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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (3) 国譲り③ アメノワカヒコ

前回は、アマテラスの子アメノホヒを葦原中国に遣わしましたが、失敗に終わります。

【タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「天津国玉(アマツクニタマ)神の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之羽々矢(アメノハナヤ)と与えて葦原中国に遣わした。

しかし、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘の下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企み8年たっても高天原に戻らなかった。これを不審に思ったアマテラスとタカムスヒは八百万の神々とオモヒカネの勧めで雉名鳴女(キギシノナナキメ)を派遣して使命を果たさない理由をアメノワカヒコに尋ねさせた。】

アマツクニタマという見慣れない神名が出てきました。
天の国魂神の意で、高天原の神霊。その性質はアマテラスや天之御中主(アメノミカヌシ)神と同じ。宇都志国玉(ウツシクニタマ)神に対する神。”(「古事記 祝詞」(倉橋憲司他校注)P
  より)
ウツシクニタマとはオオクニヌシの別名です。これに対する神ですから、たいへんな地位にある神であり、高天原を支配する神の一柱のようにもとれます。しかしながら不思議なことに、古事記・日本書紀にはここ以外一切登場しません。

アマツクニタマの子が、アメノワカヒコです。
”若日子(ワカヒコ)とは大日子に対する語で、今の語で言えば大旦那に対する若旦那のような意。したがって天上界の若彦(世子)という普通名詞であったと思われる。”(同上)

世子(せし)とは、”天子・諸侯・大名など、貴人の跡継ぎ。よつぎ。”(デジタル大辞のことですから、尋常ならざる神です。アマツクニタマとその子神アメノワカヒコは、実力ある神であったことがわかります。このアメノワカヒコの選定にも、タカムスヒの子であるオモヒカネが関わっています。

こうして選定されたアメノワカヒコですが、この神もまたアメノホヒ同様に、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して、配下に下ってしまいます。シタテルヒメとは、オオクニヌシが宗像のタキリヒメを娶して生んだ娘タカヒメのことです。

シタテルヒメ・アジスキタカヒコネ系譜


【ナキメがアメノワカヒコの家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺してしまいなさい」とアメノワカヒコをそそのかした。そこで彼は天つ神から与えられた天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)で鳴女の胸を射抜き、その矢はアマテラスと高木(タカギ)神の所まで飛んで行った。このタカギは、タカムスヒの別名である。

タカギは血が付いていたその矢を、アメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコは命令に背かないで、悪い神の射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心あれば、この矢に当たれ」と言って矢を下界に投げ返した。矢は朝の寝床に寝ていたアメノワカヒコの胸を射抜き、彼は死んでしまった。雉は射殺されたので還らなかった。このことから今の諺の「雉の行ったきりの使い」(梨のつぶて)というはじめである。】

ここでこれまでタカムスヒと表記されていた神が、高木(タカギ)神に変わります。なぜここで名が変わったのかは、諸説あります。

”高木神の「高木」は、一般には「高い木」の意として捉えられ、神の来臨する巨木に対する信仰(巨木信仰)と高御産巣日神の神格との結びつきが説かれている。
 元来、タカムスヒは天の最高神と解されている。日・月を天と同一視する北方系の天の至高神の観念に基づき、タカムスヒを太陽神であったと考え、太陽神の依代としての巨木(高木)が名の由来になったとする説がある。
『古事記』では、元来太陽神として捉えられているタカムスヒが、同じく太陽神の神格を持つアマテラスと並列されている。『古事記』は類似する二神の内、高くてを「高木神」という別名を用いて格下げした形で記すことで、司令神としての主導権と天皇家の祖先神としての神格を、タカムスヒからアマテラスへ移行させたと解されている。(国学院大学 「古典文化学」事業 神名データベース「高木神」より)

真実は、なんともいえないところです。続きです。

【アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声を、天にいるアメノワカヒコ父・アマツクニタマや母子が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)を作った。
川雁(カワカリ)を食べ物を運ぶ役目として、鷺(サギ)を掃除係として、翠鳥(=カワセミ)を神に供える食物を用意する係りとし、雀(スズメ)を碓女(うすめ=米をつく女)とし、雉(キジ)を哭女(泣き女)という具合に葬式のやるべきことを定めて、八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。】

