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古事記・日本書紀のなかの史実 (99) ~四隅突出型墳丘墓が示唆すること

 古代出雲地方における特徴的な遺跡といえば、四隅突出型墳丘墓が挙げられます。上から見ると、ヒトデのように四方に足が出ているように見える独特な形状をしています。

四隅突出型墳丘墓

弥生時代中期以降、おもに備後北部・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する。”(Wikipedia「四隅突出型墳丘墓」より)

形状も独特ですが、興味深いのはその分布です。出雲を中心とした日本海側に分布して、越の国まで広がっています。その一方、途中の丹波地方には分布してません。
四隅突出型墳丘墓分布
ここで思い出すのは、オオクニヌシの神話です。ヤチホコすなわちオオクニヌシは、高志(こし)国のヌナカワヒメのもとまでやってきて、妻問いをした話です。これが単なる妻問い婚の話ではなく、越の国征服譚であったという話を、前にしました。

その範囲は、
“渡りゆく島という島、巡りゆく岬ごとに”というオオクニヌシの正妻スセリヒメの歌からもわかるとおり、日本海沿岸です。実際、オオクニヌシは、北部九州のタキリヒメも妻としています。

四隅突出型墳丘墓の分布で興味深いのは、出雲~越の中間である丹波地方が、スッポリと空白地帯になっていることです。つまり丹波地方には、出雲勢力に属さない別の勢力があったことがわかります。「丹波王国」と呼ぶ方もいますね。

そして古事記には、オオクニヌシが丹波の国の女を妻としたーつまり丹波の国を征服したーという記載はありません。古事記の内容と、考古学的成果が整合してますが、はたしてこれは、偶然の一致でしょうか?


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古事記・日本書紀のなかの史実 (98) ~「出雲王朝」を立証するもの

 前回までで、出雲には「出雲王朝」なるものがあり、彼らは
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
をもっていたという話でした。
以上は、主として古事記・日本書紀などの文献から導きだされたものです。では、科学的にこうしたことを立証できるものはあるのでしょうか?

今回は、こうした視点でみてみましょう。

出雲といえば、古来より「神話の国」として知られていましたが、それはあくまで「神話」の世界であって、現実世界の話ではない、というのが長らくの通説でした。ところがこれをひっくり返す衝撃的な遺跡が発掘されました。それは荒神谷(こうじんたに)遺跡です。

”1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。
銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。”(Wikipedia「荒神谷遺跡」より)


荒神谷遺跡

さらにその2年後、約3km離れた加茂岩倉遺跡から、大発見がありました。


”1996年(平成8年)より1997年(平成9年)の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。その結果、一か所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。これまで一ヶ所の出土例で最多だった滋賀県野洲町大岩山遺跡における24個の出土例を大きく更新した。”(Wikipedia「加茂岩倉遺跡」より)

加茂岩倉遺跡時期としては、弥生時代前期末から中期中間のころですから、私が天孫降臨・国譲りの推定をしている時期と、ほぼ重なります。少なくともこの時代に、出雲に当時日本列島最大級の巨大勢力があったことは確実です。これらの発見により、古代史学会もこれまでの通説を大きく見直さざるをえなくなりました。論壇でも「古代出雲王朝」なるワードが、登場するようになりました。

さらにその後、出雲大社においても、大発見がありました。

”2000年(平成12年)、同大社境内での地下祭礼準備室の建設が行われるにあたり発掘調査が行われ、巨大な柱3本を鉄の帯板で束ねて1本にした、宇豆柱と見られる巨大柱の遺構が発見された。出土遺物から、12世紀から13世紀ごろ(平安時代末から鎌倉時代)の本殿と考えられている。”(Wikipedia「出雲大社境内遺跡」より)

出雲大社柱遺跡

これの何がすごかったについては、次の解説をご覧ください。

”昔の出雲大社の本殿(ほんでん)は、今よりかなり高い巨大な神殿だったという伝説がありました。平安(へいあん)時代の「口遊(くちずさみ)」という本のなかには、「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」という言葉があります。これは、日本の建物では、出雲大社の本殿が1番大きく、東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)(大和(やまと))が2番、平安京大極殿(へいあんきょうだいごくでん)(京都)が3番という意味です。

