銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
さらなる銅鐸の謎について、迫ります。
銅鐸は、3世紀には消滅したとされてますが、あれほど全国規模で発展した文化が、なぜ突然なくなってしまったのでしょうか?。
春名氏によれば、
”首長の権威が高まるに連れ、次第に共同体祭祀である「畿内勢力(初期大和政権)による銅鐸配布」から、「三角縁神獣鏡の配布」へ、さらに「古墳祭祀」へと変貌していった”となります。
しかしながら、島根県荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡での銅鐸大量出土や、九州北部における銅鐸・銅鐸鋳型の出土など、近年の多くの発見により、現在においてこの説が成立しえないことは、前回お話ししました。
そもそも、先祖が数百年にわたって継承されてきた「銅鐸祭祀」というものを、その子孫が簡単にやめる、ということがあるのだろうか?、というのが、率直な疑問です。
確かに「首長の権威が高まり、今までの祭祀はふさわしくないから新たな祭祀を始めることになったのだ。」という考えもあるでしょうが、よほどのことが起きない限りありえないのではないでしょうか?。
もうひとつ、銅鐸に関しては、「破壊の謎」があります。
多くの地で、破壊された銅鐸破片が見つかってます。これは、何を意味するのでしょうか?。
春名氏によれば、
1.稲が予定とおり生育しなかった場合に、その罪を問われ破壊された。
2.外部の侵入者による。
3.再利用するため。
という3つの可能性を挙げたうえ、
”単に破砕されているという状態ではなく、破砕後一定の形状にそろえようとする意図がうかがえることは、破砕後の再利用を予定していることを思わせる。”として、3の説を主張してます。
ようするに、”「銅鐸配布」から「銅鏡配布」へと変貌したが、それにつれ銅鐸を破壊して再利用した”ということになります。
実際に、銅鐸を破壊して、再利用したと推測される遺構がみつかってます。
” 奈良県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代初頭(3世紀初め)に捨てられた銅鐸の破片や銅くず、鋳型などが見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。
銅鐸は弥生時代の祭祀で使われたが、古墳時代には使われなくなったことから、同遺跡は不要になった銅鐸をリサイクルして、別の青銅器を鋳造した小規模な生産工房とみられるという。
北西約4キロで大和王権につながるとされる巨大集落跡・纒向遺跡が同じ時期に出現しており、同研究所の寺沢薫調査研究部長は「纒向の都市建設と関係があり、王権の意向により、ここで青銅器を生産していたのかもしれない」と話している。
銅鐸の破片は3点で、最大で長さ約4センチ、幅3・5センチ。発掘した計9棟の竪穴住居跡のうち、1棟を埋めた土から見つかった。周囲には土製鋳型の外枠や鋳造の際に出る銅くずなどが散乱。集落内の別の場所で生産し、捨てられた可能性が高いという。”
(「四国新聞社WEB版、2007年12月6日」より)
<同上、完形なら1mの大きさだった>
(「朝日新聞WEB版、2007年12月7日」より)
この記事だけ読むと、なるほど銅鐸をていねいに破砕して再利用した、という印象を与えます。
ところが、同じ破壊でも、こうした言わば「おだやかな破砕」とは正反対のものが見つかってます。
”近畿式銅鐸に限って破片で見つかるものがあります。
また、野洲市大岩山1962年4号鐸は故意に双頭渦紋が裁断されています。
近畿式銅鐸の終焉には、故意に壊されて破棄されたものや、飾耳を裁断して銅鐸を否定するような行為が行われています。
銅鐸が前世の共同体を象徴する祭器であり、新たに台頭した権力者にとっては、邪魔な異物となったのです。”(「 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)資料」より)
明らかに、激しい憎悪などの感情を感じます。つまり銅鐸文化を否定するために破壊された、ということです。
単なる、祭祀の変化といった、生やさしいものではなかった、ということです。そして、この資料においては、破壊したのは「新たな権力者」としています。つまり、「異文化をもった侵入者」ということでしょう。
もちろん、「このように破壊されたのは、銅鐸が稲を守護できなかった責任を負わされたからなのだ。」との考えもあります。
しかしながら、もしそれほどまでの責任を負わせるのであれば、存在するすべての銅鐸を破壊すべきでしょう。では、島根県の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡のような大量に埋納された銅鐸は、なぜ放置されたのでしょうか?。当然、掘り返され、破壊されるべきでしょう。たまたま忘れたのでしょうか?。
また、銅鐸の分布は、西⇒東へと、移動してます。これはつまり、銅鐸の終焉も、西⇒東ということを表しています。
もし仮に、銅鐸の終焉が、同じ系統の権力者のもとで行われたのなら、なぜ、畿内初期大和政権が配布したはずの銅鐸の祭祀が、西から次第に消滅しているのでしょうか。普通に考えれば、畿内を中心として、ほぼ同じ時期に終焉するのではないでしょうか?。それがなぜ、銅鐸終焉の時期が、東海地方は遅れたのでしょうか?。
これは、やはり「異文化をもった侵入者」を想定しないと、解釈できないと考えます。
すなわち、”銅鐸祭祀をもっていた人々のところへ、異文化をもった人々が侵入した。そして銅鐸を破壊して、再利用した。侵入者は、西からやってきたから、銅鐸の分布も、西から東へ移動した。”
ということになります。
このように解釈すれば、すんなりと理解でみます。
いやいや、まだその説には納得できない、という方のために、もうひとつよく知られている話をします。
もし仮に、銅鐸が初期大和政権の権力の象徴であるなら、たとえ途中でその祭祀をやめたとしても、後世まで伝わるだろうし、記録にも残っているはずです。
ところが、大和政権の歴史をもっとも詳しく記しているはずの「古事記」「日本書紀」には、銅鐸の記載が一切ありません。記録に出てくるのは、
後に編纂された「続日本記」「扶桑略記」などです。
”丁卯。(713年=和銅6年7月)大倭国芋太郡波坂郷の人、大初位上村の君、東人、銅鐸を長岡の野地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺。其の制、常に異にして、音律呂に協(かな)ふ。所司に勅して之を蔵めしむ。”(「続日本記」巻九、元明天皇)
”戊辰(668年=(天智7年)正月十七日。近江国志賀郡に於て崇福寺を建つ。始めに地を平らかならしむ。奇異の宝鐸一口を掘り出だす。高さ五尺五寸。又奇好の白石を掘り出だす。長さ五寸。夜、光明を放つ。”(「扶桑略記」第五、皇円撰)
このように、7~8世紀に、銅鐸出土の記録が出てきますが、いずれも、「常に異にして」「奇異の宝鐸」など、いかにも今まで見たことも聞いたこともない宝物を扱うがごとしです。つまり、7~8世紀の人々は、銅鐸のことをまったく知らなかったということです。
もし銅鐸が初期大和政権のものであったとしたら、たとえそれが500年前に途絶えた祭祀だったとしても、何がしかの伝承は伝えられていたはじです。ところが、7~8世紀の大和政権の人々は、その存在すら知らなかったのです。
このことからわかることは、「銅鐸は、初期大和政権のものではなかった」ということです。
では銅鐸は、誰のものだったのでしょうか?。
そして、銅鐸を破壊して消滅させてのは、誰だったのでしょうか?。
次回、考えていきます。
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