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謎の国々は実在したか?(6) ~ Man across the Sea

前回、古田武彦氏が三国志魏志倭人伝から読み解いた「裸国」「黒歯国」の話と、アメリカ人研究者らによる縄文土器とエクアドルのバルディビア遺跡出土の土器を比較することにより得られた結果が、奇しくも一致したことをお話しました。それは、”古代日本人が舟で太平洋を渡り、南米エクアドルに到達していた”という話です。

これだけ読むと、”単なる奇説であり、リアリティがない”と感じる人も多いと思います。つまり、”日本とアメリカにいる風変わりな学者が空想をふくらませて唱えた説が、たまたま一致したにすぎない。学会などで正式に議論されたわけではないではないか。”と思うわけです。

これも、もっともな話であり、確かに日本において、この説が学会などで真剣に議論されたとは、聞いたことがありません。

ところが、アメリカではそうではないのです。ここで、ひとつの本を紹介します。

「Man across the Sea  ~(邦題)倭人も太平洋を渡った」(ライリー編著、古田武彦監訳)

です。


1977年出版とだいぶ古い本ですが、1968年5月に、ニューメキシコのサンタ・フェで開催されたアメリカ考古学会の全国集会の内容を、収めたものです。テーマは”あのコロンブスの「アメリカ発見」よりずっと前から、新世界と旧世界との間に、すでに親密な交流がおこなわれていたのだ。”です。

”似たような文明が存在した場合、それは古代人が海を渡って文明を伝えた”とする「伝播」論者と、”そうではなく、新世界において独自に発明した”とする「独立発明」論者が、喧々諤々、議論を闘わせている様子が、よくわかります。

その中の一人、エドウィン・ドーラン・ジュニアは、

・エクアドルのいかだとアジア沿岸のイカダの起源が同じであること。

・ヘイエルダールのコンチキ号の航海(1952年)で、ペルーからトゥアモトウスまで航海したこと。

・ドン・ビショップの航海(1956~1958年)で、タヒチからジュアン・フェルナンデ諸島(8000km、6ケ月)、南チリからマニヒキ(11200km,6ケ月)まで、航海したこと

・日本人の小舟が、記録に残るものだけでも60回漂流したが、そのうち6回はシトカ(アラスカ南部)とコロンビア川の間まで、6回は、メキシコ海岸、あるいはその沖合までたどりついたこと、

・白人が初めてアメリカの北西海岸サーモン・インディアンを訪問したとき、日本人の奴隷がいたという記録があること

などから、

「太平洋を越えるイカダの航海は、全く実行可能なものだ」

と断言してます。

さらに、

・紀元前200年頃のエクアドルの遺跡の中から、アジア的な特徴をもつ、一連の出土物(家の型、網野おもり、苦力(クーリー))は、広く東南アジア、東アジアに分布している(エストラーダ、メガーズ)。同時に、中国前漢王朝(BC206-AD8)のものとして特に知られている。

としたあと、驚くべき仮説を主張してます。

 あの秦の始皇帝から命ぜられて、不老不死の薬を求め海外に消えた徐福伝説について、

徐福がたどり着いたのは、日本ではなくアメリカではないか?」

と。

外国(アメリカ?)の学者が徐福のことを知っているのも驚きですが、さらにそこから発展させて、徐福アメリカ渡来説を打ち立て、学会で堂々と発表しているのですから、その柔軟な発想には、感心させられます。
                  

また、ダニエル・ランダル・ベイルネは、古代世界の斧と手斧を調査研究し、6つに類型化しました。それらが、旧世界と新世界にまたがって分布していることを示し、そのなかで、「伝播」の可能性があるものを挙げました。具体的には、

”中国から南太平洋を横切って、おそいテンポの進み方で、南アメリカへ伝播した”

”日本からエクアドルへ”

”インドネシア、メラネシアから、太平洋の島々に広がり、ペルー海岸のモチカへ伝わった。”

を挙げてます。

ここでモチカとは、
”アンデス文明古典期の文化(Mochica)。ペルー北部海岸のチカマ,モチェ両流域を中心として紀元前後ころから800年ころに栄え,神殿を中心に大都市を形成,すぐれた灌漑(かんがい)設備をもっていた。” (百科事典マイペディアより)

スチーブン・C・ジェットは、

”東アジアから南アメリカへの伝播について、ベーリング海を渡ってきた、とする説は、安易すぎる。”としてます。その理由として、アラスカ考古学者の次の言葉を挙げています。

”アメリカ北西部とシベリア北部、この両域は現存する気候条件からみてもすぐに分かるように、人間がそこを交流しようとするとき、恐怖のきわみというべき大障害の地だ。世界のどこに比べても、その困難は並ぶものがないほどである。従って新石器人に対し、一方で南太平洋を横断する能力なし、と決めつけておいて、他方でこの、ベーリング海峡両側の恐怖地帯を通り抜けうる能力あり、と称することは、まるっきり判断が逆立ちしている。ちょうど旧約聖書にあたる”ブヨを漉(こ)しだしてラクダを飲みこむ”(小事をあげつらって大事をみのがすたとえ)たぐいの、とんでもない錯覚と矛盾だ」と(レイニー1953,46)。”

