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【訪問ありがとうございます!】初めて訪問くださった方へ

<この記事は、当面この位置に掲載します。最新記事は、下にあります。>

訪問ありがとうございます。このブログは、様々な資料をもとに、日本古代史の真のすがたを解き明かしていくブログです。全体として、ひとつの読み物になってます。初めて訪問された方にわかりやすいよう、これまでの流れをまとめました。

【これまでの流れ】
日本の神話から始まり、中国史書、朝鮮史書を一通り読みながら、日本人(弥生人)の源流である倭人がどこからやってきて、邪馬台(壹)国、そして大和朝廷となったのかを、ひとつの壮大な仮説として導いてきました。その仮説のストーリーとは・・・

倭人はもともと揚子江下流域に住んでいました。そこへ黄河中流域の周王朝の太伯(たいはく)がやってきて、呉(ご)を建国しました(紀元前 11世紀頃)。

春秋時代の動乱で、呉が越(えつ)に破れ(紀元前473年)、呉の人々は、四散しました。そのなかに、朝鮮半島へ逃れ、さらに南下した倭人がいました。その後の動乱もあり、次第に朝鮮半島南部や対馬、壱岐などに住みながら勢力拡大した倭人(海人族)は、ついに日本本土上陸を試みます。それが、国譲り神話であり、倭人(海人族)のトップが、天照大神(あまてらすおおみかみ)、日本本土のトップが、大国主命(おおくにぬしのみこと)です。

国譲りを迫られた大国主命は、国を譲ることを決意しました。天照大神は、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)を、九州北部、今の福岡県博多湾岸近辺に上陸させます。それが、天孫降臨(てんそんこうりん)神話です(紀元前5世紀後半前後)。
邇邇芸命の子孫は、次第に勢力を拡大して、倭国を形成します。倭国の首都が、邪馬台(壹)国です(九州王朝)。

一方、邇邇芸命の傍流であった神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみことのちの神武天皇)は、東へ向かい、大和の地に居を構えます(神武東征神話紀元前1世紀前半頃)。

邪馬台国は、女王卑弥呼の時代(3世紀前半)から、倭の五王の時代(5-6世紀)を経て、西日本を中心に支配します。
神武天皇の子孫は、大和を拠点に勢力を拡大します。

朝鮮半島出兵を繰り返していた倭国(九州王朝)は、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に完敗して、急速に勢いを失い滅亡、大和勢力が日本を統治するにいたり、国名も日本国と改名しました(8世紀初頭)。

こんなストーリーです。このストーリーに対して、文献、遺跡、出土物、科学的データはじめさまざまな切り口で、検証を進めています。

既刊本です。



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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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嬉しいです。

このブログを見つけてとても嬉しいです。
楽しみに拝読いたします。
これからも学会とやらの定説とか通説とかにとらわれない真摯な研究成果のご発表を期待しております。よろしくお願いします。

Re: 嬉しいです。

身にあまるお言葉をいただき、光栄です。たいへん、励みになります。ありがとうございます。
"自国の歴史をもたない民族は、誇りをもって生きることができない"と言われます。まさに、今の日本がそのような状況にあると感じます。
私は、このブログでお話ししている内容が、100パーセントすべて正しい、などと押し付けるつもりはありません。客観的事実を積み重ねていくと、このように解釈するのが最も合理的である、というに過ぎません。あとは、読者のみなさんに、ご自分で考えていただければ、と思います。
国民全体のなかで、こうしたことを積み重ねることにより、やがて真実の歴史が見えてくると考えております。
今後とも、よろしくお願いいたします。

応援です

こんにちは。いつもお世話になっております。
もとを知らないので何だかよくわからないときもありますが、理論的に説明いただいて、図解もあって、ほほぉーっと面白く拝見しております。

横スレになって申し訳ないですが、日本文化には誇りを持ちたい思いが先走り、神社や能楽等の日本文化紹介しか取り扱っていない未熟者ですが、管理人様のようにもっと歴史を掘り下げて調べたいです。

これからも応援してます。

Re: 応援です

つねまるさま、お久しぶりです!。
いつもブログ拝見してます。心がほんわかして、あったかい気持ちになれます。

応援ありがとうございます。能や狂言の中には、古代日本の話しを反映している話もある、と聞いたことがあります。そういった点からも、能、狂言には興味がありますが、いかんせん全くの素人なもので、これから勉強できればと思ってます。いろいろ教えていただけると嬉しいです。
私のブログも、最近は細部に入ってますので、分かりにくいところがあるかな、と感じてます。わかりずらいところがあれば、遠慮なく質問してください。自分の勉強にもなりますので・・・。

今後ともよろしくお願いいたします!

