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土器が語ること (1) ~ 縄文土器の素晴らしさ

前回まで、銅鐸の分布などから、古代日本列島における権力移動をみてきました。そこからわかることは、明らかに、”「西→東」への移動があった”、ということです。そしてその結果は、史書や遺跡、科学的データとも一致しています。

では次に、土器についてみていきましょう。

土器の発明は、私たちの祖先の生活に画期的な変化をもたらしました。それまでの大型動物などを捕獲して食糧とするスタイルから、植物採集による食糧自給が可能となり、生活が安定しました。土器により、生では食べられないどんぐりや山菜を、柔らかくしたりアクを抜いたりするために砕いたり煮込んだりして加工することができるようになり、また貯蔵ができるようになったからです。

縄文土器が世界最古級であることは、前にお話ししました。青森県の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から出土した土器片が、16500年前と判定され、当時は世界最古とされました。その後中国において、20000年前とされる土器が出土したとの報告がありました。その真偽について論争はあるようですが、少なくとも、日本の土器が世界最古級であることは、間違いありません。


縄文土器は、弥生時代(紀元前5世紀頃)になるまで、14000年間もの長い間にわたり、日本各地で作られました。

北は北海道、南は沖縄諸島まで広い地域で、長い期間にわたり作られたため、様々な形のものがあります。

縄文時代を通じて派生した型式数は数え切れない程だが、それらを整理して様式としてまとめると70程度とされる。さらに時間軸でまとめると6期に区分され(後述)、時代を通じて概ね継続する地域文化圏ないし領域が日本列島全域で7~9あったようである。

草創期:約16,000年前~(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
早期:約11,000年前~
前期:約7,200年前~
中期:約5,500年前~
後期:約4,700年前~
晩期:約3,400年前~(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)”
(Wikipediaより)


”前期中頃までは煮沸用の深鉢が唯一の基本となるが,前期後半から浅鉢などの形式が加わり,さらに中期以降,晩期には注口土器,皿,壺など器種が豊富になる。”(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より)

縄文土器というと、真っ先に、「火焔(かえん)型土器」を思い出します。あの生命力がみなぎっているような豪快なデザインの土器ですが、縄文土器と言っても、すべてあのような形をしているわけではありません。素人からみると、一見して、弥生土器と間違えてしまうような縄文土器も多数あります。

<火焔型土器(深鉢形土器) 、縄文中期 伝新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土>

 火焔土器 
 (東京国立博物館蔵)

<丸底深鉢形土器、 縄文草創期 横浜市都筑区花見山遺跡出土>

縄文土器深鉢  
(東京国立博物館蔵)

<人形装飾付壺形土器、 縄文後期 青森県弘前市十腰内出土 >

縄文土器壺  
( 東京国立博物館蔵)

縄文土器というと、特徴あるものとして、「亀ヶ岡式土器」があります・

”亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)は、亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化(かめがおかしきぶんか)は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3-4世紀に終末を迎えた。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。西日本でもみられる土器だが出土は限られている。”(Wikipediaより)

<注口土器、 縄文晩期 青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土>
亀ヶ岡土器
(ギメ美術館蔵)

なかでも「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」は、世界的に有名ですね。

<遮光器土偶>
遮光器土偶  
(東京国立博物館蔵)

土偶は、女性をかたどっており、安産などの祈願に使用されたのではないかと考えられてます。こうしたことから、縄文時代は、女性崇拝文化だったのではないか、さらには女系社会だったのではないか、との説が出てくるわけです。

そのテーマは別の機会に譲るとして、今年に入り、ビッグニュースが飛び込んできました。

亀ヶ岡土器が、亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土したのです。

”縄文時代晩期(約3100~2400年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」と一致する特徴を持つ、沖縄県北谷町で出土した土器片について、調査した弘前大は19日、「西日本で作られた可能性が高い」と発表した。沖縄まで亀ケ岡文化が伝わったことが分かり、当時の交流を示す手掛かりとなるとしている。
土器の模様が、北陸や関東で作られた亀ケ岡系土器に似ているため、「北陸や関東に住んでいた人が、西日本へ移動し製作したのではないか」と同大の関根達人教授(考古学)は推定。”(河北新報オンライン、2017年5月20日)



亀ヶ岡土器、沖縄1 


亀ヶ岡土器、沖縄2 

(「河北新報オンライン、2017年5月20日」より)

縄文人が日本列島において広く移動し、交流していたことを裏付ける発表であり、興味深いところです。

以上、縄文土器が、外観だけみても、非常に多様性に富んでいることが、理解いただけたと思います。
また、日本列島北から南までの広い範囲にわたり、14000年もの間、継続して作られました。これだけ一つの文化が、長い期間にわたり存続した例は、世界的にみても珍しいわけで、縄文文化の素晴らしいところだと思います。


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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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