古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (3) 国譲り③ アメノワカヒコ
前回は、アマテラスの子アメノホヒを葦原中国に遣わしましたが、失敗に終わります。
【タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「天津国玉(アマツクニタマ)神の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之羽々矢(アメノハナヤ)と与えて葦原中国に遣わした。
しかし、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘の下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企み8年たっても高天原に戻らなかった。これを不審に思ったアマテラスとタカムスヒは八百万の神々とオモヒカネの勧めで雉名鳴女(キギシノナナキメ)を派遣して使命を果たさない理由をアメノワカヒコに尋ねさせた。】
アマツクニタマという見慣れない神名が出てきました。
”天の国魂神の意で、高天原の神霊。その性質はアマテラスや天之御中主(アメノミカヌシ)神と同じ。宇都志国玉(ウツシクニタマ)神に対する神。”(「古事記 祝詞」(倉橋憲司他校注)P
より)
ウツシクニタマとはオオクニヌシの別名です。これに対する神ですから、たいへんな地位にある神であり、高天原を支配する神の一柱のようにもとれます。しかしながら不思議なことに、古事記・日本書紀にはここ以外一切登場しません。
アマツクニタマの子が、アメノワカヒコです。
”若日子(ワカヒコ)とは大日子に対する語で、今の語で言えば大旦那に対する若旦那のような意。したがって天上界の若彦(世子)という普通名詞であったと思われる。”(同上)
世子(せし)とは、”天子・諸侯・大名など、貴人の跡継ぎ。よつぎ。”(デジタル大辞泉)のことですから、尋常ならざる神です。アマツクニタマとその子神アメノワカヒコは、実力ある神であったことがわかります。このアメノワカヒコの選定にも、タカムスヒの子であるオモヒカネが関わっています。
こうして選定されたアメノワカヒコですが、この神もまたアメノホヒ同様に、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して、配下に下ってしまいます。シタテルヒメとは、オオクニヌシが宗像のタキリヒメを娶して生んだ娘タカヒメのことです。

【ナキメがアメノワカヒコの家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺してしまいなさい」とアメノワカヒコをそそのかした。そこで彼は天つ神から与えられた天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)で鳴女の胸を射抜き、その矢はアマテラスと高木(タカギ)神の所まで飛んで行った。このタカギは、タカムスヒの別名である。
タカギは血が付いていたその矢を、アメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコは命令に背かないで、悪い神の射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心あれば、この矢に当たれ」と言って矢を下界に投げ返した。矢は朝の寝床に寝ていたアメノワカヒコの胸を射抜き、彼は死んでしまった。雉は射殺されたので還らなかった。このことから今の諺の「雉の行ったきりの使い」(梨のつぶて)というはじめである。】
ここでこれまでタカムスヒと表記されていた神が、高木(タカギ)神に変わります。なぜここで名が変わったのかは、諸説あります。
アメノワカヒコのために喪屋を作り弔います。喪屋とは屍を安置して葬儀を行う家のことで、殯宮(もがりみや)と同じです。昭和天皇の大喪の礼でも、皇居宮殿内に仮設されました。
この殯ですが、古代において実際に行われていたことが、福岡県八女市にある鶴見山古墳(6世紀中頃)で確認されています。
”銅鏡片にはヒメクロバエの蛹の跡や毛髪痕があり、これは遺体の腐敗がある程度進んでから埋葬されたこと、すなわち殯(もがり)の存在を示している。殯は文献からその存在が想定されていたが、実際に確認された例として貴重である。”(Wikipedia「鶴見山古墳」より)
葬式の様子も、たいへん興味深いです。
まずカワカリ、サギ、カワセミ、スズメ、キジが重要な役目を負います。ここで想起されるのは、装飾古墳の壁画です。
装飾古墳とは、
魏志倭人伝のなかに、”葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。”
という記載がありますが、それとそっくりです。
また現代においても、お通夜のあとの「通夜ぶるまい」や告別式のあとの「精進落とし」など催して、酒を伴った飲食をしますよね。
以上から、こうした風習は古来からあり、それが形は変わっていくものの、連綿として継承されていったと推察されます。
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【タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「天津国玉(アマツクニタマ)神の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之羽々矢(アメノハナヤ)と与えて葦原中国に遣わした。
しかし、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘の下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企み8年たっても高天原に戻らなかった。これを不審に思ったアマテラスとタカムスヒは八百万の神々とオモヒカネの勧めで雉名鳴女(キギシノナナキメ)を派遣して使命を果たさない理由をアメノワカヒコに尋ねさせた。】
アマツクニタマという見慣れない神名が出てきました。
”天の国魂神の意で、高天原の神霊。その性質はアマテラスや天之御中主(アメノミカヌシ)神と同じ。宇都志国玉(ウツシクニタマ)神に対する神。”(「古事記 祝詞」(倉橋憲司他校注)P
より)
ウツシクニタマとはオオクニヌシの別名です。これに対する神ですから、たいへんな地位にある神であり、高天原を支配する神の一柱のようにもとれます。しかしながら不思議なことに、古事記・日本書紀にはここ以外一切登場しません。
アマツクニタマの子が、アメノワカヒコです。
”若日子(ワカヒコ)とは大日子に対する語で、今の語で言えば大旦那に対する若旦那のような意。したがって天上界の若彦(世子)という普通名詞であったと思われる。”(同上)
世子(せし)とは、”天子・諸侯・大名など、貴人の跡継ぎ。よつぎ。”(デジタル大辞泉)のことですから、尋常ならざる神です。アマツクニタマとその子神アメノワカヒコは、実力ある神であったことがわかります。このアメノワカヒコの選定にも、タカムスヒの子であるオモヒカネが関わっています。
こうして選定されたアメノワカヒコですが、この神もまたアメノホヒ同様に、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して、配下に下ってしまいます。シタテルヒメとは、オオクニヌシが宗像のタキリヒメを娶して生んだ娘タカヒメのことです。

