謎の国々は実在したか? (11)~ 古代人が太平洋を渡った理由とは?
ここまで古代日本人、特に縄文人が太平洋を舟で渡ったという説について、みてきました。もちろん、賛否両論あることは充分承知しています。しかしながら、もろもろの証拠をみていくと、決して、一笑に付すことはできないと思いますが、いかがでしょうか?。
さて、実は最後に残った課題があります。
”縄文人は、何のために、太平洋を舟で渡ったのか?”
です。
私たちが歴史の教科書で習った縄文時代とは、”気候が温暖で、家族を中心とした小さい集団が、狩猟採集をしつつ移動しながら生活していた。激しい戦いもなく、土器など作りながら、平和に暮らしていた。”みたいなものだったと記憶してます。もっともこれも、最近では、大きく変わってきていますが・・・。
それはさておき、そのような生活をあえて捨てて、なぜ、太平洋を舟で渡るという、命を懸けた試練に立ち向ったのでしょうか?。そこには、大きな理由があるはずです。その理由とは、何でしょうか?。
同じ問題提起が、当初、メガーズ博士が、「縄文人太平洋横断説」を唱えた時にも出されました。皆さんは、どのように考えますか?。
その答えのキーが、「火山」です。
歴史的にみると、現在の日本の火山は、「静穏期」にあります。たしかに首都圏に住んでいると、富士山も、1707年の宝永噴火から300年以上も噴火していないなど、自分たちの生活に火山が大きく関わるという意識が希薄かもしれません。
しかしながら、ここ数年、日本の火山活動が活発になっているようです。御嶽山や口永良部島などの噴火があったのは記憶に新しいですし、つい先日も、阿蘇山が噴火しました。
日本は、火山列島であり、有史から何度も、破局的と言っていいくらいの巨大噴火を繰り返しています。そのなかで、縄文文明に大きな影響を及ぼしたと考えられている噴火があります。それは、「鬼界カルデラ噴火」です。
「鬼界カルデラ」とは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラです。過去何度も噴火していますが、そのなかで7300年前に起こった噴火があります。
”噴出量170km3(過去1万年間に地球上で発生した噴火としては最大規模)、広域テフラ鬼界アカホヤ火山灰を放出。
噴火規模は1991年6月3日雲仙普賢岳の約1,000倍、同時期のピナトゥボ山の10 - 15倍と言われており、完新世における地球上最大の噴火。”
”鬼界アカホヤ火山灰は、九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方まで、到達した。”
<鬼界カルデラ位置>
<薩摩硫黄島>
<火砕流および鬼界アカホヤ火山灰の広がり>
(Wikipediaより)
この火砕流および火山灰により、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島南部、屋久島に住む縄文人は、絶滅したと考えられています。また、九州の南半分や四国、紀伊半島南側に住む縄文人にも大きな影響を及ぼしました。
辛くも絶滅を逃れた周辺(九州南部など)の縄文人は、どうしたでしょうか?。
たぶん、火山噴火や火砕流の恐怖におそれおののき、どこかへ逃れようとしたでしょう。そのなかには、舟で海上に出た人々もいたことでしょう。彼らのなかで、舟で通常の交易ルートであった黒潮に乗り、東北の方向へむかった人々もいたでしょう。
彼らが向かった先は、交易ルート上の、紀伊半島さらには関東や伊豆諸島方面だったと思われます。もちろん無事たどりついた人々もいたでしょうが、たどり着けずに、そのまま黒潮の流れに乗り、太平洋の海原へ出た人々もいたでしょう。そのなかに、南米エクアドルにたどり着いた人々がいたのではないか、と推察されます。
この大胆な仮説ですが、根拠はあるのでしょうか?。
それがあるのです。
エクアドルから出土した縄文土器に似ている土器ですが、実は様式が限られています。その様式に類似する日本の土器は、阿高式土器、曾畑式土器、出水式土器、跡江貝塚遺跡出土です。その出土分布は、熊本県、宮崎県、鹿児島県北西部です。