 では、どれくらいの高さだったのでしょう。出雲大社には、上古(じょうこ)には32丈(約97メートル)、中古(ちゅうこ)には16丈(約48メートル)という言い伝えがあります。出雲ドーム(47メートル)よりも高い、巨大神殿だったようです。高すぎるので、何回も倒れたという記録が残っているくらいです。
 そんなに高かったと、なぜ言えるのでしょうか?出雲大社宮司(ぐうじ)家の千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)」という絵図には、大きな輪の中に3つの小さな輪がかいてあります。これが柱をあらわしているのです。3本束ねた柱は直径が1丈(約3メートル)、正面の階段の長さは1町(約109メートル)と書いてあります。そんなに大きな神殿があったとは信じられない、と言う人もいましたが、絵図と同じ柱が本当に出てきたので、大きな神殿があった可能性の高いことが証明(しょうめい)されたのです。

今回発見された柱は、平安時代から鎌倉(かまくら)時代(今から約700年前)に建てられた本殿の柱で、そのころあった建物の中では、本当に日本で一番背の高い建物だったかもしれません。”
(フォトしまね2001年●145号「出雲大社遺跡」より)

出雲大社高さ

古事記の国譲りでは、アマテラスから派遣されたタケミカヅチに対して、オオクニヌシが、
”二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百(もも)足らず八十坰手(やそくまで)へ隠れましょう。”
といいます。これが出雲大社とされているわけです。

これがこれまでは単なる7から8世紀ころのヤマト王権の史官の創作とされてきました。ところが、実際に巨大な宮跡が出てきたわけですから、大騒ぎになるのも当然ですね。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (97) ~「出雲古事記」を検証する

 ここまで数回にわたって、出雲には古事記・日本書紀に先在した史書、いわば「出雲古事記」があり、そこには
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
があった。
これらは近畿天皇家やそれに先立つ九州王朝のものより古く、大国を中心とした「出雲王朝」のものだった、という話でした。

以上はあくまで古田武彦氏の「仮説」ですが、さてあなたはどのように考えますか?

「いや、そんなものは単なる推測だ。何も証明できないじゃないか?」
というかもしれません。

あらためて検証してみましょう。まず
1.神統譜(神々の系譜)です。
古田氏は、古事記の系譜は捏造されたものであり、元の神統譜は、次のようなものであったと推測しています。



出雲神統譜復元
ところで門脇禎二氏は、

”「出雲国風土記」の残る神話には、「天の下造らしし大神(=オオナモチ神・大穴持神・大己貴命)」、つまり天下を造った神様と、国造りの神(=オミズヌ神)の二つが対になっている。”「古代日本の『地域王国』と『ヤマト王国』」P20と述べています。

上の神統譜では、オミズヌはオオクニヌシの祖父になります。普通に考えれば、「天の下造らしし大神(=オオナモチ神・大穴持神・大己貴命=オオクニヌシ)」が先で、国造りの神(=オミズヌ神)がそのあとになるはずですが、そうはなっていません。またオミズヌの前にいる神々は何であったのかも、判然としません。
このようにみてみると、上の神統譜も、どこまで正確なものなのかはよくわからない、ということになってきます。

次に3.政治地図についてです。古田氏は、次のような大国の支配領域を想定しています。

大国中心地図

このうち、大国・韓・白日の位置はおおむねこのとおりとしても、ソホリ・聖については、諸説あります。

ソホリについて、
”韓神・曾富理(ソホリ)神を、『延喜式』神名帳に見える宮内省に鎮座する韓神・園神と同神とみる説がある。
 邇邇芸(ニニギ)命の降臨地を書紀の一書第六に「添山(ソホリノヤマ)峰」とするのを、新羅の神話において神童君臨の所を「徐伐」(Sio-por)というのと同源であるとした上で、新羅の王都を意味するソフルが神霊の来臨する聖処を原義とするとし、「曾富理」が京城の意で、この神を京城・帝都の守護神とする説がある。
百済の王都泗沘も「所夫里」と呼ばれ、書紀第八段第一書に素戔嗚(スサノオ)尊が五十猛(イソタケル)神を率いて新羅国に降り「曾尸茂利」(ソシモリ)にいたとある。現『古事記』が平安初期に成立したものとする立場から、この神が、遷都に際して平安の新京の護り神として秦氏が奉斎した神であるとし、秦氏がその根拠地に平安京を誘致することに成功したことで、朝鮮半島の京城の護り神である曾富理神を新たに勧請したものとする説がある。”(「国学院大学 古典文化学事業 神名データベース 曾富理神」より)