【ナキメがアメノワカヒコの家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺してしまいなさい」とアメノワカヒコをそそのかした。そこで彼は天つ神から与えられた天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)で鳴女の胸を射抜き、その矢はアマテラスと高木(タカギ)神の所まで飛んで行った。このタカギは、タカムスヒの別名である。
タカギは血が付いていたその矢を、アメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコは命令に背かないで、悪い神の射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心あれば、この矢に当たれ」と言って矢を下界に投げ返した。矢は朝の寝床に寝ていたアメノワカヒコの胸を射抜き、彼は死んでしまった。雉は射殺されたので還らなかった。このことから今の諺の「雉の行ったきりの使い」(梨のつぶて)というはじめである。】
ここでこれまでタカムスヒと表記されていた神が、高木(タカギ)神に変わります。なぜここで名が変わったのかは、諸説あります。
”高木神の「高木」は、一般には「高い木」の意として捉えられ、神の来臨する巨木に対する信仰(巨木信仰)と高御産巣日神の神格との結びつきが説かれている。
元来、タカムスヒは天の最高神と解されている。日・月を天と同一視する北方系の天の至高神の観念に基づき、タカムスヒを太陽神であったと考え、太陽神の依代としての巨木(高木)が名の由来になったとする説がある。
『古事記』では、元来太陽神として捉えられているタカムスヒが、同じく太陽神の神格を持つアマテラスと並列されている。『古事記』は類似する二神の内、高くてを「高木神」という別名を用いて格下げした形で記すことで、司令神としての主導権と天皇家の祖先神としての神格を、タカムスヒからアマテラスへ移行させたと解されている。(国学院大学 「古典文化学」事業 神名データベース「高木神」より)
真実は、なんともいえないところです。続きです。
【アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声を、天にいるアメノワカヒコ父・アマツクニタマや母子が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)を作った。
川雁(カワカリ)を食べ物を運ぶ役目として、鷺(サギ)を掃除係として、翠鳥(=カワセミ)を神に供える食物を用意する係りとし、雀(スズメ)を碓女(うすめ=米をつく女)とし、雉(キジ)を哭女(泣き女)という具合に葬式のやるべきことを定めて、八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。】『古事記』では、元来太陽神として捉えられているタカムスヒが、同じく太陽神の神格を持つアマテラスと並列されている。『古事記』は類似する二神の内、高くてを「高木神」という別名を用いて格下げした形で記すことで、司令神としての主導権と天皇家の祖先神としての神格を、タカムスヒからアマテラスへ移行させたと解されている。(国学院大学 「古典文化学」事業 神名データベース「高木神」より)
真実は、なんともいえないところです。続きです。
【アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声を、天にいるアメノワカヒコ父・アマツクニタマや母子が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)を作った。
アメノワカヒコのために喪屋を作り弔います。喪屋とは屍を安置して葬儀を行う家のことで、殯宮(もがりみや)と同じです。昭和天皇の大喪の礼でも、皇居宮殿内に仮設されました。
この殯ですが、古代において実際に行われていたことが、福岡県八女市にある鶴見山古墳(6世紀中頃)で確認されています。
”銅鏡片にはヒメクロバエの蛹の跡や毛髪痕があり、これは遺体の腐敗がある程度進んでから埋葬されたこと、すなわち殯(もがり)の存在を示している。殯は文献からその存在が想定されていたが、実際に確認された例として貴重である。”(Wikipedia「鶴見山古墳」より)
葬式の様子も、たいへん興味深いです。
まずカワカリ、サギ、カワセミ、スズメ、キジが重要な役目を負います。ここで想起されるのは、装飾古墳の壁画です。
装飾古墳とは、
”日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
令和元年に確認された情報では、5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。全国で723例ある。”(Wikipedia「装飾古墳」より)
珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県うきは市)です。

この装飾について、
”左側の船は,鳥に導かれて太陽のかがやく現世から,月の支配する夜の世界,すなわち死者の世界へまさに船出しようとする情景を表したもの。これらの絵画全体が右端の舳先に鳥をとまらせた大きな船の上に描かれているものととらえることも可能。”
と解釈されてます(「装飾古墳にみる他界観」(白石太一郎、国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月)より)。
鳥が重要な役割を果たしているのがわかりますね。鳥は天高く舞い上がることから、古代の人々は天上界と地上界を橋渡しする生き物ととらえていたのでしょう。
また”八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。”という描写も注目です。珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県うきは市)です。

この装飾について、
”左側の船は,鳥に導かれて太陽のかがやく現世から,月の支配する夜の世界,すなわち死者の世界へまさに船出しようとする情景を表したもの。これらの絵画全体が右端の舳先に鳥をとまらせた大きな船の上に描かれているものととらえることも可能。”
と解釈されてます(「装飾古墳にみる他界観」(白石太一郎、国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月)より)。
鳥が重要な役割を果たしているのがわかりますね。鳥は天高く舞い上がることから、古代の人々は天上界と地上界を橋渡しする生き物ととらえていたのでしょう。
魏志倭人伝のなかに、”葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。”
という記載がありますが、それとそっくりです。
また現代においても、お通夜のあとの「通夜ぶるまい」や告別式のあとの「精進落とし」など催して、酒を伴った飲食をしますよね。
以上から、こうした風習は古来からあり、それが形は変わっていくものの、連綿として継承されていったと推察されます。
↓ 新著です。よろしくお願い申し上げます!!
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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