No title

こんにちは。
縄文時代が注目されるようになって久しいですが、
古代の文字についてはいかがですか?

私も歴史好きで、特に文字については関心があります。

素晴らしいです

 非常に素晴らしいまとめです。
 「謎の国々は実在したか?」を拝読・拝見しました。
 古田さんは「東日流外三郡誌」では大失敗をしましたが、彼の古代史の着想はそれを補って余りあるものです。
 西田陸軍軍曹の帰国、沖縄のキープ文字、3万年前に神津島の黒曜石が本土にもたらされていること。すでに舟をもっていたことです。
 東夷とは大きな弓を持つ人です。銕も野たたらの低温で行われていたと思います。古代人はとても能力の高い人たちです。現代人はもっともっと勉強して古代人に近づかなくてはなりません。
 とても良い論文をこれからも続けてください。


Re: No title

miyabica さんへ
コメントありがとうございます。
縄文時代に文字があったのかは、今のところよくわからないというところです。
神代文字は、後世の創作説が強く、私としても?です。
ただし、三内丸山遺跡などの巨大構築物を作ったほどの、文明をもっていたわけですから、何がしかの意志伝達の手段があったことでしょう。たとえばブログにも書きましたが、縄文土器の文様は、記号や数字を表しているとの説もあります。そのあたりは、もう少し研究の余地がありそうです。

Re: 素晴らしいです

十川昌久さま
たいへん有難いコメント、感謝します。
確かに古田武彦氏は、素晴らしい研究を数々残している一方、あれ?というものもあり、それがまた、氏の評価をさまざまなものにしてしまっている要因と言えます。
しかしながらご指摘の通り、それを補って余りあるほどの業績を残しているのは事実です。特に「原文を、自分の都合のいいように安易に改定してはいけない」という姿勢は、大いに評価すべきでしょう。
今後も、こうした基本姿勢をしっかり守って、研鑽につとめたいと考えてますので、よろしくお願いいたします。

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素晴らしいお仕事ですね。

初めまして。
ブログ「現代謡曲集 能」の翁元雅です。

私も理系の人間です。
ミトコンドリアDNAやY染色体ハプロタイプによる、
人類のルーツの話は、
どこかの文化人類学の教授の講義で、
聞いたことがあります。

けれども、古事記その他の神話や文献、
中国史の記述をも解析した結果が、
DNAによる分析と極めて近い結果になるとは!

洋の東西を問わず、
神話というものは、
歴史的事実と、
人生哲学、
法学、政治学、倫理学などを、
総合的に記録した物です。

また、外伝、秘伝と称する、
口伝による記録は、
意外に正確な事実を、
留めていることも多いのです。

神話を字義通りに解釈するのは愚かですが、
民族史上の重大なエピソード、
誰もが知る重大な事実をたたき台に、
教訓を述べると言うのは、
教育学的にも優れた発想です。

文系の人々は概して感情論で動くだけですが、
理系の人間が望むのは事実の探究、
優れた技術の開発など、
客観的な事実の模索です。

疑うための疑いなど、
何も生み出さず、
主観に囚われており、
バイアス以外の何物でもありません。

Re: 素晴らしいお仕事ですね。

翁元雅さま
たいへん光栄なコメントありがとうございます。

このブログは、”現在明らかになっている事実を集めて、仮説を立て、検証していく”というスタンスをとってます。
そのスタンスに基づくと、ここまでお話してきたようなストーリーが、描かれてくるわけです。

