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日本語系統論(2) 日本語の系統はなぜ不明なのか? 

前回は、言語に関して大きく分けて二つに分けられるという話でした。ひとつはインド・ヨーロッパ語族に代表される大語族によって占められる「拡散地域」、それに対して古い言語層の生き残った部分は「残存地域」となります。
日本語は「残存地域」にあたります。

松本氏の説をみていきましょう。

”伝統的な歴史言語学で比較方法と呼ばれるものは、有効に適用できるのは、せいぜい分岐してから5~6千年ぐらいまでの範囲にある言語の関係である。

比較方法とは、同系関係にある言語間で維持された「同源語」を引き合わせて、そこに何らかの「対応」の規則性を確立し、それに基づいて「祖語形」を再構築するという一連の手続きである。”(「世界言語のなかの日本語」(松本克己)P7より)

比較する二言語で、似たような語彙を比較して同系語かどうかを検証するのは、自然な方法に思えます。
たとえば、大野晋氏が提唱した「日本語・タミル語」同系説でみてみましょう。タミル語(現代口語)と現代東京方言の基礎語彙について、意味と音形がいくらかでも似通っている語として、10語を取り出すことができます(「足」について東京方言の「asi」に対応するタミル語は「aTi」など)。

一見、この比較方法は妥当なように思えますが、ここに落とし穴があるというのです。

「基礎言語」の消失率は、どんな言語でも千年につき大体20パーセント前後とされる。
互いに分岐した同系言語の間で共有される基礎語彙の比率は、1000年後で64パーセントになる。
そうなると、2000年後で40パーセント、6000年後で7パーセントになる。

比較方法に手がかりを与える同源語は、6000~7000年を超えたあたりで、ほとんど無くなってしまう。
ちなみに、どんな言語の間にも、偶然に意味と音形が似通った語は、5パーセントぐらいは見出せると言われる。”(同書P7)

基礎語彙が千年で20%消失するということは、”互いに分岐した同系言語で共有される基礎語彙”の比率は、千年後に
0.8 × 0.8 = 0.64
つまり、64%になります。

二千年後は、
0.64 × 0.64 = 0.4096
六千年後は、
0.4096 × 0.4096 × 0.4096 = 0.0687
つまり、7%まで減少します。

こうなると二つの言語の基礎語彙を比較する際に、たまたま似たような語彙があるから同系語と結論づけることはできなくなくなります。すべての基礎語彙を調べ、7%を大きく超えて共通であることを証明する必要があります。

従来の比較法は、「いくつかの基礎語彙が似ているから同系語だ。」としてきましたが、「それでは充分ではない。統計的に捉えなければならない。」というのです。

ここで興味深いのは、
”どんな言語の間にも、偶然に意味と音形が似通った語は、5パーセントぐらいは見出せると言われる。”
と述べていることです。
たとえば、遠いアフリカで話されている基礎語彙と日本語の基礎語彙が、偶然に意味と音形が似通う確率が5%ということになります。これはずいぶんと大きな数値に思えますが、いかがでしょうか?

実はこれは単なる「偶然」ではないのではないか、というテーマがあるのですが、それはいずれということにします。

さて、以上のとおり、意味と音形の比較だけでは、限界があることがわかります。ではどうすれば、いいのでしょうか?

年代的にもっと深いところで諸言語をつないでいる絆のようなものがもしあるとすれば、それは個別の語彙の意味と音形というような表層的な現象ではなくて、言語のもっと奥にひそむ構造的特質の中に残されていると考えられよう。

特定の言語に備わってその基本的な骨格を形作り、しかも言語関係に対して強い抵抗を示すような特性である。

言語の最も基本的な性格を形作っているある種の構造的特質や文法的カテゴリーは、時代と環境の変化に逆らって、根強く存続するとみられる。


このような特質を共有する言語は、かりに比較言語的な観点からはその同系性を確認できなくとも、もっと奥行きの深いところで何らかのつながりを持っている可能性がある。”(同書P10-11)

難しい表現になっていますが、ようは「個別の語彙の意味・音形の類似ではなく、もっと奥にひそむものに着目すべきである。それは時代と環境が変化しても変わることがないので、同系性を推測できる。」ということです。

ではその「奥にひそむもの」とはなんでしょうか?