として、

”第一、こんな北極ないし亜北極の環境のなかで、農業や栽培食物や多くの共有の文化的特徴が、どうやって部族から部族へと”伝播”することができただろうか?。それらは当然、より温暖な環境のもとでなければ、到底保持し、伝来されえなかったはずであるから。

次にそれらを運ぶ”実際の移住者”は、どんな風にして何千マイルの”支配地”を横切っていったのか。旧世界と新世界の、より高度の文化領域で共有される多くの文物も、これらの亜北極圏領域では、全く存在した形跡さえないのだ。

もし部族から部族への”伝播”が、この長大な北方領域のルートを通って実際になされたとしたら、少なくともそういった文物の痕跡が現存しなければならぬ。しかし、それは全くない。こうしてみると、半球間の”伝播”論争のなかで、中枢をなす論争のひとつが、”交流のための手段”の問題だったことがわかる。

エクホルムによると、「この問いに答えるのがあまりにも困難なため、多くの人類学者は、アメリカインディアンの文明は、”独立的に発達したものだ”と考えざるをえないようになってしまったのである。」。だが、もし陸路による”伝播”が無理だとしたら、残るところは一つ。”水による旅行”だ。これだけが交流と移住の手段として、可能なのである。”

さらに、そもそも現代人は、古代人の能力を過小評価しすぎであるとして、

”地球が球形である”こと、この命題は少なくとも、紀元前550年までに、ギリシャで教えられていた。そしてこの地球の直径がただ約七分の一の誤差で確かめられたのは、紀元前200年より前のことだった。さらに緯度と経度という座標体系は、紀元前150年にはすでに使用されていた(トゥザー)。-わたしたちがこれらのことをハッキリと理解するとき、ルネッサンス以前のヨーロッパでどんな知識が失われていたか、その真相を知ることができるのである”

”旧世界、新世界ともに暦の計算方法と天文学が洗練されてきた。このことは、基本的に天測航法(天体観測による船位測定)の技術がすでに知られていたことをしめしている

”海流調査は英国の島々においてすら、注目すべき暦と天文学の知識の存在したことを明らかにしつつある。-その島々は紀元前1500年か2000年ぐらい昔、文化的な周辺領域だと普通はみなされている所なのだ。”

として、英国の巨石記念物(ストーンヘンジのことか?)の中に、複雑な天測航法の方向づけが示されているとしています。そして、古代中国においても、紀元前から磁石を利用して方向探知するなど

”中国の天測航法の航海は常にヨーロッパより進んでいたようだ”(ボルデン)
としてます・
またハワイに初めて(ポリネシア人が)入植したのは、C-14によれば、紀元1-240年ごろであることや、マレーシア人がアフリカのマダガスカル島へ移住したことなどを挙げてます。


長々と紹介しましたが、スチーブン・C・ジェット氏の主張は、ようするに、

”アジア人が極寒のベーリング海を渡ってやってくることは、はるかに困難を伴うものだ。もし、本当にそうであるなら、アラスカからアメリカ南西部にかけて、その痕跡があるはずなのに、それはないのは、おかしいではないか?”

ということです。

一般的に考えられているアジアから南米への移動ルート(ベーリング海ルート)です。
ベーリング海ルート  

 たしかに、”もともと温暖な地域にいた人々が極寒の土地へ行って、生活できるのか?。”という素朴な疑問があります。進化論的には、

”幾世代を経て、順応していったのだ”

ということでしょう。しかしそうだとしても、日本列島にいた縄文人が移動したとすると、凍てつく氷の地で、縄文文化が継承されるのでしょうか?。たとえば縄文土器の製作技術ひとつとってみても、幾世代も経れば、忘れ去られてしまうでしょう。

実際、アラスカや北米西海岸沿いで生活していたなら、そこで縄文土器が発掘されるべきですが、その記録はありません。

”彼らが、その後気の遠くなるような時間をかけて南下して、南米エクアドルまでたどり着き、その地で突然先祖がかつて作っていた縄文土器を作り始めた。”

というのでしょうか?。ずいぶんと非現実的な話ではないでしょうか。

以上は、「伝播」論者の主張でしたが、「独立発明」論者の主張も、紹介されています。主なものとしては、”文物の単純な比較だけでは、「伝播」か「独立発明」かの判断は、きわめて難しい。慎重な検証が必要だ”という、至極当然な話です。


ここでは、それぞれの主張について紹介するにとどめますが、いずれにせよ、注目すべきは、こうした「学問」「科学」に対する姿勢です。両者とも、実に自由に、のびのびと議論を闘わせてます。さすが、アメリカという感じです。


一方、わが日本ではどうでしょう。昨今の学問、科学に関するさまざまな事案をみるに、どうも権威主義であったり、また木を見て森を見ずの議論であったり、感情的なパッシングであったりの風潮に陥ってしまっている気がするのは、わたくしだけでしょうか?。

参考までに、古代世界の舟での”伝播”ルートを図示しました。確実視されている”中国南部・インドネシア諸島から(マルキーズ諸島を経て)ハワイ”、と”ボルネオからマダガスカル”ルートは、実線で記してます。こうみると、日本からエクアドルも、決してありえない話ではない気はしますね。

古代海上ルート 
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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