もちろん別の見方はいくらでもできます。
史書の解釈にしても、他にいくらでも解釈できます。DNA解析などはまだ始まったばかりで、今後さまざまな説が発表されるでしょう。そうしたなかで、現時点で最も可能性が高いと考えられる仮説を立て、今後軌道修正していけば、真実に近づいていけると考えます。そのための材料を提供できれば、と思います。

ところで、翁さまは能をやられているのですね。
能については全く知見がないのですが、古代に関連する話もあると聞いたことがあります。
興味があるところであり、いずれ勉強したいと思ってます。





『古代史ビューア【麻呂】』について

古代日本史研究用のソフト『古代史ビューア【麻呂】』をつくりました。
下記からダウンロードして使ってみてください。
http://www.kojiki.org/maro/
改善点などアドバイスいただければ幸いです。

初めまして

楽しみに拝見させていただいております
早速ですが どの様にお考えか教えていただきたく ご連絡させていただきました

白村江は九州勢力の戦いとのことですが
天智 斉明天皇は自らは近畿に基盤があり
九州勢力に戦わせた とお考えなのでしょうか

自らの不勉強を棚に上げてではありますが
私は近畿勢力の戦いだと考えております

Re: 『古代史ビューア【麻呂】』について

関根聡さま
紹介ありがとうございます。ソフトの容量がやや大きそうですね。今はゆっくり見る時間がないので、時間が空いたときにでも見させていただきます。

Re: 初めまして

やまいこくさま
質問ありがとうございます。
白村江の戦いから壬申の乱あたりは、話がグチャグチャになっており、史実がどうだったのか、正直よくわからないところです。
私は、白村江の戦いは、近畿勢力が九州勢力に戦わせたとは考えてません。当時の日本(倭国)を支配していたのは、九州王朝であり、白村江の戦いも、唐・新羅連合軍と戦ったのは九州王朝と考えてます。
ひとつの論拠として、中国史書の旧唐書では倭国伝と日本国伝を分けてあることです。倭国伝は九州王朝、日本国伝は大和政権について、と考えます。そして倭国伝は白村江の戦いのまえで終わってます。一方、日本国伝には白村江の戦いの記載がありません。
その他詳細は、ここまでのブログをお読みいただければと思います。

早速のお答えありがとうございます

確かに旧唐書によれば九州倭国と大和日本国の二国がある と読めると思います
一方 日本側の資料から 私は以下の様に考えます

1 斉明天皇が九州 朝倉宮まで行幸し そこで崩御した

2 額田王が同行し愛媛 熟田津で兵士を鼓舞する歌を詠んだ

3 白村江敗戦後 天智天皇は唐の攻撃を恐れ近江遷都した

以上の点から 白村江の戦いは近畿勢力が主体である

私は中国側の記録と日本側の記録がかみ合っていないと考えています
正しい歴史が再現できると良いですね
これからもブログの更新が楽しみです

Re: 早速のお答えありがとうございます

やまいこくさま

中国側と日本側の資料が合っていないのは事実です。双方、解釈するのが難しいところが多々あります。
その場合、どちらがより史実に近いかです。

私は、中国側のほうが、より史実に近いと考えます。なぜなら、中国側にとってみれば、日本について誤ったことを敢えて記載する理由がないからです。もちろん中国皇帝にとり、都合の悪いことは削除したり改変することはあるでしょうが、だからと言って、何でもかんでも誤っている、という解釈はどうかと思います。中国にとり、日本などは数ある朝貢国の一つに過ぎず、膨大になる史書の一つ一つをわざわざねつ造したというのも、考えにくいのではないでしょうか、

一方、日本側はどうでしょうか。自らの歴史を記録に残すわけですから、自らの正当性を高めるために、都合よく改変するという強い動機が働いたことが推測されます。

また、中国史書の三国志魏志倭人伝から後漢書、宋書、隋書、旧唐書、新唐書などを一通り読みますと、内容は終始一貫しており、書かれていることに、さほどの齟齬はありません。

それに対して、古事記、日本書紀は、矛盾が多すぎ、一つのストーリーとしてのまとまりがありません。これは、すべてが作り話ということではなく、編纂する際、日本各地の英雄譚などをまとめ、あたかも大和政権がその主人公であるかのように描いたことがその一因ではないか、と考えてます。

