銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (1) ~ そもそも銅鐸とは?
このブログでは、古事記や日本書紀など神話の世界は、単に昔の人が勝手に作った話ではなく、何らかの史実を象徴的に描いたものである、という話をしてきました。そして、中国史書や朝鮮史書なども併せて読み解けば、日本の国の成り立ちの全体像が見えてくる、ともお話ししました。その全体のストーリーとは、
”もともと日本列島には、縄文人が住んでいた。弥生時代に、中国動乱に伴い、中国・朝鮮半島から、多くの人々が日本列島にやってきた。そのなかに天孫族がおり、そのリーダー天照大神(あまてらすおおみかみ)は、当時西日本を支配していた大国主命(おおくにぬしのみこと)に対し、支配権の譲渡を迫り承諾させ、北部九州を中心とした支配体制を築いた(紀元前4~5世紀頃)。その流れにあるのが邪馬台国であり、九州王朝である。
九州王朝の一分派であった神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)のちの神武天皇は、新たな地を求めて東へ進み、最終的に畿内に居を構えた(紀元前1世紀頃)。神武天皇の系統は次第に勢力を拡大、一方九州王朝は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗して没落、ついに神武天皇の系統が大和朝廷として日本を支配することとなった(8世紀初頭)。”
そしてこのストーリーを、科学的データで検証しました。たとえば、鉄、鏡、勾玉、銅矛、絹、三種の神器(鏡、剣、勾玉がセット)の出土地からも、この仮説が実証されることをお話ししました。
また、古代山城が太宰府を防衛している事などから、九州王朝の都が最終的に太宰府にあったこともお話ししました。
近年の日本人男性の遺伝子Y染色体DNAの分析結果も、この仮説と一致していることもお話ししました。
ところで、日本古代史というと思い出すものに、銅鐸(どうたく)があります。銅鐸については、今まで詳しくみてきませんでした。では銅鐸は、こうした話と関係があるのでしょうか?。
これから、銅鐸についてみていきましょう。
■銅鐸とは?
銅鐸とは、”弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。”
(Wikipediaより)とあります。
中に、舌(ぜつ)と呼ばれる金属が紐でぶらさがっており、それが揺られて外側の鐘にあたり、音がなるという仕組みです。
<銅鐸(滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土)>
(東京国立博物館蔵)
読んで字の如く「銅でできた鐸(たく)」ですが、では「鐸」とは何でしょうか?。
佐原真氏によると、中国では英語のヘルに対応するものが3種類あるそうです。
「鐘」 ・・・ 紐で吊り下げられて、外から叩いて鳴らす。舌(ぜつ)はない。日本のお寺の鐘がそうですね。
「鈴(レイ)」 ・・・ 紐で吊り下げられて、揺らして鳴らす。舌がある。
「鐸」 ・・・ 柄があり、柄を手に持って鳴らす。舌がある。
ですから、中国本来の呼称では、「鐸」とは、”柄がついていて手に持って鳴らすカネ”ですから、銅鐸は「鐸」ではありません。「銅鐸」は、”柄がなく、吊り下げて鳴らす、かつ舌がある”ものですから、「鈴」に分類されます。
ちなみに「鐸」と言えば、「木鐸(ぼくたく)」という言葉をご存じの方も多いでしょう
”木の舌のある金属製の大きな鈴。古代中国では、政令を布告する際、この木鐸を鳴らして人民を市や村の辻(つじ)などに集め、説明をする習わしがあった。『論語』「八
篇(はちいつへん)」に「天下これ道なきや久し。天まさに夫子を以(もっ)て木鐸となさんとするごとし」などとあるように、これから転じて、世論を喚起し、民衆を教え導く人物をなぞらえることばとなった。なお、舌も金属製のものは金鐸といって、軍事に関する件の布告に用いられた。[田所義行]”(日本大百科全書(ニッポニカ)より)
