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【消された九州王朝】太宰府は倭国の都だった!?

 YOUTUBE第八弾です!

【消された九州王朝】太宰府は倭国の都だった!?

倭国の都は奈良ではなく九州の大宰府にあったという説を、考古学的根拠をもとに解説しています。古代山城が守るものとは、そして大宰府と「令和」の不思議な関係とは・・?



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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (11) 国譲り11 鹿島神社と鹿島神宮の関係

前回、北部九州と常陸との関係をお話しました。

福岡県久留米市にある高良大社に、「高良大社神秘書」というたいへん貴重な書物が残っています。このなかに、
”アントンイソラと申すは、筑前国にては志賀、常陸国にては鹿島大明神、大和国にて春日大明神と申すなり。一躰分身、同体異名の御ことなり。”(六条)
とあります。

アントンイソラとは、安曇磯良のことです。安曇磯良とは、
”海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っていると伝わる。
海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、阿曇磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。”(Wikipedia「阿曇磯良」より)

安曇磯良については古事記・日本書紀には登場せず、よくわかっていないことが多いですが、志賀海神社と関係が深いのは確実です。そしてまた鹿島神宮とも同じ関係とあるのに注目です。

鹿島は「しかしま」と読むと、志賀の「しか」と同じです。また志賀海神社境内には鹿の角一万本が納められた「鹿角堂 」があります。つまり鹿への信仰があるということになり、鹿島にもつながりますね。

志賀海神社


もうひとつ、北部九州と常陸を結ぶものがあります。それは装飾古墳です。
”古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称。5世紀から7世紀ごろに九州の北・中部に集中して作られた。日本全国に約600基があり、その半数以上に当たる約340基が九州地方に、約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にある。”(Wikipedia「装飾古墳」より)


装飾古墳分布
装飾古墳

なぜ九州の北・中部から遠く離れた地域に分布するのか、不思議に思いますが、古来からの海人族すなわち北部九州を拠点とする安曇族らの活動により、伝播していったと推測されます。これが直接的に卜部とつながるということではないかもしれませんが、少なくとも宗教的なつながりがあったことは確かです。こうした流れのなかでとらえれば、中臣氏が常陸の地で活動していたのも自然です。

以上から、常陸の鹿島神宮および藤原鎌足についての理解が深まったと思います。
では、出雲の鹿島神社とは、どのような関係なのでしょうか?

まず出雲の鹿島神社の創建については、よくわかっていません。もし仮に膳夫神社とともに、国譲りの史実を反映しているのであれば、神代の創建ということになります。私の仮説によれば、弥生時代中期あたりとなります。
その時代に、北部九州の海人族が出雲にやってきたということです。

一方の、常陸の鹿島神宮の創建は、そこまで古くないと考えられています。そうなると、直接的な関係はない可能性が高いですね。

とはいえ、北部九州と常陸は宗教的なつながりはあり、中臣氏もその一翼を担っていたことでしょう。その中臣氏の子孫(養子?)の藤原鎌足が、後の時代になり、国譲りの武神であるタケミカヅチを常陸の地に祀ったのが鹿島神宮ということになります。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (10) 国譲り⑩ 藤原氏の出自と鹿島神宮

 
前回は、出雲の鹿島神社と茨城県の鹿島神宮の概略でした。両社の関係を考察する前に、鹿島神宮と関係の深い藤原氏についてみてきましょう。

藤原氏といえば大和王権において、長年にわたり中枢的な役割を果たしてきた名家ですが、鹿島の地とはどのような関係なのでしょうか?