このあたりはいずれブログでも書きたいと思ってます。



白村江の件

私の考えを以下に述べさせて頂きます

1 中国側の記録を読んでも 日本国は近畿であると読めるが 倭国が九州か近畿かは不明

2 日本側の記録では白村江の倭国は明らかに近畿 何年何月何日に○○天皇がどうしてこうして これらの記載が終始捏造とは考えられない

3 白村江は敗北であり日本にとって都合良い内容ではない 遠く九州の敗北を近畿の我々が敗北しました と書く理由が無い つまり敗北したのは近畿である 厳密に正確かはわからないが大枠では近畿の敗北は隠しようの無い事実であった

4 英雄譚とは 「スサノオが悪者のヤマタノオロチを殺しました その結果美人を妻としました」といった内容のはずである 日本各地の英雄譚などを記述するなら もっと過去のよく分からない時代として書くはずであり 白村江の記述は詳細すぎる つまり近畿の敗北という事実を反映していると考えられる

5 魏志倭人伝から新唐書まで中国の記録が一貫しているというのは同意できます しかしそれは前の正史を読んでそれに上乗せして書いています という事である 前の記録が間違っていても捏造だったとしてもそれを延長してしまう という事は一貫してるが故に真実に近いとは言えない

6 古事記は推古天皇までなので白村江は記録外 また神話なので矛盾があっても問題とは思えない 日本書紀の全体に矛盾がある事は賛成できますが 白村江に関して絞り込めば矛盾は無い またストーリーも自然に感じられる

7 一千年以上昔に数百キロも離れた出来事について自分の事であるがごとく 記録が残っているとは考えられない また捏造するなら近畿にとって有利に捏造するはずである 九州は負けたけど我々近畿は正義の味方だから助けてやったぞ でも無いし 捏造とは思えない

以上の点から白村江の主体は近畿勢力であると考えます

Re: 白村江の件

やまいこくさんへ

白村江の戦いに、かなりの興味があるようですね。
私の考えは、ここまでコメントしたとおりです。ただし、あくまで限られた史料だけから推測するしかないわけで、史実がどうであったのかを断定するのは、極めて難しいと思います。

また白村江の戦いのことだけを論じても、水掛け論になってしまいます。やはり大事なのは、長い時間軸のなかで、一貫したストーリーが描けるかです。少なくとも、紀元前後から8世紀頃までを、体系的に矛盾なく説明できるかです。そして、そこには科学的な視点が必要です。

やまいこくさんは、どのようなストーリーを描いているのでしょうか?
紀元前後に中国史書に出てくる倭国、そしてその宗主国であった邪馬壹(台)国は、どこにあったとお考えですか?
私は、九州北部にあったと考えてます。そうでないなら、他にどことお考えでしょうか?。具体的な根拠とともに、教えてください。

私の論理は、すべてここから構築されてます。ですからここの出発点が違うなら、その後の結論も異なって当然です。そういう意味で質問した次第です。


白村江前後

古代史のストーリーについて 以下に私の考えを述べさせていただきます

卑弥呼死去 248年 ほか
中国古書の倭国は九州北部と考えます

しかし
仏教伝来 538または552年
聖徳太子 574〜622年
遣隋使 遣唐使
大化の改新 645年
白村江 663年
これらは全て列強近畿の歴史であり
その頃までに九州は衰退したと考えます

仮に663年以前の歴史が 列強九州 と 弱小近畿 であるなら 以下の点が不自然です

百済は九州を無視して近畿に仏教伝来させた
弱小近畿の遣隋使 遣唐使が列強九州の抵抗も無く中国に渡った
九州独自に遣隋使 遣唐使を送っていない
(まさか聖徳太子が九州在住でそこから遣隋使 遣唐使を送ったとか)
白村江以前の九州独自の記録が全く明確でない


歴史の大きな流れで 日本の中心が九州から近畿に移行したのは 白村江以後急激に移行したとは考えられない

例をあげます
江戸時代初期 日本の文化経済の中心は大阪だった 江戸は 将軍様のお膝元 政治の中心ではあるが街の規模は小さかった しかし幕末期には政治だけで無く 文化経済の中心も江戸に移行した 江戸時代を通じて大阪と江戸に明確な対立や重大な事件があった訳では無い

九州から近畿への移行も類似と考えます

Re: 白村江前後

やまいこくさんの古代史認識がわかりました。
ありがとうございます。

古代の倭国、つまり卑弥呼がいたところは、九州北部とのこと。
そこまでは私と同じですね。

では、その倭国から主体が畿内へと移ったのはいつ頃とお考えでしょうか?