<曾畑式土器>
(熊本県宇土市観光情報サイトより)
つまり、”鬼界カルデラ噴火で、鹿児島県南部は壊滅的になり、縄文人も絶滅。その影響をのがれようとしたその北にあたる鹿児島県北部、熊本県、宮崎県に住んでいた縄文人が、舟で海上へ出て、やがてエクアドルにたどりついた。”、ということです。
もちろん、実際にたどり着いた縄文人は、そのなかのごくごく一部だったでしょう。それでも長い年月をかけて数千~数万人の人々が舟で出たとして、そのうちの数パーセントの人がたどり着いたとしても、少なく見積もっても数百人以上はたどり着いた、という計算になります。それだけの人々であれば、いわば集団移住みたいなものです。遠い異郷の地とはいえ、そこに何がしかの影響を及ぼしたことは、容易に想像できます。
ここで、もうひとつ考えなければいけないことがあります。それは、鬼界カルデラ噴火は、約7300年前であり、エクアドル出土の土器の年代測定結果は、約5500年前であり、エクアドル出土の土器のほうが新しいことです。
これをどのように考えるかです。
まず、年代推定の問題があります。7300年前とか5500年前というのは、あくまで推定であり、推定方法により1000年単位でずれることは、よくあります。ただし、それでも二つの間隔が空きすぎている思います。
一つの仮説として、古田氏が、”人々の「恐怖体験」が大きな要因ではなかったか”、という説を挙げています。
鬼界カルデラ噴火により、周辺は1000年近くも人が住めない状態になったとされています。4400年前には鹿児島県大隅半島南端に位置している開聞(かいもん)岳の噴火もありました。その間、断続的に噴火もあったでしょう。こうした状況のなか、周辺に住んでいた縄文人たちは、かつての恐怖体験の言い伝えなどから、長い年月をかけながら少しずつ地域からの脱出を図った、というものです。そして彼らのなかに、太平洋を横断して、南米エクアドルにたどりついた人々もいた、ということです。
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さて、実は最後に残った課題があります。
”縄文人は、何のために、太平洋を舟で渡ったのか?”
です。
私たちが歴史の教科書で習った縄文時代とは、”気候が温暖で、家族を中心とした小さい集団が、狩猟採集をしつつ移動しながら生活していた。激しい戦いもなく、土器など作りながら、平和に暮らしていた。”みたいなものだったと記憶してます。もっともこれも、最近では、大きく変わってきていますが・・・。
それはさておき、そのような生活をあえて捨てて、なぜ、太平洋を舟で渡るという、命を懸けた試練に立ち向ったのでしょうか?。そこには、大きな理由があるはずです。その理由とは、何でしょうか?。
同じ問題提起が、当初、メガーズ博士が、「縄文人太平洋横断説」を唱えた時にも出されました。皆さんは、どのように考えますか?。
その答えのキーが、「火山」です。
歴史的にみると、現在の日本の火山は、「静穏期」にあります。たしかに首都圏に住んでいると、富士山も、1707年の宝永噴火から300年以上も噴火していないなど、自分たちの生活に火山が大きく関わるという意識が希薄かもしれません。
しかしながら、ここ数年、日本の火山活動が活発になっているようです。御嶽山や口永良部島などの噴火があったのは記憶に新しいですし、つい先日も、阿蘇山が噴火しました。
日本は、火山列島であり、有史から何度も、破局的と言っていいくらいの巨大噴火を繰り返しています。そのなかで、縄文文明に大きな影響を及ぼしたと考えられている噴火があります。それは、「鬼界カルデラ噴火」です。
「鬼界カルデラ」とは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラです。過去何度も噴火していますが、そのなかで7300年前に起こった噴火があります。
