土器が語ること(3) ~ 縄文土器から弥生土器、土師器、須恵器への変遷
前回、縄文土器と弥生土器の決定的な違いが、製作方法であることをお話ししました。具体的には、縄文土器が、地面上、掘った穴から、直接焼く「野焼き」であるのに対し、縄文土器は、草や土で覆って焼く「覆い焼き」であるということです。
さて、縄文土器から弥生土器は、そのように変遷を遂げていくわけですが、もう少し詳しく見ていきましょう。
縄文末期の土器として、「突帯文(とつたいもん)土器」があります。”直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けて めぐらせる文様を主文様とする土器”で、その名のとおり、口縁部や肩部に突帯(とったい)と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器です。
九州北部で言えば、「夜臼(ゆうす)式土器」があたります。「夜臼式土器」とは、福岡県糟谷(かすや)郡新宮町の夜臼遺跡から出土した土器です。そして、それが弥生土器である「板付(いたづけ)式土器」へ変遷していきます。
「板付式土器」とは、福岡市博多区にある板付遺跡から出土した土器です。板付遺跡は、佐賀県唐津市の菜畑(なばた)遺跡に次ぐ、日本で二番目に古い水稲耕作跡があった遺跡です。また最初期の環濠集落があったことでも知られてます。
<夜臼式土器(右)と板付式土器(左)>
(福岡市埋蔵文化財センターHPより)
”煮沸用の土器、甕の口縁部と胴部に刻目のある突帯文をめぐらすタイプ(正面右)は、夜臼式(ゆうすしき)とよばれる。ゆるく外反する口縁端部に刻目を加えるタイプは、板付式土器とよばれ、両者は、縄文時代から弥生時代へ移行する過渡期において共存することが確認されている。”
とあります。
ここで注目すべきは、夜臼式土器から板付式土器は、急激に変化したのではなく、並行して使用されていた、という点です。夜臼式土器は、板付式土器より古いタイプですから、縄文系の人々が使用していたことになります。一方、板付式土器は、弥生系の人々が使用していたわけです。
二つの土器が併存していたということは、”縄文系の人々と弥生系の人々が、共存していた”ことになります。つまり、新しい文明(弥生土器)が入ってきた際、ただちに古い文明(縄文土器)を破壊・消滅させるのではなく、ゆるやかに移行していったということです。このあたりに、縄文時代→弥生時代への移行の特徴が表れていると言えます。
板付式土器ののち、九州北部においては、掘ノ越式→須玖式→高三潴式→下大隈式→西新式を経て、よく知られている土師器となります。土師器あたりから、古墳時代(3世紀中頃?~)にはいります。
一方、畿内では、まったく別の分類(編年)をしています。夜臼式の時代は、船橋式、板付式の時代が第一様式、以下第Ⅵ様式まであり、これが下大隈式の時代です。古墳時代に入り、よく知られている庄内式→布留式へとなります。庄内式・布留式は、また纏向1式~5式と分かれます。
<庄内式土器>
(大阪府豊中市HPより)
”底の形が尖りぎみで、底にも煤(すす)がべっとりと付いています。これは煮炊きをする時に、土器を台のようなものに載せて浮かし、土器の真下で火を炊いたことを示しています。弥生時代の平底から古墳時代の丸底へという、移り変わりの中間の特徴を示しています。
庄内式の甕は、弥生時代後期の伝統的な甕のつくり方の上に、ケズリや底を丸くするといった新たなわざを取り入れてできました。そのわざとは、当時最も発達した土器文化をもった吉備地方(現在の岡山県)からもたらされたものでした。庄内式の甕は、当時としては最先端の土器だったのです。
土器を薄くし、真下から火をあてることで、より早く煮ることができる…。この炊事時間の短縮という変化は、単に生活文化の変化というにとどまらず、それを必要とした社会の要請があったことを示しています。”(大阪府豊中市HPより)
(大阪府豊中市HPより)
厚さが非常に薄い(なかには2~3mmのものもある)という技術の進歩もさることながら、その技が吉備地方(岡山県)からもたらされた、というところに注目です。吉備と言えば、神武天皇が九州から東征した際の中間居留地であり、また「桃太郎」の伝説地でもあります。巨大古墳があることでも知られていますね。つまり、吉備は当時、畿内をもしのぐ巨大な支配勢力があった可能性があるということです。
<布留式土器>
(天理参考館HPより)
布留式土器は、奈良県天理市の布留遺跡から出土した土器です。布留遺跡は、初期大和王権の軍事を担った物部氏が本拠を置いた集落遺跡と言われています。初期大和政権の拠点とされる纏向遺跡の北方にあり、東側には、物部氏が古くから祭祀を司った石上神社があります。玉工房や武器工房との関連を示す遺物や渡来人とのかかわりを示す遺物も多数出土しており、布留式土器がどのように伝わったかについて、ヒントがあると思われます。
庄内土器、布留土器などの土師器ののち、須恵器の時代となります。
須恵器とは、
”日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用い、登窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて還元炎により焼いて製作された。考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる。日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。これらの系譜は、いずれも伽耶系である。”(Wikipediaより)
とあります。土師器までと違い、ろくろを使い窯で焼くという当時としては画期的な製法です。最初に須恵器生産が始まった場所として、大阪府の陶邑(すえむら)窯跡群が有名ですが、福岡県にも当初期の窯跡群があります。いずれも朝鮮半島南部の伽耶系であることは、ポイントですね。
<日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕>
(兵庫県立考古博物館蔵、Wikipediaより)
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