アメノワカヒコのために喪屋を作り弔います。喪屋とは屍を安置して葬儀を行う家のことで、殯宮(もがりみや)と同じです。昭和天皇の大喪の礼でも、皇居宮殿内に仮設されました。
この殯ですが、古代において実際に行われていたことが、福岡県八女市にある鶴見山古墳(6世紀中頃)で確認されています。

”銅鏡片にはヒメクロバエの蛹の跡や毛髪痕があり、これは遺体の腐敗がある程度進んでから埋葬されたこと、すなわち殯(もがり)の存在を示している。殯は文献からその存在が想定されていたが、実際に確認された例として貴重である。”(Wikipedia「鶴見山古墳」より)


葬式の様子も、たいへん興味深いです。
まずカワカリ、サギ、カワセミ、スズメ、キジが重要な役目を負います。ここで想起されるのは、装飾古墳の壁画です。

装飾古墳とは、
”日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。大半が九州地方、特に福岡県、熊本県に集中している。福岡県桂川町の王塚古墳(国の特別史跡)、熊本県山鹿市のチブサン古墳などが有名である。
令和元年に確認された情報では、5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。全国で723例ある。”(Wikipedia「装飾古墳」より)

珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県うきは市)です。
珍敷塚古墳
この装飾について、
”左側の船は,に導かれて太陽のかがやく現世から,月の支配する夜の世界,すなわち死者の世界へまさに船出しようとする情景を表したもの。これらの絵画全体が右端の舳先に鳥をとまらせた大きな船の上に描かれているものととらえることも可能。”
と解釈されてます(「装飾古墳にみる他界観」(白石太一郎、国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月)より)。

鳥が重要な役割を果たしているのがわかりますね。鳥は天高く舞い上がることから、古代の人々は天上界と地上界を橋渡しする生き物ととらえていたのでしょう。

また”八日八夜の間、踊り食べて飲み遊んで、死者を弔った。”という描写も注目です。
魏志倭人伝のなかに、
葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。”
という記載がありますが、それとそっくりです。

また現代においても、お通夜のあとの「通夜ぶるまい」や告別式のあとの「精進落とし」など催して、酒を伴った飲食をしますよね。

以上から、こうした風習は古来からあり、それが形は変わっていくものの、連綿として継承されていったと推察されます。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (2) 国譲り② アメノホヒ

 
前回はタカムスヒの子、オモヒカネについての話で終わりました。訳文を再掲します。

タカムスヒアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、
思金(オモヒカネ)
「この葦原中国は、我が子の治めるべき国と委任して与えた国である。 この国に迅速に荒れすさぶ国津神たちが多くいるようだ。どの神を葦原中国に派遣すべきか。」問うた。オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になった。そこでアメノホヒを遣わしたが、オオクニヌシにへつらい従って、3年経っても復命しなかった。】


さて話し合いの結果、遣わす神をアメノホヒと決定しました。
アメノホヒとは、
”アマテラスとスサノオが誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。

葦原中国平定のために出雲のオオクニヌシの元に遣わされたが、オオクニヌシを説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達がオオクニヌシの子である事代主(コトシロヌシ)神や建御名方(タケミナカタ)神を平定し、地上の支配に成功すると、オオクニヌシに仕えるよう命令され、子の建比良鳥(タケヒラトリ)命出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。また、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建てたとも伝わる。”(Wikipedia「アメノホヒ」より)

せっかく遣わしたアメノホヒですが、なんとオオクニヌシに媚びへつらい従ってしまいます。始めに遣わしたオシホミミといい、アマテラスの子達はなんとも頼りないですね。しかしこれは逆に言えば、いかにオオクニヌシの勢力が強大で、とても太刀打ちできまいと思ったからでしょう。
その一方、異なる伝承もあります。

”任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、地上の様子をアマテラスにきちんと報告し、子のアメノヒナドリおよび剣の神経津主(フツヌシ)神とともに地上を平定した英雄として讃えられている。
ただし『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として「火日」の意味として太陽神とする説がある。”(同上)

出雲国造神賀詞では、見事平定した英雄として称えられていおり、まったく逆な描かれ方です。
出雲国造神賀詞とは、
”出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。”(Wikipedia「出雲国造神賀詞より)

古事記編纂は712年なので、ほぼ同時期です。720年に編纂された日本書紀にも同様の記載があります。ではなぜ出雲国造神賀詞では、古事記・日本書紀と真逆の描かれ方がされているのでしょうか?

