日本人はどこからやってきたのか? (12) ~ 日本神話とも一致する科学的データ
前回は、5000年前から、黄河流域の人々(Y染色体DNA-O3系統)が南下し始めたこと、それは「史記」を始めとした中国史書に、揚子江流域の人々と長年にわたり戦いを繰り返してきたこととして記されており、遺伝子分析結果と史書が一致していることを、お話しました。
今回はその続きです。
黄河流域々から南下した多くの人々のうち、中国周王朝の呉太伯(たいはく、紀元前12-11世紀頃)もその一人です。
呉太伯については、司馬遷の「史記」によれば、
"古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。"
(Wikipediaより)
ようするに、黄河流域から揚子江下流域にやってきた周王朝一族の太伯が、弟の虞仲とともに、呉を建国した、という話です。なお、この呉(紀元前11世紀頃-同473年)とは、三国志の呉ではありません。念のため。
そしてこの呉が、「呉越同舟」の古語で有名な「越(紀元前600年頃-同334年)」と戦いの末敗れ、紀元前473年に滅亡します。
その越も、楚に紀元前334年に滅亡します。そしてその楚も、紀元前223年に、始皇帝の秦に滅ぼされます。
このように動乱が長きにわたり続いた時代であり、歴史上春秋戦国時代と呼ばれます。具体的には、西周が滅亡した紀元前770年から秦の始皇帝が中国統一した紀元前221年までの間です。
その時代、黄河流域から揚子江下流域へと多くの人の流れがありました。揚子江下流域に住んでいた多くの人々は、この動乱を逃れ四散しました。そのなかのある人々は朝鮮半島へと逃れ、やがて日本列島にもやってきたことでしょう。またある人々は、舟で直接日本列島にやってきたことでしょう。
時期としては、すなわち2800年前頃から2200年前頃になります。
もうひとつ、今度は、日本の古事記、日本書紀からです。以前のブログ
「「国譲り」と「天孫降臨」はいつだったのか?(No.100)」
にて古事記、日本書紀から読み解いた史実についてお話しました。
具体的には、
1.「国譲り」「天孫降臨」などの神話は、史実を象徴的に描いたものである。それは、対馬、壱岐を中心拠点としていた天孫族(海人族)が、九州北部に進出したことを、表現している。
2.古事記、日本書紀の年齢記載には、1年に二回の歳を数える「二倍年歴」が使われている。それを基に計算すると、「天孫降臨」は、紀元前4~5世紀頃(2400年-2500年前頃)となる。
です。
そして「天孫族」はもともと揚子江下流域から動乱を逃れてやってきた「呉」などの末裔である、とお話しました。ここで、中国史書の記載とつながります。そして、九州北部に進出してきたとされる年代も、ほぼ一致しますね。
以上を図に表すと、下図のとおりです。
さてこの図を、Y遺伝子O系統の移動ルート図と比べてみてください。
驚くほど、似ていますね。まさに、神話の世界が科学的データと一致している、と言えましょう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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