初めて英語を習ったとき、L音とR音の違いに苦労した経験があると思います。われわれ日本人は、ラ行音を「L」音で発音しますよね。たとえば、ライオンlionであれば、「ライオン」と発音します。厳密にいえば、英語の「L」音とは違いますが、似たような音です。

一方、たとえば英語でredのrは「R」音です。この発音が、日本人にはなかなかできません。ここで悪戦苦闘するわけです。

これを習ったとき、日本語はずいぶんと変わった言語なのだなあ、と思ったものです。

ところがそうではないというのです。

”日本語には「流音」と呼ばれる音素、すなわちラ行子音が1種類しかない。一方、ヨーロッパをはじめ世界の多くの言語には、LとRの区別があって、この区別が欠けるのは日本語の著しい特徴のひとつとされてきた。
しかしこれは、決して日本語に限られたわけではなく、ほかの多くの言語にも見られ、音韻面での重要な類型的特徴のひとつである。

さらに興味深いのは、その分布です。

”しかもこの特徴は、世界言語の全体について見ると、地理的に著しく偏った分布を示している。”
・日本語のほかに、アイヌ語、朝鮮語、中国語の大部分の方言、ミャオ・ヤオ諸語、ヴェトナム、ラオス、タイ北部の諸語など。

・南部タイからモン・クメール、チベット・ビルマ、台湾、フィリピン、インドネシアを含むオーストロネシア諸語の西のグループにはこの特徴が見られず、この連続線は断ち切られたように見える。

・ここを超えると今度は、ニューギニアからポリネシア、南アメリカ、中米の一部を除いた北アメリカの大部分を含む地域へと連続する。

ユーラシアの太平洋岸沿岸部から、ニューギニア、ポリネシア、南北アメリカ大陸に分布し、地理的に限られたしかし明らかにひとつの連続した圏を作っている。これ以外の地域で同じ特徴は、西および南アフリカの一部の言語に見られるだけである。

・あたかも太平洋を取り囲むような形で分布し、文字通り「環太平洋」的と呼ぶことができるだろう。
・この言語圏は、言語史的にも世界言語の周辺地域に属し、古い言語層の残存地帯と見られれる。”(P12)

以上のとおり、環太平洋に分布しています。
流音タイプ分布図を見ると、一目瞭然ですね。また松本氏は強調していないのですが、さらに注目は、西および南アフリカの一部にも分布していることです。このテーマはいずれ取り上げます。

さて以上は、語彙の「奥にひそむもの」の一例である「流音」についての解説です。このような特徴がほかにもいくつかあり、それらを比較すれば、言語の同系性がみえてくる、というのが松本氏の説です。

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日本語系統論(1) 主要な語族の分布が示すこと 

今回から、話題をガラッと変えて、日本語系統論についてみてきます。
このブログを始めて以来、中国史書など外国文献、古事記・日本書紀など国内文献のほか、考古学・地理地質学・気候変動学・遺伝子学・統計学など科学的データから、日本古代史の真実に迫ってきました。

実はこれまで取り上げてこなかったテーマがあります。それは「日本語はいつどこから伝わったのか?」という日本語系統論です。
日本古代史の真実解明と日本語系統論は、リンクしているはずですが、あえて取り上げなかったのには、理由があります。

それは「日本語はいつどこから伝わったのか?」という問いに対して、今までさまざまな説が提唱されていますが、どれもしっくりくるものがなかったからです。たとえば、外国にある日本語に似た言葉を探してきて、〇〇から伝わったのだろう、と推測する説です。