とあります。かつて新聞などは、「世の木鐸たるべし」などと言われたものです。果たして現在、新聞がその役割を果たしているかは、皆さんの判断に委ねますが、少なくともこうした使い方をされたことからもわかるとおり、「鐸」とは政治的なものと関わりが深かったことがわかります。
■用途
では、銅鐸は、何のために作られたのでしょうか?。今までさまざまな説が唱えられてきましたが、ついにその論争に決着をつける発見が2015年6月にありました。淡路島で銅鐸4個が発掘されましたが、それらととともに、音を鳴らすための青銅製の「舌(=振り子)」と舌をつるす紐が出土したのです。これらのことから、銅鐸は、吊り下げて揺らし、音を出すために使用されたと推測されます。そして、祭祀あるいは政(まつりごと)の儀式の際に、使われたと考えられます。
<淡路島出土の銅鐸と舌>
(毎日新聞、2016年1月7日より)
その後、1世紀末頃には大型化が進み、音を出して「聞く」目的から、地面か祭祀の床に置かれて「見せる」銅鐸へと変化したと考えられます。
■起源
かつては、中国大陸を起源とする「鈴」が、朝鮮半島から伝わったと考えられていました。牛や馬など家畜の首につるす「鈴」が起源ではないか、との説で、何となくモンゴル平原の騎馬民族を連想させます。
ところが、中国春秋戦国時代(紀元前770年-同221年)の地方国家、越(えつ)の貴族墓から、銅鐸に似た青磁器の鐸が出土しました。このことから、中国南部の越から直接伝わった可能性が指摘されてます。
越と言えば、「呉越同舟」の故事で有名です。呉越同舟とは、仲の悪い同士が同じ場所にいる例えですが、越は呉とライバルにありついに紀元前473年に滅ぼしますが、越も起源前306年頃に楚に滅ぼされます。そしてその動乱により、多くの呉・越(さらに楚)の人々が四散し、日本列島に多くの人がたどり着きました。そのなかの最大イベントが、天孫族の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨、すなわち九州北部への進出だったことは、前にお話ししました。
人の流入とともに、多くのものも日本列島に伝わってきました。青銅器や鉄器、稲作(水稲)もそのひとつでしょう。そのなかに、銅鐸(の原型)があったとしても、不思議ではありませんね。
ただし、では天孫族が銅鐸を持ち込んだのか?、というと、そうではありません。実は、古事記、日本書紀には、銅鐸に関する記載が全くありません。となると、別の集団が持ち込んだということになります。
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”もともと日本列島には、縄文人が住んでいた。弥生時代に、中国動乱に伴い、中国・朝鮮半島から、多くの人々が日本列島にやってきた。そのなかに天孫族がおり、そのリーダー天照大神(あまてらすおおみかみ)は、当時西日本を支配していた大国主命(おおくにぬしのみこと)に対し、支配権の譲渡を迫り承諾させ、北部九州を中心とした支配体制を築いた(紀元前4~5世紀頃)。その流れにあるのが邪馬台国であり、九州王朝である。
九州王朝の一分派であった神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)のちの神武天皇は、新たな地を求めて東へ進み、最終的に畿内に居を構えた(紀元前1世紀頃)。神武天皇の系統は次第に勢力を拡大、一方九州王朝は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗して没落、ついに神武天皇の系統が大和朝廷として日本を支配することとなった(8世紀初頭)。”
そしてこのストーリーを、科学的データで検証しました。たとえば、鉄、鏡、勾玉、銅矛、絹、三種の神器(鏡、剣、勾玉がセット)の出土地からも、この仮説が実証されることをお話ししました。
また、古代山城が太宰府を防衛している事などから、九州王朝の都が最終的に太宰府にあったこともお話ししました。
近年の日本人男性の遺伝子Y染色体DNAの分析結果も、この仮説と一致していることもお話ししました。
ところで、日本古代史というと思い出すものに、銅鐸(どうたく)があります。銅鐸については、今まで詳しくみてきませんでした。では銅鐸は、こうした話と関係があるのでしょうか?。
これから、銅鐸についてみていきましょう。
■銅鐸とは?