『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるから、との説明がされていますが、はたしてそうでしょうか?


”武光誠は、『神賀詞』に見られる国譲り神話のほうがその原形に近いとしている。この説によると、この神話は元々出雲氏の祖・天穂日命が大国主神を鎮めるという形で伝えられたが、朝廷による支配が強まると、天穂日命の手柄が軽んじられるようになってしまった。
一方、瀧音能之(2012年)は『神賀詞』では天穂日命が復命を怠った神とされていないと同時に、国譲りの交渉にも直接関わっていないことを指摘して、このことから『神賀詞』に見られる伝承は記紀の神話を意識して整えられたものであると主張している。”(Wikipedia「国譲り」より)

諸説ありますが、ヤマト王権の考えとは逆のストーリーを勝手に創作できるはずもありません。となると、やはりこちらが原型だった可能性が高いと推察されます。

もうひとつ、注目点があります。

”また、アメノホヒの後裔氏族として野見宿禰(ノミノスクネ)、その子孫として土師氏があり、土師氏から秋篠氏、菅原氏、大枝氏(後の大江氏)へ改姓したとのこと。菅原氏からは堂上家である高辻家、五条家、唐橋家、桑原家、清岡家、東坊城家が派生し明治期には内五家が子爵になったとのこと。大江氏からは中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されているとのこと。
また大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。その曾孫として鎌倉期に頼朝を支えた大江広元がいるとされる。
(Wikipedia「アメノホヒ」より)

野見宿禰といえば、2つの有名な伝承が、日本書紀に記載されています。

”野見宿禰については、『日本書紀』垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。それによると、大和国の当麻邑に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿禰を召し、当麻蹶速と相撲を取らせた。野見宿禰は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地(現・奈良県葛城市當麻)を野見宿禰に与えた。そして、野見宿禰はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。野見宿禰の「野見」は、『出雲風土記』飯石(いいし)郡条に「能見」地名の記載があり、この地の出身とされている

野見宿禰に関する2つ目の伝承として、埴輪を発明したとするものがある。『日本書紀』垂仁32年7月6日条によれば、垂仁天皇の皇后である日葉酢媛(ヒバスヒメ)命が亡くなった時、それまで垂仁天皇は、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していた為、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿禰が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人のかわりに埋めることを奏上し、これを非常に喜んだ天皇は、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿禰に与えたとある。”
(Wikipedia「土師氏」より)

以上の説話が史実に基づくものなのかはなんとも言えませんが、少なくとも土師氏の出自が出雲であることから生まれた話でしょう。さらに高天原が対馬・壱岐であるならば、後代に名家となる土師氏の淵源が北部九州となることにも注目です。

ちなみに卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳ですが、「土師の墓」が「土師墓」さらに「箸墓」になったとする説もあります。


誓約系譜 アメノホヒ



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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (1) 国譲り① タカムスヒとオモヒカネ

しばらくにわたり、日本語の源流についてお話してきましたが、今回からまた、古事記・日本書紀に戻ります。
テーマは「天孫降臨」です。さっそく訳文を読んでいきましょう。訳はWikipedia他を基に、適宜修正しています。

【高天原に住むアマテラスは、「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホホミ)命が治めるべき国である」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原のアマテラスに報告した。】

葦原中国は原文では、「豊葦原之千秋長五百秋之水穗國(とよあしはらのちあきのながいほあきのみずほのくに)」です。文字通り、「長く久しく稲穂の実る国」という意味です。
ここからわかることは、アマテラスの住んでいた高天原は、水田の豊かな国ではなかった、ということです。なぜなら、もともと豊かな水田があったのなら、このような表現はしないはずだからです。