似たような言葉は、世界中探せばいくらでも見つかるのであって、はたしてそれが本当に伝わったのか、それとも単なる偶然に過ぎないのか、判然としないわけです。

そんななか、ある一つの説を知りました。それは松本克巳氏(金沢大学・静岡県立大学名誉教授)の提唱する説で、まさにその疑問に答える形の説を提唱しています。

簡単にいえば、単なる言葉の類似というものだけでは、関係性はわからない。もっと根源的なもの、つまり時代を経ても変化しない言語の特徴ー発声形式などーを、古今東西すべての言語について検証すれば、その関係性がみえてくる、という考え方です。

私自身、納得感のあるもので、私の古代史探究にも十分活用できると感じました。ということで、松本氏の説を紹介しながら、それらを整理しつつ、日本古代史との関係性を探っていきたいと思います。

それでは、松本氏の説を概略みてきましょう。「世界言語のなかの日本語」からです。
冒頭、
”日本語は、外部からの移住者によってもたらされたとする大方の見方には同意するが、問題はそれがいつもたらされたかである。”
と問題提起します。それに対して、

”日本語の成立をいわゆる稲作民族の到来に結びつける考えは、柳田邦男以来、根強い。”
と述べたうえで、この考えに異を唱えます。その理由として、

”・弥生時代の始まりと言えば、今からたかだか2,300年ほど前に過ぎない。
・共通の源から分岐して2,000ないし2,500年程度を経過した言語の間には、それほど大きな違いは生じない。
・日本語の”同系語”に擬された言語の中に、稲作や米文化に関する”同源語”を探し当てたというようなまことしやかな主張がときおり見受けられるけども、言語史の常識を無視した時代錯誤もはなはだしい論と言わざるを得ない。
日本語のルーツは、弥生時代を超えて縄文の過去にまで遡ると見なければならない。”

と論じます。

これは当然の考えに聞こえます。現代日本において、弥生系渡来人の言葉が支配的であったとしても、もともと住んでいた縄文人の言葉が残っていないわけがありませんよね。

さて次に語族について解説します。
語族とは、
共通の祖語から派生した諸言語の総体。たとえば,英語,フランス語,ロシア語,ギリシア語は,音韻の対応,文法や語彙の類似から,古い時代にある共通の言語から変化して分れたものと推定され,インド=ヨーロッパ語族という語族に属するといわれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「語族」より

主要な語族として、
・ユーラシア大陸
インドヨーロッパ語族・セム語族・ウラル語族・ドラヴィダ語族・チベットビルマ語族・オーストロアジア語族

・アフリカ大陸
バントゥー(あるいはそれを含むニジェル・コンゴ)語族

・太平洋地域
オーストロネシア語族

などが挙げられます。
以上の語族は、系統関係がはっきりしている、すなわち起源についてもわかっているということになります。

これに対して、”語族への帰属がはっきりしない言語や、ごく限られた地域で少数の同系語(ないし同系方言)しかもたない言語というものも数多く残されている。”と述べています。たとえば、日本語・朝鮮語・アイヌ語・ギリヤーク語だといいます。

その分布がとても興味深いです。

”新石器時代以降に発達した人類の主要な文明の中心地から隔たった周辺地域か、あるいは地理的に周囲から隔絶した地域”であり、
・日本語を含む北太平洋沿岸部からシベリア北東部
・オーストラリア(とりわけ北西部)、ニューギニア(特に高地部)
・南北アメリカ大陸(特に北アメリカの西海岸や南米のアマゾン地域)

に分布しています。

これに対して、
”アフリカやユーラシアの中心部ならびにその西方に位置するヨーロッパは、言語の分布は非常に等質的で、それらの系統関係もはっきりしている。”
と述べています。

例外として、系統不明の言語は、 
バスク語(フランスとスペイン国境)、ブルジャスキー語(パキスタン北部山岳地帯)・ナハーリー語(インド中央部)、カフカス(アジア中央部)
があります。