銅鐸とは、”弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。”
(Wikipediaより)とあります。
中に、舌(ぜつ)と呼ばれる金属が紐でぶらさがっており、それが揺られて外側の鐘にあたり、音がなるという仕組みです。
<銅鐸(滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土)>

読んで字の如く「銅でできた鐸(たく)」ですが、では「鐸」とは何でしょうか?。
佐原真氏によると、中国では英語のヘルに対応するものが3種類あるそうです。
「鐘」 ・・・ 紐で吊り下げられて、外から叩いて鳴らす。舌(ぜつ)はない。日本のお寺の鐘がそうですね。
「鈴(レイ)」 ・・・ 紐で吊り下げられて、揺らして鳴らす。舌がある。
「鐸」 ・・・ 柄があり、柄を手に持って鳴らす。舌がある。
ですから、中国本来の呼称では、「鐸」とは、”柄がついていて手に持って鳴らすカネ”ですから、銅鐸は「鐸」ではありません。「銅鐸」は、”柄がなく、吊り下げて鳴らす、かつ舌がある”ものですから、「鈴」に分類されます。
ちなみに「鐸」と言えば、「木鐸(ぼくたく)」という言葉をご存じの方も多いでしょう
”木の舌のある金属製の大きな鈴。古代中国では、政令を布告する際、この木鐸を鳴らして人民を市や村の辻(つじ)などに集め、説明をする習わしがあった。『論語』「八

とあります。かつて新聞などは、「世の木鐸たるべし」などと言われたものです。果たして現在、新聞がその役割を果たしているかは、皆さんの判断に委ねますが、少なくともこうした使い方をされたことからもわかるとおり、「鐸」とは政治的なものと関わりが深かったことがわかります。
■用途
では、銅鐸は、何のために作られたのでしょうか?。今までさまざまな説が唱えられてきましたが、ついにその論争に決着をつける発見が2015年6月にありました。淡路島で銅鐸4個が発掘されましたが、それらととともに、音を鳴らすための青銅製の「舌(=振り子)」と舌をつるす紐が出土したのです。これらのことから、銅鐸は、吊り下げて揺らし、音を出すために使用されたと推測されます。そして、祭祀あるいは政(まつりごと)の儀式の際に、使われたと考えられます。
<淡路島出土の銅鐸と舌>

(毎日新聞、2016年1月7日より)
その後、1世紀末頃には大型化が進み、音を出して「聞く」目的から、地面か祭祀の床に置かれて「見せる」銅鐸へと変化したと考えられます。
■起源
かつては、中国大陸を起源とする「鈴」が、朝鮮半島から伝わったと考えられていました。牛や馬など家畜の首につるす「鈴」が起源ではないか、との説で、何となくモンゴル平原の騎馬民族を連想させます。
ところが、中国春秋戦国時代(紀元前770年-同221年)の地方国家、越(えつ)の貴族墓から、銅鐸に似た青磁器の鐸が出土しました。このことから、中国南部の越から直接伝わった可能性が指摘されてます。
越と言えば、「呉越同舟」の故事で有名です。呉越同舟とは、仲の悪い同士が同じ場所にいる例えですが、越は呉とライバルにありついに紀元前473年に滅ぼしますが、越も起源前306年頃に楚に滅ぼされます。そしてその動乱により、多くの呉・越(さらに楚)の人々が四散し、日本列島に多くの人がたどり着きました。そのなかの最大イベントが、天孫族の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨、すなわち九州北部への進出だったことは、前にお話ししました。
人の流入とともに、多くのものも日本列島に伝わってきました。青銅器や鉄器、稲作(水稲)もそのひとつでしょう。そのなかに、銅鐸(の原型)があったとしても、不思議ではありませんね。
ただし、では天孫族が銅鐸を持ち込んだのか?、というと、そうではありません。実は、古事記、日本書紀には、銅鐸に関する記載が全くありません。となると、別の集団が持ち込んだということになります。
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