”中臣鎌足の出生地は、大和藤原説と鹿嶋市下生説の二つがあります。下生説は、平安時代後期に藤原家がまとめた『大鏡』に、藤原鎌足は鹿島神宮のある常陸の鹿島で生まれたと記されています。鹿嶋市に残る言い伝えでは「神官の子として生まれ、名を鎌子といい、極めて利発な子でしたので、奈良の都へ行かせ、中臣本家に養子となった」と伝えられています。”(鹿嶋市HP 鹿島市郷土かるたの部屋「名をあげた藤原の祖 中臣鎌足」より)

地元の伝承が史実であるなら、藤原鎌足は鹿島出身ということになります。彼が奈良に行き中臣氏の養子になったということならば、中臣氏と直接の血縁関係にはなかったことになります。
他の説もあります。

”一説によると、鎌足の父は中臣御食子といい、鹿島神宮に仕える神官でした。
御食子は若くして都に学び、妻を伴って帰郷しました。
そして、鹿島の地で鎌足が生まれました。

ちょうど稲刈りの季節でしたので、その稲刈りには欠かせない大切な道具である鎌にあやかり、「鎌子」と名づけられました。
鎌子が、すくすくと成長し、二歳になった時のことです。
鎌子の母の夢の中に白狐があらわれ、「この子は、将来、国のためにりっぱな仕事をする人です。なおざりにすることなく、しっかりと育てなさい。」といい、鎌を授けていったというのです。
目が覚めた母親は、白狐のお告げを信じ、それには、やはり都で学問をさせてあげなければと考えました。
それからしばらくして、御食子は妻子を伴い、鹿島を後にして再び都へ向かったということです。また、「鎌子」という名は、白狐の授けた鎌からとったともいわれています。”(「鎌足の生誕地」(茨城の民話webアーカイブ)より)

これによると、鎌足の父が神官の中臣氏で、都から帰郷して鎌足が生まれたことになります。養子ではなさそうです。

どちらが史実に近いかはわかりません。前回鹿島神宮の祭神に、タカミカズチに加えて、中臣氏の祖神であるアマノコヤネが祀られていてもよさそうなのに、そうでないのは不思議である、という話をしました。

もし鎌足が中臣氏の養子であれば、中臣氏の祖神であるアマノコヤネが祀られていないのもなんとなくわかる気はします。なぜなら鎌足は中臣氏にそれほどの思い入れがなかった、という解釈もできるからです。

鹿島神宮・鎌足神社

では中臣氏についてみてきましょう。

”本拠地は、河内国河内郡(かわちのこおり。現・大阪府東大阪市周辺)で、枚岡(ひらおか)神社を氏神とし、このほか摂津国三嶋郡(現・大阪府高槻市、茨木市周辺)も有力な拠点であった。又、常陸国の鹿島神社・下総国の香取神社もこの氏の氏神であった。
中臣氏の先祖は、『古事記』『日本書紀』の天石屋戸(あまのいわやと)の段に登場する天児屋命(アマノコヤネノミコト)とされる。

石屋戸に籠もった天照大神に外へ出てもらうために、この天児屋命と忌部(いんべ)氏の「遠祖」の布刀玉(フトタマ)命(太玉命)が、天香山の聖なる木を根ごと掘り取り、上の枝には玉を、中の枝には八咫鏡(やたのかがみ)を、下の枝には白和幣(しろにきて)、青和幣(あおにきて)を掛け、皆で一緒に祈禱したという。

とりわけ、『古事記』では布刀玉命が「太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて」、天児屋命が「太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まお)した(祝詞を述べた)」とあるのが注目される。これらは、両氏の職掌を表現したものとみられる。

二度目に現れるのは、天孫降臨のくだりで、『古事記』では忌部、猿女(さるめ)、鏡作、玉作らの上祖及び天児屋命の「五伴緒(いつとものお)」が邇邇藝(ニニギ)命と共に天降ったとある。『日本書紀』でも神代下第九段第一の一書(あるふみ)では、同趣旨の内容である。第二の一書では、
「天児屋命は、神事の宗源を主(つかさど)る者なり。故に太占(ふとまに)の卜事(うらごと)を以て仕え奉らしむ(天児屋命は、神事の宗源を主る者である。だから太占の占いを以て仕えてくることができた)』
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』の「大中臣系図」には、常磐大連公について、
『始めて中臣連姓を賜る。本は卜部(うらべ)なり。』
とある。もとは卜部だったというのである。これらを根拠に中臣氏の前身は、卜部であり、欽明朝に中臣連姓を賜ったとする説がある。