またその後の氏の著書「ことばを巡る諸問題」によると
ケット語(西シベリアのエニセイ川流域)
クスンダ語(東部ヒマラヤ地域)
も該当します(同書P249より)

以下に分布を示します。なお、
日本語・朝鮮語・アイヌ語・ギリヤーク語は、環日本海諸語としています。ナハーリー語・クスンダ語は、地域が狭く場所も不鮮明なので記載してません。

系統不明語分布


分布に特徴があることが、よくわかりますね。そして主要な語族について、
”旧大陸を中心に広い地域に分布する印欧語その他の主要な語族は、それぞれの祖語の年代が、大体今から5,000~6,000年前に設定できる。つまり、人類が新石器時代の長い停滞期を終えて、新しい文明時代を迎える丁度その開幕期の頃に姿を現し、かなり短期化の間にその勢力範囲を拡張して、現在見るような語族の分布図を形作ったと考えることができよう。”(以上「世界言語のなかの日本語」(松本克己)P2-5より)
と述べています。

逆にいえば、日本語をはじめとする系統がはっきりしない言語は、それ以前に話されていた古層の言語ということになります。


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古事記・日本書紀のなかの史実 (101) ~「古代出雲王朝」が教えてくれること

 ここまで数回にわたって、「古代出雲王朝」の存在について、みてきました。

まず考古学的にみれば、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の大量の銅剣・銅鐸群、出雲大社の宇豆柱遺跡、四隅突出型墳丘墓の分布そして青谷上寺地遺跡の土器とDNA分析からみて、出雲を中心とした巨大勢力があったことは、疑うことはできません。

そしてその勢力があそこまで巨大であり、文化的にも高い水準のものであったということは、彼らは雑多な集団ではなく、組織だったものであったはずです。まさに「出雲王朝」の名にふさわしい勢力であったといえます。

そして組織だった勢力だったのであれば、当然、自らの正当性を示すものをもっていたでしょう。それが古田氏のいう「出雲古事記」であり、それは
1.神統譜(神々の系譜)
2.神々の説話
3.政治地図
から成り立っていたということになります。

ところでこの巨大勢力は、いつ頃から存在していたのでしょうか?

古代史に興味のある方であれば、黒曜石を知っていると思います。

黒曜石(こくようせき)は、マグマの一部が急速に冷え固まってできた火山岩です。黒く光り、へりが刃のように鋭いのがわかりますね。黒曜石は別名天然ガラスといわれ、旧石器時代から縄文時代を通じ、弥生時代に鉄が伝わるまでさまざまな道具の主要な材料でした。旧石器時代にはナイフ形石器や槍の先端などに、縄文時代には矢じりによく使われました。また、狩猟用だけでなく、動物の皮をなめすなど、加工用のツールとしても用いられました。


 主要な産地は北海道の置戸(おけと)や白滝(しらたき)、長野県の霧ヶ峰(きりがみね)、佐賀県の腰岳(こしだけ)などです。こうした産地から200km以上離れた場所でも、黒曜石とそれを加工した石器が一緒に発掘されています。たとえば、現在の関東近郊に住んでいた人々も、黒曜石を求め長野県の産地まで出かけていったのです。生活の道具の大半が石器であった時代には、それだけ重要な石だったのですね。

黒曜石は、その成分を調査すると、産地を特定することができます。つまり、先史時代のものの動き、ひとの動きを、黒曜石から読み解くことができるのです。黒曜石は、まさに先史時代を象徴する石だといえるでしょう。”
(文化遺産オンライン「黒曜石原石」より)


島根県の隠岐島もまた黒曜石の産地として知られ
山陰地方のみならず畿内や瀬戸内地域、さらには朝鮮半島やロシア沿海州にまで流通していました。

隠岐の島黒曜石分布
前に、有名な「国引き神話」についてお話しました。
「国引き神話」のあらすじは、
”当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという。そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという。(Wikipedia「国引き神話」より)

