、大山のことです。大神山神社の祭神は、大己貴命(オホナムチ)すなわちオオクニヌシで、大山にて国造りをしたと伝わってます。

「神祗志料(じんぎしりょう)」とは
”《大日本史》のうちの〈神祇志〉編纂準備のため記された書。17巻。1873年成立。栗田寛(1835‐99)著。彰考館所蔵の《日本書紀》以下500余部の諸書にあたって記した書。”(世界大百科事典 第2版より)

明治初期の編纂でありますが、このような伝承があったからこそ、そのように書かれたわけです。

大神山神社のご神体は大山ですから、大山にオオクニヌシが鎮座していることになります。このことからも、
大山は古事記の「自分を御緒山に祀れ」という御緒山に合致していることがわかります。

大山・大神山神社
もちろん古事記の話を元に、のちにこの地で伝承が創作されたのだ、という見方もできないことはありません。しかしながら前回お話しした赤猪岩神社はじめ、オオクニヌシにまつわるところが数多くあることを鑑みれば、もともとあった伝承を古事記がまとめたと考えるのが自然でしょう。

ではなぜ日本書紀では、御諸山を「ヤマトの三輪山」としたのでしょうか?
それは、後世になり出雲の信仰がヤマトに持ち込まれ、またヤマトの地が日本の中心となっていくなかで、伝承が変わっていったためと考えらます。

ヤマトの三輪山にあるのが大神(おおみわ)神社です。
大神神社のご神体は三輪山で、山をご神体とするところは、大山と大神山神社の関係と同じです。
また「大神」と書いてなぜか「おおみわ」と読みます。大神神社大神山神社、表記がよく似ているのも単なる偶然とは思えないほどです。

さて、あなたはどう考えますか?

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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