魏志倭人伝を読む その4 ~ 倭の風俗 倭人は年に二回歳をとっていた!?
倭の風俗について、続きます。
人が死ぬと棺桶には入れるが、おおげさな墓室のようなものはない。埋めてから土を盛って塚を作る。葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。埋葬が終わると、家中みなで水に入り体を洗うが、お清めをしているようである。
【解説】
人が亡くなったときの様子です。棺桶とは、当時は甕棺(かめかん)です(下の絵を参照ください。)。回りの連中は、酒を呑んでうたったり踊ったりする、とあります、今でもお通夜のときは、酒を飲んでにぎやかにするのが故人の弔いになる、という地方もあるようで、こうした風習が元になっているのかもしれません。
ちなみに当時の庶民の墓地は、このようなものでした。
吉野ヶ里歴史公園HPより

かれらは、どこかへでかけたり、海を渡って中国へやってきたりするとき、ある一人だけを選んで、髪の手入れ、シラミをとること、衣服の洗濯、肉食、婦人に近づくことなどを禁じる。まるで、喪に服しているようである。この男を持衰(じさい)と呼んでいる。もし旅行がうまくいけば、人々は、この男に奴隷や財産を与える。しかし、病気になったり、なにかの損害を受けたりすれば、この男を殺そうとする。なにもかも、持衰の男が、身を慎まなかったせいだとするからである。
【解説】
持衰という風習は、現代の感覚からみれば野蛮だ、と思ってしまいます。しかしながら、古代では、国が治められないと、たとえそれが天候や疫病によるものだとしても、指導者の責任にされたという話が出てきます。科学が発達しておらず、他に頼るものが何もない時代ですから、致し方なかったのでしょう。
真珠、青メノウが採れる。山では辰砂(硫化水素)がでる。木では、クス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデなどがある。竹では、シノダケ、ヤダケ、カズラダケがある。また、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガなどがあるものの、調味料として使うことを知らないようだ。
オオザル、クロキジもいる。
【解説】
倭国で採れるものを記載してます。かなり詳細に記しているところをみると、現地調査団のような役目をもっていたことがわかります。
この国の風俗のことだが、何かを行ったり、何かを命令したりするときは、まず骨を焼いて、卦を立ててみる。それから吉凶を占って、その結果を告げる。この占いの方法は、中国の亀卜(きぼく)と似ている。焼いてできたヒビ割れの状態を見て、占うからである。
【解説】
亀卜とは、亀の甲羅を焼いて、そのひび割れの形で、吉凶を占うものです。古代中国の殷の時代(BC17世紀~BC11世紀)に盛んに行われました。亀の甲羅に刻まれる文字を、歴史の授業で「甲骨文字」として習いましたよね。
亀卜
倭人の会合、席次には、父子、男女の区別がない。人々は、生まれつき酒が好きなようである。(魏略には、「正月や暦のうえの春夏秋冬を知らない。ただ春に耕すことと、秋に収穫することを、年紀としている。」といっている。)。偉い人に敬意を表す時、どうするかというと、手を打ってから跪くのである。この国の人は、みな長生きで、百年も生きたり、八、九十年も生きたりすることがある。この国の風俗だが、偉い人は、たいてい四,五人の妻があり、庶民でも二、三人は妻を持っている。婦人は、淫らではなく、嫉妬したり、言いつけに背いたりしない。盗難、訴訟等は、あまり起こらない。もし法を犯した場合、軽い罪なら妻子を取り上げる。重い罪なら、一族を皆殺しにする。つまり親類まで、連座させられるのである。
【解説】
秩序だった社会であることがわかります。法を犯した場合、とあり、簡単な決まりのようなものがあったことを示しています。
さて、倭人の寿命について、八十歳から百歳と記載してます。今考えてもずいぶんと長命であり、「だから魏志倭人伝はいい加減だ。」という根拠の一つに挙げられています。ところが文中にある、魏略(中国古代史書)の記述を根拠にして、「当時の年齢の数え方は一年で二回歳を数えていた。」とする二倍年暦説を古田武彦氏が提唱し、一気に真実性が現実味を帯びてきました。確かに二倍年暦説だと、寿命は四十歳から五十歳になり、不自然ではありません。詳細はいずれお話しします。
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人が死ぬと棺桶には入れるが、おおげさな墓室のようなものはない。埋めてから土を盛って塚を作る。葬式では、十日ちょっと喪に服して、そのあいだは、肉も食べない。喪主は大泣きするが、まわりの連中は、酒を呑んで、歌ったり踊ったりする。埋葬が終わると、家中みなで水に入り体を洗うが、お清めをしているようである。
【解説】
人が亡くなったときの様子です。棺桶とは、当時は甕棺(かめかん)です(下の絵を参照ください。)。回りの連中は、酒を呑んでうたったり踊ったりする、とあります、今でもお通夜のときは、酒を飲んでにぎやかにするのが故人の弔いになる、という地方もあるようで、こうした風習が元になっているのかもしれません。
ちなみに当時の庶民の墓地は、このようなものでした。
吉野ヶ里歴史公園HPより