通説では
高志=越国
志羅紀=新羅
「北門佐岐」=出雲市大社町or隠岐道前
「北門農波」=松江市島根町or隠岐道後

とされています。

一方で、
「北門佐岐」=北朝鮮のムスタン
「北門農波」=ロシアのウラジオストック
とする説を紹介しました。

その根拠の一つとして、黒曜石がありました。
aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-418.html

国引きイメージ2

「国引き神話」の話は別としても、隠岐島の黒曜石の分布からみれば、少なくとも出雲が朝鮮半島や沿海州と交易があったことは事実です。これだけ広範囲での交易が可能であったのは、巨大な勢力であったからのはずです。

こうした巨大勢力がそのまま「古代出雲王朝」になったのかは定かではありません。古事記・日本書紀を読む限り、むしろ「天国」からやってきたスサノオによって征服されたようにとれます。
いずれにしろ、こうした旧石器時代からの文化を何らかの形で引き継いだということでしょう。

さてここまでの説明を聞いて、あなたはどう思いましたか?

はじめは「古代出雲王朝」などと聞いて、ピンとこなかったかもしれませんが、
「なるほど、もしかしたら実在したかもしれない。」
と思われた方も多いでしょう。

実は古田氏は、この概念を「盗まれた神話」のなかで発表してますが、それは昭和49年(1974年)のことです。当時は、出雲神話などというものは単なる作り話だ、と考えていた人がほとんどでした。「出雲王朝」などと言えば、嘲笑されたものでした。

ところがここまでお話したとおり、その後1984年に荒神谷遺跡が発見されてから、空気は一変しました。論壇でも数多く取り上げられるようになりました。梅原猛氏の「葬られた出雲王朝」は有名ですね。

古田氏は、主として文献から「出雲王朝」の実在を確信したわけですから、その慧眼には感服せざるを得ません。

もちろんなかには、「「王朝」などといえるほどのものではない。単なる地方豪族にすぎない。」という反論もあるでしょう。

「王朝」とは正確にいえば、
① 帝王が政治を執り行なう所。天子の朝廷。
※史記抄(1477)三「此時に王朝に仕へて殺されたと云もわづらいもないぞ」 〔周礼‐地官・師氏〕
同じ王家に属する帝王の一系列。また、その帝王が支配している時期。「ルイ王朝」など。
(精選版 日本国語大辞典「王朝」より)

また「王朝」といえば、奈良・平安貴族のようなきらびやかなイメージももちますので、「出雲王朝」というと違和感を持つ方も多いでしょう。

そういう観点では、厳密な意味では「王朝」とは呼べないという意見もその通りかもしれません。
また「出雲古事記」なるものも、古田氏の推測するものとは、ピッタリ一致しているわけではないでしょう。しかしながら、だからといって一概に否定しうるものではありません。

少なくとも、当時の日本列島で随一とでもいうべき巨大勢力があったことは間違いありません。そしてその痕跡が、古事記などに記載され現代の私たちにも伝えられていることは、驚くべきことではないでしょうか?

当然のことながら、単に神話の内容のみならず、その思想・精神も私たちに受け継がれているはずです。そして現代の日本社会にも、反映されているはずです。こうした日本の古来からの思想・精神を、これからも大切にしていきたいものですね。

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古事記・日本書紀のなかの史実 (100) ~青谷上寺地遺跡が語ること

 「古代出雲王朝」の実在について、さらにみていきましょう。

1998年から発掘されている鳥取県鳥取市青谷町の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」で調査報告があり、古代史界に衝撃を与えました。

”青谷上寺地遺跡は、鳥取県鳥取市青谷町にある弥生時代前期の終わり頃(約2400年前)から古墳時代前期(約1,700年前)にかけて営まれた集落遺跡です。

 山陰自動車道の建設に伴って見されました。そして、弥生時代の人々が活動の拠点とした微高地からは、掘立柱の建物跡、火を焚いた跡、貝塚などが見つかり、玉作りや木器製作など、様々なものづくりに関係する鉄製や石製の道具や、中国大陸や朝鮮半島で製作された銅製品が出土しています。また、周辺に作られた溝の中からは、容器や農具など、多量の木製品、漁労に使用された骨角製品、人骨など、膨大な遺物が出土しました。