高天原とは、観念的な世界ではなく、実在した地域のことを指しているということは、これまでにお話してきました。その地域とは、対馬・壱岐島ではないか、と考えていることもお話しました。

魏志倭人伝には、
対馬について、
”この土地は、険しい山と深い森がほとんどで、道路ときたら鳥や獣の踏み分け道のようである。千余戸あるものの、良い田んぼはない。海産物を食べて自活しているが、海に乗って南北へ米の買い出しに出かけたりもする。”
 
壱岐について、
”竹林や雑木林が多く、三千ばかりの家がある。少しばかり田畑もあるにはあるが、いくら耕しても食べていけない。そこで、この国も、南北に米の買い出しに出かけるのである。”

との記載があります。
いずれも良い畑がなく、漁業や交易に頼っていたわけです。そのような島に住んでいた人々からすれば、美田のある地域はさぞかし魅力的に映り、なんとしても手に入れたい地域だったことでしょう。

その地は、アマテラスの御子であるオシホホミが治めるべきと言ってますが、そこには当然のことながら、すでに人々が暮らしていたわけです。なぜオシホホミが治める地なのか、その理由を挙げていません。つまり大義名分がない、ということになります。

案の定、オシホホミは
「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と言って、戻ってきてしまいます。つまり、すでに住んでいた人々から大きな反発があり、征服できなかったということです。

タカムスヒアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、思金(オモヒカネ)
「この葦原中国は、我が子の治めるべき国と委任して与えた国である。 この国に迅速に荒れすさぶ国津神たちが多くいるようだ。どの神を葦原中国に派遣すべきか。」問うた。オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になった。そこで天菩比命を遣わしたが、オオクニヌシにへつらい従って、3年経っても復命しなかった。】

オシホホミの失敗を受け、戦略変更です。ここでアマテラスとともに、タカムスヒが登場します。タカムスヒは、諸説ある神です。

”『古事記』によれば、天地開闢の時、最初に天之御中主神(アメノミナカヌシ)が現れ、その次に高天原に出現したとされるのが高御産巣日神(タカムスヒ)という神である。この次に神産巣日神(カミムスヒ)が出現した。 天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。

息子に思金神(オモヒカネ)、娘に万幡豊秋津師比売命(ヨロズバタトヨアキツシヒメノミコト)等がいる。また、『日本書紀』ではスクナビコナも子の一柱に数えられる(『古事記』ではカミムスビの子とされる)。

『古事記』ではヨロズバタトヨアキツシヒメノミコトがアマテラスの御子神のオシホミミと結婚して生まれたのが天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)である。このことからタカムスヒはニニギの外祖父に相当する。

のちの皇室はタカムスビの血を引いているとされるが、記紀神話、特に日本書紀でのタカムスヒはアマテラスより優位に立って天孫降臨を司令する。このため、タカムスヒが本来の皇祖神だとする説がある。”(Wikipdia「タカムスビ」より)

タカムスヒは古事記冒頭の天地開闢(かいびゃく)に登場する造化三神の一神であり、根源的な神ということになります。その後の神代七代のイザナギ・イザナミから最後に生まれたのが、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴神です。

その一方、タカムスヒの娘のヨロズバタトヨアキツシヒメは、
アマテラスの子のオシホミミと結婚します。つまりタカムスヒはニニギの外祖父に当たり、アマテラスと同時代の神であることがわかります。

タカムスヒ・オモヒカネ系譜

これをどう解釈するかです。造化三神のタカムスヒと今回のタカムスヒは、まったくの別の神という考え方もあります。あるいは神なのだから、そこまで厳密に考えるものでもない、という考えもあります。

私は、タカムスヒは本来アマテラスと同時代の神であり、のちの時代に、造化三神に据えられたのではないか、という仮説を以前提示しました。詳細は、
”図とデータで解き明かす 日本古代史の謎 7: 古事記・日本書紀のなかの史実① 天地開闢からアマテラス誕生まで”
を参照ください。



