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土器が語ること(6) ~ 突帯文土器と遠賀川式土器

前回までで、土器の型式、実年代、どこから伝わったのか、などについて、概略をまとめました。

今回から、そうした基礎知識を基にして、いくつかの興味深いテーマについて、掘り下げていきます。

今回は、突帯文(とつたいもん)土器・遠賀川(おんががわ)式土器についてです。


突帯文土器については、すでにお話ししましたが、おさらいをしますと、。”直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けて めぐらせる文様を主文様とする土器”で、その名のとおり、口縁部や肩部に突帯(とったい)と呼ばれる粘土の帯を貼り付けた特徴をもつ土器です。

九州北部でいえば、「夜臼(ゆうす)式土器」などがあたります。

かつては、縄文時代晩期の土器とされていましたが、弥生時代の始まりを”水耕稲作が始まってから”となってきたため、最近では、弥生早期の土器とされています。


もうひとつ、とてもよく知られている土器に、「遠賀川(おんががわ)式土器」があります。

”西日本の前期弥生土器の総称。福岡県遠賀川の河原から発見された立屋敷遺跡より,多くの資料が得られたのにちなんで 1939年,小林行雄によって名づけられた。北部九州から近畿地方に及ぶ地域を中心に分布し,地域間での共通性が非常に強い土器様式である。土器の特徴から北部九州の板付式土器が最も古いと考えられる。”(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より)


<夜臼式土器(右)と板付式土器(左)>

夜臼・板付式土器


時代で言うと、突帯文土器が縄文晩期(弥生早期)、遠賀川式土器が弥生前期ですから、突帯文式土器のほうが先行します。


では、それぞれの土器は、誰が作り使用したのでしょうか?

こうした疑問に対して、興味深い論文があります。
「福岡平野における弥生文化の成立過程 狩猟採集民と農耕民の集団関係」(藤尾慎一郎,国立歴史民俗博物館研究報告 第77集 1999年3月)
   
藤本氏によれば、突帯文土器は、在来の狩猟民が縄文土器の系統を引き、半島から得た製作知識をもとに作り始めたとしてます。では、その知識をどのように得たのかです。

論文で、福岡平野における弥生文化の成立過程を説明しうる面白いモデルを紹介してます。


”狩猟採集民の農耕民化を説明するモデルの一つに非農耕民(この場合は地元の狩猟採集民とすでに農耕民化した集団(この場合は朝鮮無文土器時代の人びととの相互交流の結果,非農耕民が農耕民化するという相互関係モデル(interaction model)がある。もともとヨーロッパ北西部の辺境地域における新石器文化の成立過程を説明するモデルとして考え出されたもので,いろいろなケースが想定されている〔ピーターソン 1981〕〔ゼベルビル・ローリーコンウィ 1984〕〔デンネル 1985〕〔ソルベルグ 1989〕〔グリーン・ゼベルビル 1990〕。”

ここで、非農耕民(地元の狩猟採集民)とは「縄文系弥生人」、農耕民とは「渡来系弥生人」、ということになります。(論文中では、弥生時代に生きていた人々は、すべて弥生人と定義してます。)
そして、
”弥生文化の成立過程の場合は多数を占める在来の狩猟採集民が少数の農耕民との関係のなかで農耕民化していくケースにあたり,その意味でデンネルのフロンティア理論にもっとも近いパタ-ンを示すと考えられる。”
としてます。

”在来の狩猟採集民がいる平野に渡来人がやってきた場合,両集団が何らかの関係をとりむすぶ可能性は高い。何かのきっかけによって渡来人と狩猟採集民の一部が一緒になって,これまで利用されていなかった下流域に占地し水稲農耕に専業化したと考えるのが自然である。”

在地人つまり日本列島の縄文人が、朝鮮半島の無文土器時代の人々と交流するなかで得たのではないか、としてます。もちろん、渡来人が実際にやってきて伝えたのでしょうが、その人数は少なく、藤本氏は、全体の人口の1割程度という数字を挙げてます。

そうしたなかで、突帯文土器も製作するようになった、と考えられます。ただし、あくまで在地の縄文系の人々が主体であったことは、間違いないでしょう。”考古学的に渡来人のコロニーが存在した証拠が得られていない”ことからも、明らかです。

このようにして形成された農耕集団が農耕社会化していくなかで、
”地域の環壕集落を形成して地域の拠点集落となり,その後も地域の核として発展し有力首長を生み出していく板付タイプの集団が生まれ、板付Ⅰ式甕の生産と供給をになった可能性がある"としてます。

なお"板付Ⅰ式土器の祖型となる「祖形甕」は、韓国の前期無文土器(検丹里式)の影響のもとで成立した"、としてます。

ここで、板付遺跡の環壕(かんごう)ですが、
”板付遺跡は,古諸岡川や那珂古川(現御笠川)がつくった谷底平野や氾濫原に囲まれた標高12~15mの中位段丘上に,長径が110mほどの内環壕に囲まれた居住域と,そのまわりに広がる貯蔵穴,甕棺墓地,さらにその外側をめぐる幅10mの外環壕と灌漑施設を備えた水田からなる。環壕は南北370m,東西170mに達する巨大な二重環壕である。”

そして"弥生Ⅰ期の終わりには、青銅器を副葬される首長集団をもつにいたった"としてます。

環壕、青銅器などは、大陸から伝わったものであることは確実です。

つまり、遠賀川式土器は、渡来系弥生人主体の集団の人々が作り、使用していたと言えます。

渡来系弥生人は、高身長、高顔であり、甕棺分布域と響灘(ひびきなだ。日本海南西部の海域で、東側は山口県西部、南側は福岡県北部で限られ、大島(福岡県宗像(むなかた)市)を境に玄界(げんかい)灘に続く)沿岸に分布することが、知られています。

板付遺跡はその分布域圏内ですから、渡来系弥生人主体の集団といえましょう。

以上のとおり、突帯文土器と遠賀川式土器は、形や文様などの型式のみならず、製法、そして作り始めるに至った経緯など、大きな違いがあることが、わかります。(なお論文では、遠賀川式土器と板付Ⅰ式土器を分けていますが、話をシンプルにするため、ここでは板付Ⅰ式土器も、遠賀川式土器に含めるとします。)

そして、弥生早期に、在地の縄文系の人々により突帯文土器製作が始まり、やがて渡来系の人々の数が増えて、遠賀川式土器を製作するようになったわけです

そのあたりは、どのような経緯だったでしょうか?。

これはあくまで推測になりますが、2つ考えられます。

A.当初は渡来系の人々の数は少なかったが、渡来系の人々の割合が増すにつれ、次第に渡来系文化に染まっていった。
B.途中から、遠賀川式土器製作の技術のほか、環壕、青銅器などの文明をもった集団がやってきて、勢力を拡大して、地域を支配した。

Aは「穏便な進化」、Bは「急進的な進化」とでも言えましょう。

進化という観点では、大きな社会変革と言ってよいくらいのものですから、Bの可能性が高いと考えますが、皆さんはどのように考えますか?。

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テーマ : 歴史
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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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