 注目されるのは、木製品、骨角製品、金属製品などが、どれもすばらしい状態で地中に埋もれていたことです。当時の造形や加工の痕跡、色彩を具体的に知ることができる超一級の文化財であり、主要な出土品1,353点が、令和2年に国の重要文化財に指定されました。(鳥取県HP「青谷上寺地遺跡」より)

国内では北部九州・北陸・中国南部・四国・近畿地方との交流があったことがわかってます。
隣の鳥取県でかような広域の交流があったということは、出雲も同様の、あるいはそれ以上の交流があったと考えていいでしょう。


青谷上寺地遺跡交流


さらに注目される点は、弥生人のDNAが数多く分析されたことです。そのうちミトコンドリア遺伝子すなわち女系の遺伝子の大半は、中国大陸・朝鮮半島由来、しかも北方から南方まで広範にわたることが判明しました。中国大陸・朝鮮半島との広範にわたる交流が、文化的のみならず人的にもあったことが確認されました。

一方、
男系の遺伝子は縄文系が多数を占め(4体のうち3体が縄文系)、女系遺伝子の結果とまったく異なります。これをもって、中国大陸・朝鮮半島からやってきた女性が、青谷上寺地遺跡に住んでいた縄文系の男性と結婚したようにもとれますが、話はそう単純ではありません。

男系・女系双方を併せた核ゲノムの解析結果では、青谷上寺地遺跡遺跡の人々は、弥生系渡来人の範疇におさまり、またそれは現代日本人とほぼ同じです。(「
鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析」(篠田謙一・神澤秀明他)より)

驚くべきことに、韓国釜山郊外の
獐項(ヤンハン)遺跡の6000年前の2体も同様です。これは‘朝鮮半島の集団の基層にも、縄文人につながる人たちの遺伝子があることを意味しています。”ちなみに現代韓国人は、東アジア大陸の人々により近い位置です。

これについて、
”縄文人が韓国にまで分布していたと考えるよりは、初期拡散で大陸沿岸を北上したグループの遺伝子が朝鮮半島にも残っていたと考えるほうが理解しやすい。”(とっとり弥生の王国 2021Autumn「続・倭人の真実」「何が見えてきたのか」(篠田謙一・神澤秀明他)より)としています。

このあたりの解釈は難しいところですが、いずれにしても、大陸・朝鮮半島と交流があったことは事実です。ということはそれを担う人々がいたはずです。いわば「縄文海人族」とでもいう人々です。そのあたり篠田氏は別書で次のように述べています。

”当時は国境があるわけではありませんし、北部九州の縄文人は朝鮮半島南部の集団と交流を持っていたことが考古学的遺物の研究からも明らかになっています。朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡からは、縄文人そのものといってよいほどの遺伝的類似性を持った人骨も発見されています。むしろ縄文時代相当期の朝鮮半島南部の集団と北部九州の縄文人集団を区別すること自体にあまり意味はないかもしれません。”(「人類の起源」(篠田謙一)P215より)

さてそうなると、
彼ら縄文海人族が大年(オオトシ)神の子神である韓神を信仰していた可能性はあります。だからこそ古事記に韓神と記載されたのかもしれません。

ところで古事記では、高天原から追放されたスサノオは、出雲に降り立ちます。一方、
日本書記の一書第四では、その途中、新羅に立ち寄ったとされています。

高天原を追放されたスサノオは、”その子イソタケルをひきいて、新羅の国に降られて、曾尸茂梨(ソシモリ、ソホル即ち都の意か)のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私はいたくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。”(「日本書紀」(宇治谷孟)より)

こうした神話も、北部九州・出雲・朝鮮半島との間に交流があったことを示しており、考古学的・科学的成果と一致してますね。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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