さてアマテラスとタカムスヒは、オモヒカネ”どの神を葦原中国に派遣すべきか。”と問いかけます。オモヒカネはタカムスヒの子で、ヨロズバタトヨアキツシヒメの兄です。つまりオシホミミの義理の兄に当たります。

実はオモヒカネは、以前にも天岩戸神話で登場しています。アマテラスが
岩戸隠れした際に、大勢の神々が、天の安(あめのやす)の河原に集まって、オモヒカネに思慮の限りを尽くさしめて、オモヒカネは常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせるなどの知恵を授けました。
これについて、
”わが上代に氏族の代表者が野外に会合して、事を議し行うという原始的代議制度の存したことを推測させる。”
と述べられています(「古事記 祝詞」(倉野憲司他校注)P81より)。

今回も同様に、
オモヒカネと神々が相談して「天菩比(アメノホヒ)命を派遣するのが良い」という結論になったわけです。

日本人は、どちらかというと一人のトップが強烈なリーダーシップをもって事を進めるというより、集団合議的な傾向が強いと言われますが、こうした文化は、遠い古代から引き継がれているのかもしれませんね。

もうひとつの注目は、いずれもタカムスヒの子のオモヒカネが主導していることです。つまり実質的には、背後にいるタカムスヒが主導していると考えられます。これから出てくる天孫降臨でもタカムスヒが主導しており、こうしたことからも、もともとの皇祖神はタカムスヒではなかったか、とされているわけです。

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倭の五王は本当に天皇だったのか?【ゆっくり解説】

 YOUTUBE第五弾です。

【宋書倭国伝】倭の五王は本当に天皇だったのか?

宋書倭国伝を読み解きながら、
倭の五王はだれかについて
考察していきます。



私がシナリオを書いてます。
楽しんでいただければ幸いです。


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日本語系統論(13)~日本語はもっとも古い言語のひとつ!?

ここまで12回にわたって、松本克己氏の「世界言語のなかの日本語」論を読みながら、解説してきました。
松本氏は、
・環太平洋の言語は、ひとつのかたまりとでもいうべき特徴を備えている言語が多い。
・なかでも日本語・朝鮮語・アイヌ語・ギリヤーク語は韓日本海諸語と呼ばれる特異な特徴をもっており、系統不明である。

という説を提唱してます。

それらをさらに読み解き、
・環日本海諸語は古い歴史をもち、人類の祖先が10万年以上前にアフリカを出たときの特徴を残しているのではないか?
・アフリカからのルートは、南インドのドラヴィダ語族圏を通過し、環太平洋へともたらされたのではないか?

という仮説を提示しました。

これに関連して、別の視点から考察した興味深い論文があるので、紹介します。
「数理的手法を用いた日本語の系統に関する考察」(小橋昌明 ・田中久美子 東京大学工学部計数工学科 東京大学大学院情報理工学系研究科、言語処理学会 第 17 回年次大会 発表論文集 (2011 年 3 月))からです。

論文では、日本語の起源の仮説として、
a.アルタイ語族の一つ
b.オーストロネシア語族との関係
  環太平洋言語圏・・中国語、ミャオ・ヤオ語族、タイ・ガダイ語族、オーストロアジア語族
c.タミル語

を挙げ、これらの妥当性を数理的手法に基づいて考察しています。

これらを
1.近隣結合法
2.最大節約法
3.ベイズ法
により系統樹を生成して、考察しています。

”日本の近くの孤立言語 (日本語と同様、どの語族に属するが判明していない言語) には、韓国語、アイヌ語、ギリヤーク語 (ニヴフ語) がある。この 3 つは考察の対象とする。第 2 節を踏まえ、以下の言語を考察する。

(1) アルタイ語はツングース諸語・モンゴル諸語・テュルク諸語の 3 つに分かれる。ツングース諸語、モンゴル諸語の中で WALS (The World Atlas of Language Structure)データが一番充実しているのは、それぞれエベンキ (エウェンキー) 語、モンゴル語である。この 2 つを対象に入れる。