まず倭の五王は、どちらの王でしょうか?

私は、九州倭国の王と考えます。
根拠は、以前のブログに書いた通りです。
もし違うとお考えなら、4世紀には、畿内に主体が移ったことになります。
どのような経緯で、移ったとお考えですか?
そのように考える根拠は何でしょうか?

また倭の五王が天皇には比定しえないことをブログに書きましたが、
それについては、どのようにお考えですか?

聖徳太子については、実在を疑う学者も多いのは、ご存じと思います。
それについては、何ともいえないところですが、少なくとも、
旧唐書倭国伝にあるとおり、「日出ずる処の天子より」の手紙を出した(600年)のは、
聖徳太子ではありません。「多利思北弧(たりしほこ)」という名前の王です。

そもそも日本書記には、600年の遣隋使の記録はありません。607年にしても、
相手の国名は「大唐」となってます。
つまり、畿内勢力が、遣隋使を送ったという記録は、どこにもありません。

以上について、どのような見解をお持ちでしょうか。
お聞かせください。







はじめて
本日初めて訪問させて頂きました
ただの「いち古代ファン」ですが大変面白い記事ばかりですね!
今後のご活動も期待しています

Re: タイトルなし

成さま
コメントありがとうございます。励みになります。
ご意見・感想、わかりにくいところなど、お聞かせくださればうれしいです。参考にさせていただきます。
今後とも、よろしくお願いいたします。

邪馬台国の発祥地

『三国志魏書』東夷伝・倭人条に記載された、
邪馬台国(=邪馬臺国・読みは、やまとこく)の発祥地は、
伊都国(佐賀県小城市牛津町)から水行二十日南下の、
「倭が君は~」即ち、国歌が謡われた観音堂大鍾乳洞の在る、
投馬国(読みは、とまや← →やまとの倒語)トカラ列島の宝島である。

【▲矛圏(物部氏)】難升米の、邪馬壹(やまい)国は、吉野ケ里。
【●鑑兼(曽我氏)】泰与(とよ)の、邪馬臺国は、トカラ列島の宝島。

No title

弥生人なんて人種いませんけど。(どこから来た?とか最初からいたんでしょ。)あんたの先祖が大陸半島でも他の人は違うんだから、人様を巻き込むのはやめましょうね。
そもそも仮説ではなく結論ありきの妄想だろw

Re: No title

> 弥生人なんて人種いませんけど。

コメントの趣旨がよくわかりません。弥生人の定義について言っているのでしょうか。少なくとも通説での弥生人が大陸からやってきたことは、遺伝子工学から確実です。貴殿のように考えるのは自由ですが、コメントするのであれば科学的論拠を示してからにしてください。

呉との倭人往来に付き

 「一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?(6)」 、興味深く読みました。揚子江流域にあった呉と言う国と、倭の間に、そんな縁があったのですね。
 以下、単なる素人の感想なのですが、推定移動ルートの図を参照させて頂く程に、呉が滅ぼされた際、わざわざ朝鮮半島経由で日本に向かう、というのは、難しいのでは無いかという気がしてなりません。結構な距離なので、朝鮮半島南端に至る前の途中で、どこかに土着してしまいそうに思えます。「其支庶入海為倭」と記事にあるなら、素直に、直接渡海して倭に向かったという事で良いのでは?
 そもそも呉の建国自体、”もともと住んでいた倭人とともに”ということなら、この倭人はどこから来たのでしょう?倭から朝鮮半島経由で?いえ、それは、考えにくいと思います。
 朝鮮半島経由での往来に付き、昔の資料に基づいての御主張ならば、それら文献を提示して頂ければ、私などにも納得しやすいと思うのですが…。
 以上、単なる思い付きで恐縮ですが、気になりましたのでコメントさせて頂きました。

