日本人はどこからやってきたのか?(4) ~ 日本人二重構造モデル
前回、男性の細胞のみにあるY染色体DNAの系統(ハプログループ)からみて、日本人は、出アフリカの3つのグループすべてをもっている特異な民族である、という話をしました。
データでみてみましょう。各系統の割合を、日本国内のいくつかの地域、都市別に示したのが、下のグラフです。
実際には、さらに細かく分かれるのですが、ここではまずは全体をとらえてもらうために、大きな分類で話を進めます。比較するために、韓国、台湾も、載せました。
日本人に多い系統として、C(一番左),D(左から二番目),O(さらに右側)が多いことは、前回お話いたしましたが、それが確認できるかと思います。また割合は少ないながらも、N(CとDの間)、Q(Oの右隣)も確認できますね。
韓国、台湾と比較すると、その差は、一目瞭然です。
韓国、台湾では、Oが圧倒的に多いです。それに比べて、日本ではどの地域もDとOの二つの系統が多数を占めているなど、多様性に富んでいることがわかります。そして、日本人に多いDが、韓国には数パーセント、台湾にはほとんどいません。グラフにはありませんが、漢民族(華北)も、Oが多数を占め、Dはいません。
ここで、それぞれの系統について、整理します。
■D系統
・多くの地域で最も多いのが、D(特にD2)です。Dは、新石器時代の縄文系ヒト集団に由来するとされています。しかも、Dがまとまってみられるのは、日本とチベットのみという、極めて特異な分布です。
■C系統
・C3は、後期旧石器時代におけるシベリアの細石過多刃(さいせきじん)文化と関連するヒト集団の流入とみられます。
・C1は、南方系遺伝子流入を想定させます。
■O系統
・金属器(弥生)時代以降という、比較的新しい流入とみられてます。
・O2bは、渡来系弥生系集団とみられます。
・O3は、黄河・漢民族と関連するとみられます。
こうした様々な集団が、長い年月にわたり次々に日本に渡ってきた、その末裔がわれわれ現代の日本人ということになります。
ところで、皆さんは、「日本人二重構造モデル」というのを聞いたことがあるでしょうか。
日本人の起源について、1991年に、埴原和郎東京大学名誉教授が提唱した仮説です。具体的には、
1.東南アジア起源の縄文人という基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された。
2.渡来系集団は、北部九州及び山口県地方を中心として日本列島に拡散したので、混血の程度によって、アイヌ、本土人、琉球人の3集団の違いが生じた。”
というものです。
なお、”この仮説は大筋では受け入れられているが、基層集団の起源が北東アジアではないかとの意見も強い”(コトバンクより)
との見解です。
この仮説は、骨、歯、生体などに関する自然人類学的知見に基づいて構築されたものです。
では、この”日本人二重構造モデル”で、先ほどのグラフをみてみましょう。
基層集団すなわち初めに日本にやってきて住み着いた人々として、縄文系のD系統とC系統が考えられます。特にD系統について、旭川が最も割合が高く、南下するにしたがって次第に割合が下がり、沖縄で上がってます。そして西日本が最も低いです。
一方、韓国、台湾、(さらに漢民族)に多いO系統の割合が、西日本が最も多く、北あるいは南にいくにしたがい、低下してます。
このことから、もともと日本にいたD系統の人々は、弥生時代以降、O系統の人々が西日本に渡来するにつれて割合が低下し、あるいは次第に北や南に移動していった、ということが、想定されます。
C系統についても、北の旭川と南の沖縄が高く、中央に近づくにつれて次第に低くなっており、同様のことが想定されますね。
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