(2) オーストロネシア語族の中で主な言語であり、WALS データも充実しているインドネシア語、タガログ語、マオリ語を対象に入れる。その他、日本の近くの大言語で、「環太平洋言語圏」の要素である中国語を入れる。

(3) タミル語、及びタミル語と同じドラヴィダ語族南部ドラヴィダ語派に属するカンナダ語を対象に入れる。

追加データとして、松本 からのデータ(「世界言語のなかの日本語」)も用いた。同書 pp. 188~191 の表をもとにデータを作成した。素性は流音のタイプ、形容詞のタイプなど全 10項目である。松本によれば、これらの素性は「手近な語彙項目や表面的な形態・統語構造ではなく、言語の
もっと内奥に潜みしかもそれぞれの言語の基本的な骨組みを決定づけるような言語特質、話し手の認知の在り方や言語によるそのカテゴリゼーション、言語のいわば遺伝子型に相当するような形質である」。”

日本語系統樹
3 つの手法で生成した系統樹は類似している。同じ語族の言語は系統樹の近い位置に出現する。これは、それぞれの手法の妥当性をある程度示していると言える。また、どの手法でも日本語に最も近いのは韓国語になった。

日本語の系統について、どの仮説が妥当か考えるために、それぞれの系統樹で日本語からの距離を計算する。各仮説に対応する 2 つないし 4 つの言語までの距離の平均を以下に示す。それぞれの手法で距離の定め方は異なるので、異なる手法の間で距離を比較するのは無意味である。

どの手法についてもアルタイ語族が一番距離が短く、ついでドラヴィダ語族、環太平洋言語(オーストロネシア諸語・中国語)の順となっている。


日本語からの距離


この結果からは、3 つの仮説の中では日本語がアルタイ語族の系統であることを 3 つの手法が共に示唆している。松本のデータは日本語と環太平洋言語圏との類似性を指摘するものであり、それを加味してもなおアルタイ語族が最も近い語族という結果になった。また、3 つの異なる手法で同様の結果が得られたことも確実性を高めたと言える。

とはいえ、この結果は言語間の親近性を示すものであり、当然ながらこれだけから日本語がアルタイ語族の一員であると断定はできない。実際にアルタイ語族の一つであるというためには、祖語の存在とそこからの分岐を説明する必要がある。

また、アルタイ語族が語族であるのか、語族とはどうあるべきかについても再検討の余地があるだろう。これについてはさらなる研究を行う必要がある。”

難しい表現ですが、要点としては
・日本語に一番近い言語は韓国語である。
・語族でみるとアルタイ語族、ドラヴィダ語族、環太平洋言語の順に近い。
です。

この結果をもとに、冒頭提示した

・環日本海諸語は古い歴史をもち、人類の祖先が10万年以上前にアフリカを出たときの特徴を残しているのではないか?
・アフリカからのルートは、南インドのドラヴィダ語族圏を通過し、環太平洋へともたらされたのではないか?
という仮説をみてみましょう。

人類移動と言語分布
やや古い地図ですが、こちらによれば、10万年ほどまえにアフリカを出た人類は、東西に分かれ、西に向かったグループは、インド北部に到達しました。さらに東南アジアまで進み、ここで北上するグループと南下するグループに分かれます。

北上したグループが、中国大陸から日本列島に入ってきましたが、2つのルートに示されます。一つは朝鮮半島から入ってきたグループ、もうひとつは樺太から南下してきたグループです。

これによれば、日本語に一番近い言語が、韓国語であるのは、当然でしょう。
また次に近いのが、アルタイ語族であるのも、合点がいきますね。
またドラヴィダ語族は、インドでの通過点付近ですから、近いのも説明がつきます。

本来であれば、オーストロネシア諸語や中国語のほうが、ドラヴィダ語族より日本語に近くてもよさそうですが、それはのちの時代に、その地域の言語が変化したからでしょう。

以上のように考えると、”日本語を含む環日本海諸語は、10万年以上前にアフリカを出たときの特徴を残している。”という仮説も、説得力が出てくるのではないでしょうか?

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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