Re: 呉との倭人往来に付き

優雅洋子さま

コメントありがとうございます。

>  以下、単なる素人の感想なのですが、推定移動ルートの図を参照させて頂く程に、呉が滅ぼされた際、わざわざ朝鮮半島経由で日本に向かう、というのは、難しいのでは無いかという気がしてなりません。結構な距離なので、朝鮮半島南端に至る前の途中で、どこかに土着してしまいそうに思えます。「其支庶入海為倭」と記事にあるなら、素直に、直接渡海して倭に向かったという事で良いのでは?

呉が滅ぼされた際、多くの民が四散したことでしょう。敵の越は南に位置してますから、北・東・西に逃げた人々が多かったのではないかと考えられます。
東は海ですから、直接舟に乗り海流に乗れば、ある人々は朝鮮半島南部に着いたでしょうし、直接日本列島にたどり着いた人々もいたでしょう。そのまま北上し、山東半島あるいはさらに北上して遼東半島あたりから舟に乗り、朝鮮半島や日本にやってきた人々もいたでしょう。
ご質問は、そこから朝鮮半島を南下するとなると途中で土着してしまうのではないか、ということですね。
確かにそのような考えももっともですが、考古学的見地からそのルートの可能性が指摘されてます。またその説を否定するだけの根拠も持ちえません。
実証するには、当時の古代人の骨のDNA鑑定をやるしかありませんが、北朝鮮はじめほとんど調査されてませんので、現段階ではこれ以上わからない、ということになります。なおこうした事実を示す公式の古文献はありません。

>  そもそも呉の建国自体、”もともと住んでいた倭人とともに”ということなら、この倭人はどこから来たのでしょう?倭から朝鮮半島経由で?いえ、それは、考えにくいと思います。

倭人がどこから来たのか?、ですが、まず「倭人」の定義をする必要があります。
私は倭人(の一部になりますが)は、揚子江下流はじめとして広域的に活動していた海人族と考えてます。では彼らがどこから来たのか、については、
「日本人はどこからやってきたのか」シリーズ
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-category-42.html
を一通りお読みください。

昔の天皇ちょっとサバ読んでるよなぁ
と思いこのブログに辿り着きました。
読みやすく、面白いです。

Re: タイトルなし

ありがとうございます。
励みになります。
ぜひ楽しみながら読んでください。

> 昔の天皇ちょっとサバ読んでるよなぁ
> と思いこのブログに辿り着きました。
> 読みやすく、面白いです。

No title

最新のDNA鑑定によると
倭人は南方系の様です。
神武天皇は宮崎県から船で東進したのでは。
倭人の入れ墨に関しては
①南方系の民族の習慣?
②罪人が島流しで住みついて、代々習慣になった?
と疑問が多いのですが。

Re: No title

Ben Yamagataさんへ
コメントありがとうございます。

> 最新のDNA鑑定によると
> 倭人は南方系の様です。
> 神武天皇は宮崎県から船で東進したのでは。
> 倭人の入れ墨に関しては
> ①南方系の民族の習慣?
> ②罪人が島流しで住みついて、代々習慣になった?
> と疑問が多いのですが。

質問でいう倭人の定義ですが、3世紀ころに日本に住んでいた人々ということであれば、当時は縄文人・渡来系弥生人など混在してました。それぞれさまざまなルーツが言われてますが、遺伝子工学からみて、南方系の要素が強い人々が多かったと推測してます。入れ墨はそうした人々の風習だったと考えます。
神武天皇については、実在ということであれば、北部九州が出自ではないかと考えてます。詳しくはいずれブログに書く予定です。

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古代の人口分布と倭人王朝の国力

はじめまして。
この記事で倭人のルーツから日本の成り立ちまでスッキリ書かれていて、良かったです。

ところで、古代の人口分布を見ると、九州〜大和と比較して関東〜中部が圧倒的に人口が多いと思うのですが、そもそも倭人は何故土着の勢力に勝てたのでしょうか?