かれらは、どこかへでかけたり、海を渡って中国へやってきたりするとき、ある一人だけを選んで、髪の手入れ、シラミをとること、衣服の洗濯、肉食、婦人に近づくことなどを禁じる。まるで、喪に服しているようである。この男を持衰(じさい)と呼んでいる。もし旅行がうまくいけば、人々は、この男に奴隷や財産を与える。しかし、病気になったり、なにかの損害を受けたりすれば、この男を殺そうとする。なにもかも、持衰の男が、身を慎まなかったせいだとするからである。
【解説】
持衰という風習は、現代の感覚からみれば野蛮だ、と思ってしまいます。しかしながら、古代では、国が治められないと、たとえそれが天候や疫病によるものだとしても、指導者の責任にされたという話が出てきます。科学が発達しておらず、他に頼るものが何もない時代ですから、致し方なかったのでしょう。
真珠、青メノウが採れる。山では辰砂(硫化水素)がでる。木では、クス、トチ、クスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデなどがある。竹では、シノダケ、ヤダケ、カズラダケがある。また、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガなどがあるものの、調味料として使うことを知らないようだ。
オオザル、クロキジもいる。
【解説】
倭国で採れるものを記載してます。かなり詳細に記しているところをみると、現地調査団のような役目をもっていたことがわかります。
この国の風俗のことだが、何かを行ったり、何かを命令したりするときは、まず骨を焼いて、卦を立ててみる。それから吉凶を占って、その結果を告げる。この占いの方法は、中国の亀卜(きぼく)と似ている。焼いてできたヒビ割れの状態を見て、占うからである。
【解説】
亀卜とは、亀の甲羅を焼いて、そのひび割れの形で、吉凶を占うものです。古代中国の殷の時代(BC17世紀~BC11世紀)に盛んに行われました。亀の甲羅に刻まれる文字を、歴史の授業で「甲骨文字」として習いましたよね。
亀卜

倭人の会合、席次には、父子、男女の区別がない。人々は、生まれつき酒が好きなようである。(魏略には、「正月や暦のうえの春夏秋冬を知らない。ただ春に耕すことと、秋に収穫することを、年紀としている。」といっている。)。偉い人に敬意を表す時、どうするかというと、手を打ってから跪くのである。この国の人は、みな長生きで、百年も生きたり、八、九十年も生きたりすることがある。この国の風俗だが、偉い人は、たいてい四,五人の妻があり、庶民でも二、三人は妻を持っている。婦人は、淫らではなく、嫉妬したり、言いつけに背いたりしない。盗難、訴訟等は、あまり起こらない。もし法を犯した場合、軽い罪なら妻子を取り上げる。重い罪なら、一族を皆殺しにする。つまり親類まで、連座させられるのである。
【解説】
秩序だった社会であることがわかります。法を犯した場合、とあり、簡単な決まりのようなものがあったことを示しています。
さて、倭人の寿命について、八十歳から百歳と記載してます。今考えてもずいぶんと長命であり、「だから魏志倭人伝はいい加減だ。」という根拠の一つに挙げられています。ところが文中にある、魏略(中国古代史書)の記述を根拠にして、「当時の年齢の数え方は一年で二回歳を数えていた。」とする二倍年暦説を古田武彦氏が提唱し、一気に真実性が現実味を帯びてきました。確かに二倍年暦説だと、寿命は四十歳から五十歳になり、不自然ではありません。詳細はいずれお話しします。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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