”噴出量170km3(過去1万年間に地球上で発生した噴火としては最大規模)、広域テフラ鬼界アカホヤ火山灰を放出。
噴火規模は1991年6月3日雲仙普賢岳の約1,000倍、同時期のピナトゥボ山の10 - 15倍と言われており、完新世における地球上最大の噴火。”
”鬼界アカホヤ火山灰は、九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方まで、到達した。”
<鬼界カルデラ位置>

<薩摩硫黄島>

<火砕流および鬼界アカホヤ火山灰の広がり>

(Wikipediaより)
この火砕流および火山灰により、鹿児島県の大隅半島・薩摩半島南部、屋久島に住む縄文人は、絶滅したと考えられています。また、九州の南半分や四国、紀伊半島南側に住む縄文人にも大きな影響を及ぼしました。
辛くも絶滅を逃れた周辺(九州南部など)の縄文人は、どうしたでしょうか?。
たぶん、火山噴火や火砕流の恐怖におそれおののき、どこかへ逃れようとしたでしょう。そのなかには、舟で海上に出た人々もいたことでしょう。彼らのなかで、舟で通常の交易ルートであった黒潮に乗り、東北の方向へむかった人々もいたでしょう。
彼らが向かった先は、交易ルート上の、紀伊半島さらには関東や伊豆諸島方面だったと思われます。もちろん無事たどりついた人々もいたでしょうが、たどり着けずに、そのまま黒潮の流れに乗り、太平洋の海原へ出た人々もいたでしょう。そのなかに、南米エクアドルにたどり着いた人々がいたのではないか、と推察されます。
この大胆な仮説ですが、根拠はあるのでしょうか?。
それがあるのです。
エクアドルから出土した縄文土器に似ている土器ですが、実は様式が限られています。その様式に類似する日本の土器は、阿高式土器、曾畑式土器、出水式土器、跡江貝塚遺跡出土です。その出土分布は、熊本県、宮崎県、鹿児島県北西部です。
<曾畑式土器>

(熊本県宇土市観光情報サイトより)
つまり、”鬼界カルデラ噴火で、鹿児島県南部は壊滅的になり、縄文人も絶滅。その影響をのがれようとしたその北にあたる鹿児島県北部、熊本県、宮崎県に住んでいた縄文人が、舟で海上へ出て、やがてエクアドルにたどりついた。”、ということです。
もちろん、実際にたどり着いた縄文人は、そのなかのごくごく一部だったでしょう。それでも長い年月をかけて数千~数万人の人々が舟で出たとして、そのうちの数パーセントの人がたどり着いたとしても、少なく見積もっても数百人以上はたどり着いた、という計算になります。それだけの人々であれば、いわば集団移住みたいなものです。遠い異郷の地とはいえ、そこに何がしかの影響を及ぼしたことは、容易に想像できます。
ここで、もうひとつ考えなければいけないことがあります。それは、鬼界カルデラ噴火は、約7300年前であり、エクアドル出土の土器の年代測定結果は、約5500年前であり、エクアドル出土の土器のほうが新しいことです。
これをどのように考えるかです。
まず、年代推定の問題があります。7300年前とか5500年前というのは、あくまで推定であり、推定方法により1000年単位でずれることは、よくあります。ただし、それでも二つの間隔が空きすぎている思います。
一つの仮説として、古田氏が、”人々の「恐怖体験」が大きな要因ではなかったか”、という説を挙げています。
鬼界カルデラ噴火により、周辺は1000年近くも人が住めない状態になったとされています。4400年前には鹿児島県大隅半島南端に位置している開聞(かいもん)岳の噴火もありました。その間、断続的に噴火もあったでしょう。こうした状況のなか、周辺に住んでいた縄文人たちは、かつての恐怖体験の言い伝えなどから、長い年月をかけながら少しずつ地域からの脱出を図った、というものです。そして彼らのなかに、太平洋を横断して、南米エクアドルにたどりついた人々もいた、ということです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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