武装や戦争技術が違いすぎて勝負にならなかったのでしょうか?
縄文人レベルの文明だと兵站や城の概念も無さそうです。

Re: 古代の人口分布と倭人王朝の国力

ivarさんへ
コメントありがとうございます。

> > ところで、古代の人口分布を見ると、九州〜大和と比較して関東〜中部が圧倒的に人口が多いと思うのですが、そもそも倭人は何故土着の勢力に勝てたのでしょうか?
> > 武装や戦争技術が違いすぎて勝負にならなかったのでしょうか?
> > 縄文人レベルの文明だと兵站や城の概念も無さそうです。

古代の人口分布とは、いつの時代を指しているのかわかりませんが、少なくとも縄文末期から弥生時代にかけては、相当数の人々が、西日本にも住んでいたことは、遺跡の分布からも明らかです。
その頃、渡来系の人々が日本列島にやってきたわけですが、土器の使用状況などからみて、その数は年間にすればそれほど多くなかったと推測されてます。長い年月を経るうち次第に増加していきますが、土着の人々を侵略したというよりも、共存しながら徐々に融合していったようです。
よくいう「騎馬民族が渡来して征服した」といったものではなかったと考えてます。

古代の人口分布と倭人王朝の国力

https://www.cool-susan.com/2016/02/01/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3/

↑出典不明なのですが、上記ブログ(クール・スーサンさん)のページに縄文時代~弥生時代の人口分布図があります。
縄文中期あたりの人口分布は東日本優勢で、晩期でもやはり多いようです。寒冷化でかなり減ったようですが。

弥生人は平地の耕作地、縄文人は山・川・海沿いで棲み分けが出来ていて、衝突する事が無かったのかもしれませんね。
ただ、東夷は凶暴という印象はあったようですから、東の関からは衝突があったという事かも?

Re: 古代の人口分布と倭人王朝の国力

ivarさん

> 出典不明なのですが、上記ブログ(クール・スーサンさん)のページに縄文時代~弥生時代の人口分布図があります。
> 縄文中期あたりの人口分布は東日本優勢で、晩期でもやはり多いようです。寒冷化でかなり減ったようですが。
>
> 弥生人は平地の耕作地、縄文人は山・川・海沿いで棲み分けが出来ていて、衝突する事が無かったのかもしれませんね。
> ただ、東夷は凶暴という印象はあったようですから、東の関からは衝突があったという事かも?

人口の出典が不明なので何ともいえないところです。かつて小山修三氏がシミュレーションを発表しているので、そのあたりでしょうか。もしそうだとすると、小山氏がシミュレーションしたのはかなり昔の話です。その後、たとえば鹿児島県で上野原遺跡が発掘され、縄文時代東日本優勢説に疑問が出てきてます。
近年多くの遺跡が発掘され、またまだまだ眠っている遺跡が多々あるでしょうから、過去の人口推定も見直しが必要かと考えます。

人口分布の件、納得致しました。
現代の都市開発で遺跡が発掘される事が多いと思いますので、大都市圏に遺跡が多くなるのかも?

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No title

その時代の気候だとこんなのはいかがでしょうか?
日本気象学会とか言う怪しげな団体(笑)の「邪馬台国の気候」というpdfのURLです。

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiQrsH_0qf5AhVDBd4KHdFBBwgQFnoECAcQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.metsoc.jp%2Ftenki%2Fpdf%2F1972%2F1972_09_0485.pdf&usg=AOvVaw2-nNfoAbi13DuEIjVRwXt-

Re: No title

マロンさんへ

コメントありがとうございます。
読んでみます。

> その時代の気候だとこんなのはいかがでしょうか?
> 日本気象学会とか言う怪しげな団体(笑)の「邪馬台国の気候」というpdfのURLです。
>
> https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiQrsH_0qf5AhVDBd4KHdFBBwgQFnoECAcQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.metsoc.jp%2Ftenki%2Fpdf%2F1972%2F1972_09_0485.pdf&usg=AOvVaw2-nNfoAbi13DuEIjVRwXt-
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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