卜部は対馬、伊豆、常陸などに分布する卜占(ぼくせん)集団だが、横田健一は、常陸の鹿島社を奉祭する卜部が中央に進出し、宮廷の雨師的司祭者として立身したのが、中臣氏ではないかとした。
田村圓澄(えんちょう)は、『大鏡』の「鎌足の大臣の生まれ給えるは、常陸の国なれば」という記述などから、鎌足の常陸出身説を唱えている。(「日本の古代豪族100」 (水谷千秋)P 153 - 157   より)



中臣氏系譜

中臣氏は、天岩戸神話に登場したアマノコヤネの子孫であり、もとは卜部であった、というものです。鎌足の父親が神官であったこともうなづけます。注目は、卜部が対馬・伊豆・常陸などに分布している点です。なぜ中臣氏・あるいは鎌足が常陸と関係しているのか、の答えのヒントがここにありそうです。
また、
”祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。”(Wikipedia「タケミカヅチ」より)
ともされています。

なおタケミカヅチとアマノコヤネの関係について、
アマノコヤネの父をタケミカヅチとする説があり(鈴木真年「伊豆宿禰系図」『百家系図稿』第一冊)、それに従えばタケミカヅチは中臣氏の上祖となる。”(Wikipedia「鹿島神宮」より)
との説もあります。

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古事記・日本書紀のなかの史実Ⅱ (9) 国譲り⑨ 膳夫神社と鹿島神社

オオクニヌシは国譲りを承諾しましたが、その続きです。

”このようにオオクニヌシが申して、出雲国の多芸志(たぎし)の小浜(おばま)に神聖な神殿を造って、水門(ミナト)の孫の櫛八玉(クシヤタマ)神膳夫(かしはで、料理人)となって、神饌(しんせん)を奉るとき、クシヤタマが鵜になって海底に潜り、海底の粘土を咥えて出て、多くの平たい土器を作り、海藻の茎を刈って火鑽臼(ひきりうす)に作り、海蓴(こも)の茎で火鑽杵(ひきりきね)を作って、神聖な火を鑽り出して、言祝(ことほぎ)の詞を唱えて言った。

この私が鑽(き)り出した火は、高天原では神産巣日御祖(カミムスヒノミオヤ)の立派な新しい御殿の煤(すす)が、長々と垂れさがるまで盛んに焚き上げ、地の下は地底の磐石に届くまで焚き固まらせて、千尋の長い栲縄(たくなわ)を海中に延ばして海人(あま)の釣る、口が大きく尾鰭(おひれ)の見事な鱸(すずき)を、ざわざわと賑やかに引き寄せ上げて、載せる台もたわむほどにたくさん盛り上げて、魚の料理を奉ります。

そこでタケミカヅチは、高天原に帰り上って、葦原中国を平定し、帰順させた情況を復命された。”


多芸志の小浜に立派な殿舎を造ります。多芸志とは、出雲市武志町のことと考えられます。当時の斐伊川は今とは違い、西に曲がり神門海に流れていました。その斐伊川のほとりにあったから、小浜といったのでしょう。なお殿舎を出雲大社のこととする説もありますが、場所が違いますね。

その場所に膳夫(かしわで)神社跡があります。

”出雲国風土記に記されている『国譲り神話』で、大国主大神が天照大神の使者に対し出雲の国を譲ることを了承した後、天御舎(あめのみあらか)という建物を造り、大国主大神と使者との間で交渉成立を祝う宴がひらかれたとされています。
 この祝宴があげられたといわれる場所が、膳夫神社蹟です。
斐伊川の中州にあったため、たびたびの氾濫で被害を受けることが多く、明治44年(1911年)に鹿島神社に合祀され、現在跡地には石碑が建てられています。地元ではこの地を「板御前原(いたごぜんばら)」と呼んで親しんでいます。”(出雲市HP「膳夫神社蹟」より)