聖について、
”この神の名義は、「ひじり」の語は「日知り」で暦日を知る者の意かとされ、大年神系譜の農耕神的性格から、農事に重要な暦を掌る神とする説がある。また、「ひじり」の語について霊性を体した者の意かとする説もある。同母の韓神・曾富理神・白日神を渡来系氏族の秦氏が奉斎する外来の神とするのと関連して、この神も同じく秦氏の奉斎した外来の神ではないかとする説がある。”(同上「聖神」より)

以上のように、反論もされるところです。
しかしながら、
「出雲王朝」があったのであれば、当然のことながら、彼ら自身、神統譜をもっていたはずです。それが上の神統譜とピッタリ同じでなくとも、本筋の説をゆるがすことにはならないでしょう。政治地図についても同様のことがいえますね。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (96) ~「出雲王朝」は存在したか?

ここまで、出雲には古事記・日本書紀に先在した史書、いわば「出雲古事記」があり、そこには
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
があったはずだ、という話でした。そしてそのなかの神統譜や説話が、古事記・日本書紀に引用されたのではないか、という話でした。

最後に残された課題があります。それは



「大国中心政治地図」のもつ”「天国」部分の空白”の意味です。すなわち「大国政治地図」には、「天国」部分がスッポリと抜けている、という点です。

この点について、古田氏は次のように推測しています。
”大国は、
・自己の根拠地たる出雲
・朝鮮半島釜山近辺たる韓(加羅)の地
・博多湾岸とその山地周辺に当る三点(糸島郡付近。白木原付近。大宰府・基山・久留米付近)

を勢力下におさめていた。

つまり、朝鮮半島から日本列島に至る、あの幹線道路の始発点と終点をおさえている。だが、それらはいずれも「点」にすぎず、”狭い領域”だ。博多湾岸近辺も、この三点に分かれている。だから、これら”小領域”に比べて、自己の本拠(面)を「大国」と誇称したのではないだろうか。

問題はつぎだ。
始発点と終点の間に横たわる、”対馬・壱岐を中心とする天国(あまぐに)部分は、政治的に”この地図から欠落している。

逆に、この同一時点において、この同一状態を「天国」側から見てみよう。自己の占有する海上の島々、それは東は隠岐島、南は姫島、西は五島列島と、かなりの海上領域を占有している。しかし、その周辺の”大きな陸地部分”は、”未だ支配下にない”のだ。
ー これこそ「天孫降臨以前」の状況にほかならない。”

次の図は、大国と天国の中心領域を示したものです。大国は、出雲・新羅・北部九州三領域を、天国は、その間の壱岐・対馬を中心として支配してました。
なお天国の全体領域について、古田氏は”
東は隠岐島(島根県)から、南は姫島(大分県)、西は五島列島(長崎県)”を想定していますが、はたしてそこまで広範囲であったかどうかはなんともいえないところなので、含めていません。



大国中心地図


”そして”新しい勢力の拡大”を求めて”博多湾岸とその山地周辺”(葦原中国)を割譲することを、その地への支配権をもっていた大国主神に迫った。これが「天孫降臨」に際しての「国譲り」交渉の地理的背景なのではあるまいか。
だから、ニニギが「筑紫の日向の高千穂のクシフル峯」に”天降った”とき、そこは無人地帯、あるいは「無神地帯」だったわけではない。古きソホリの神を信ずる人々、出雲の大国主神の支配下にいた人々の住む地域だったのである。しかも、その隣なる笠沙の地、それは「白日神」のいるところであり、その背後には「聖(日後、ひじり)神」のいる所があった。すなわち、太陽信仰の聖地であった。その土地は「大国」の部族と、なんらかの宗教的信仰をもっていたのではなかろうか。

今は、この「大国中心政治地図」がすなわち、「天孫降臨以前の政治地図」であることを、確認するにとどめたいと思う。

近畿天皇家の『記・紀』神話のなかに、九州王朝の神話があり、さらに、その九州王朝に先在した、出雲の神々とその神話を見出した。
これは決して近畿天皇家配下の一豪族の説話などではない。天照大神以前の古(いにし)えから、その政治地図の示す領域に、独立した主権をもっていたのであるから。
それ故、わたしはこの日本最古の王朝に対し、今、「出雲王朝」の名を呈しよう。”(以上「盗まれた神話」(古田武彦)P413-415)

この大国がアマテラスの天孫降臨まで、西日本の日本海側の陸地を支配していたからには、その勢力が当時の日本列島において屈指のものであったことは、想像に難くありません。その巨大勢力に対して、「出雲王朝」という名を呈しています。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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