土器は語る(10) ~ 「遠賀川式土器」と神武天皇

今回は、話題を「神話」に絡めてお話しいたします。

弥生式土器の代表的なものとして、「遠賀川式土器」の話をしました。「遠賀川式土器」とは、弥生時代初期に、福岡県の遠賀川流域付近で作られ始め、やがて西日本に伝わり、さらには東北地方へも、製作技術が伝播しました。伝播ルートとしては、陸地は当然として、海上ルートによるものもあったことが推定されています。

<遠賀川式土器の伝播>
 水田稲作と遠賀川式土器の広がり
(秦野市HP「平成20年度桜土手古墳展示館特別展」より)

さて、この話を聞いて、何か連想した方はいるでしょうか?。

キーワードは、「遠賀川」「西から東へ」「海上ルート」です。

ここでピンときた方は、かなりな古代史マニアです。

答えは、「神武天皇東征神話」です。時代は異なるのですが、同じパターンであり、注目したいところです。

「神武天皇東征神話」とは、
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、のちの神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。”(「古事記」、Wikipediaより)

その後大和へ向かい、在地の長髄彦(ながすねひこ)と戦い、一度は敗れるものの勝利して、居を構え、即位します。

神武天皇の出発地は、一般的には、宮崎県の日向とされてます。私は、筑紫の日向、具体的には福岡市西部、糸島市境の日向峠周辺地域と考えてますが、それはいずれ取り上げるとして、ここでの注目は、一年間滞在したという「岡田宮」です。実は、この[岡田宮」の場所が、よくわかっていません。

今のところ、3つの候補地があります。福岡県の岡田宮(おかだのみや)、一宮神社、神武天皇社です。

神武東征出発地

一番わかりやすい岡田宮ですが、福岡県北九州市八幡西区岡田町にあります。
”かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。”(Wikipediaより)

次が、福岡県北九州市八幡西区山寺町にある一宮神社です。一宮神社は岡田神社(岡田宮)の元宮で、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社が昭和25年に合祀された神社です。
神社由緒書きによると、
”・王子神社は、神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり、一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。
大歳神社は、三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は、花尾城主麻生氏が、信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。”

王子神社ですが、神武天皇が天皇即位前で、王子(皇子)だったので、その名がついたとか。

最後の神武天皇社ですが、福岡県遠賀郡芦屋町にあります。芦屋(あしや)は、古くは蘆屋と書き、筑前国続風土記は、「蘆屋こそが神武天皇が東征のおり入った岡湊(おかのみなと)である」としています。正確には、芦屋岡松原の地にあったとされてます。社用地が陸軍飛行場として徴用されたため、現在地に移転させられました。

以上3つの候補地ですが、まず岡田宮は、元宮が一宮神社なので、消えます。では一宮神社と神武天皇社とどちらなのか?、ですが、今のところ不明です。一宮神社の王子神社内には古代祭祀場があるなど、雰囲気的にもぴったりですが、神武天皇社のほうは、移転したため、歴史的なものは、破壊消滅した可能性もあります。何とも言えないところです。

ですがひとつだけはっきりしていることがあります。

いずれの場所にしろ「遠賀川流域」であることです。


日本書記によれば、神武天皇は、崗之水門(おかのみなと、崗の湊)を経たとあります。つまり、「崗」が、「遠賀(おんが)」に変化したわけです。その名の通り、当時は海岸線が現在より上流部まで入り込んでおり、港として発展しました。神武天皇は、その後舟で進軍したわけですから、その出立地にふさわしいところになります。 


「遠賀川式土器」が、西日本さらには東日本にも広まっていったのは、海運によるところが大きかったわけですが、その理由がわかりますね。


ところで古事記によれば、神武天皇は、岡田宮で一年間、何をしていたのでしょうか?。東へ行くのなら、すぐに出発すればよさそうなものです(なお日本書記には、逗留の記載なし)。

それはおそらく、舟を築造したり、兵士、兵器や食料を集めたりなど、兵力を調達していたのではないでしょうか?。

そのように考えれば、納得できますね。

そしてその後、阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)を経て、畿内に向かいます。この海上ルートも、瀬戸内海があったからたまたま進んだのではなく、遠賀川式土器の伝播ルートになるなど、古代から極めて重要であった海上ルートを使った、ということでしょう。

ここで、神武天皇が、「海人族」であることを思い出してください。この海上ルートは、「海人族」の海上ルートであったはずです。そして阿岐国(広島県)、吉備国(岡山県)は、その「海人族」の配下にあった国でしょう。その海上ネットワークを使って、畿内侵攻を試みた、ということになります。

<神武天皇東征>
神武東征1 

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プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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