さてこの祝宴は誰のために催したのか、です。これをオオクニヌシのためと解釈する説もありますが、タケミカヅチが国譲りを迫り、オオクニヌシがそれを承諾したあとに開催されたのですから、タケミカヅチをもてなすためと考えるのが自然でしょう。



膳夫神社蹟


膳夫神社蹟位置
合祀された鹿島神社ですが、
”鹿島神社には、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使いとして大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを迫った武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)が祀られています。明治44年(1911年)には膳夫神社を合祀し、膳夫神(かしわでのかみ)である櫛八玉命(くしやたまのみこと)も御祭神となりました。
 武運長久、交通・海上安全、料理・陶芸上達、おもてなしなどにご利益があるとされています。”(出雲市HP「鹿島神社」より)

祭神は
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
・経津主命(フツヌシノミコト)
・天鳥船命(アメノトリフネノミコト)
櫛八玉命(クシヤタマノミコト)
配祀
・天照大御神(アマテラスオオミカミ)
・天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)

鹿島神社といえば、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮が想起されますが、関係はあるのでしょうか?
鹿島神宮の概要です。

”全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。
古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。
祭神は次の1柱。
武甕槌大神
『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない。

一方、『常陸国風土記』では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(カシマノアメノオオカミ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない
8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある。

鹿島周辺では多くの縄文時代遺跡は見つかっているが、弥生時代の遺跡は数箇所程度にとどまっている。古墳時代に入っても古い古墳は見つかっておらず、神宮境内における祭祀遺物でも、発掘された土器は6世紀以降のものとされている。”(Wikipedia「鹿島神宮」より)

鹿島神宮の祭神はタケミカヅチで、中臣(藤原)氏が深く関わっています。ただし中臣氏の氏神はアマノコヤネなのに、なぜか祀られていません。一方、出雲の鹿島神社には配祀されていますね。
鹿島神宮のもともとの神は「香島神」であったが、それがタケミカヅチに置き換えられた可能性があります。

もうひとつみてみましょう。
”鹿島・香取神宮の由緒を辿ると、藤原氏の前身である中臣氏と深い関わりが見て取れる。中臣氏が関わりを持つ以前は、物部氏が武甕槌大神と経津主大神を奉じて、この一帯を支配していたという。藤原鎌足の時代には両宮の運営を掌握していたという説もある。『大鑑』には藤原鎌足が鹿島神宮の神官を務めたあと都にやって来たと記され、のちに藤原氏の庇護を受ける奈良の春日大社に武甕槌大神と経津主大神が勧請された。

彼らの本来の氏神は天児屋根命なのに、2神がその上に立った。古代史研究家の大和岩雄氏によれば、「伊勢神宮の内宮と下宮が対になっているように、鹿島・香取両神宮も本来はペアであり、「伊勢」には天皇家の氏神を祀り、「鹿島・香取」は藤原氏が一族の正統性を証明するために、格の高い神を他の氏族から乗っ取って氏神にしてしまった」という(『神社と古代王権祭祀』白水社)。こうして藤原氏は、天皇家の伊勢と、「自家の氏神」鹿島・香取だけに「神宮」を名乗らせた。両宮が藤原氏にとっていかに重要な存在であったかがわかる。なぜそこまで重視されたのか。鍵を握るのは「水運」である。

鹿島神宮の社殿は、参道の中ほどに北面して建てられている。全国の神社の多くが南面を通例とするなかで珍しい例である。これは歴代の朝廷が警戒してきた北方の蝦夷に睨みをきかせるため、つまり北方鎮護の社であったことを意味している。”(「水郷に鎮座する武神の社 鹿島神宮・香取神宮」(小島幸子)より)

つまりもともとは物部氏がタケミカヅチとフツヌシを祀っていたが、物部氏の没落とともに藤原氏が乗っ取ったことになります。

では、出雲の鹿島神社との関係についてですが、それは次回にお話しします。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。

拙著です!
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