古墳は語る(1)~まずは古代墳墓の基礎知識から
ここまで、銅鐸、土器、という古代人の遺した文明の利器をみてきました。全国的な分布などを見ると、細かい点は置いておいて、大きな流れとして「西→東」という動きは確認できたと思います。
次に、古墳をみてみます。何と言っても古代というと、あの大仙陵古墳などの、巨大な前方後円墳を思い出します。そしてそれが畿内に多くあることから、4世紀頃には大和朝廷が全国支配したという論拠になっているわけです。また邪馬台国畿内説の根拠にもなってます。
まず始めに基本的なことの整理です。古墳については、銅鐸や土器以上に、話が複雑かつ多岐にわたるため、ここをしっかりやらないと、話がごちゃごちゃになってしまいます。
まずそもそも「古墳」とはなんでしょうか?
単純に、”古代人のお墓”と考えがちですが、それだけでは不充分です。
厳密に言うと、
”古代の墓で,土を高く盛り上げ,その中に遺骸を納めたもの。中国,朝鮮にもみられるが,日本では3世紀の後半から7世紀頃にかけて造られた墳墓をさし,特にその時代の貴族や地方の豪族など当時の支配者またはそれに準じる身分の高い人を葬ったものと考えられている。日本史の時代区分ではこの古墳の造られた時代を古墳時代という。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
となります。
つまり、
形状・・・土を盛り上げている
時代・・・3世紀後半から7世紀頃
ことが条件となります。
土を盛り上げた墓は、弥生時代にも作られてますが、それは「古墳」とは呼ばず、「弥生墳丘墓」と呼びます。
このあたりがややこしいというか、わかりにくいところです。つまり、
「古墳」=”古墳時代に作られた墳丘墓”
であり、
「古墳時代」=”古墳が作られた時代”
ということです。
お互いを定義し合ってますね。数学的にみてこれでいいのかな?、と理工系出身の私としては思ってしまいます。
土器のときにも同じ話がありましたね。
「弥生土器」=”弥生時代に作られた土器”
であり、
「弥生時代」=”弥生土器の作られた時代”
でした。
もっとも、最近は、
「弥生時代の始まり」=”水田稲作の始まった時代”
となっているようですが・・・。
まあ、現状はこうなっているので、これはこれとして話を進めます。また、今回の題も、「古墳は語る」としてますが、これはこういった事情で、正確に書くと「弥生墳丘墓」だのとも表記する必要があるのですが、かえってわかりにくくなるので、あえてそうしましたこと、ご了解ください。
ここで、日本のお墓の歴史をみてみましょう。
1.縄文時代
縄文時代のお墓は、残された遺構から推定して、土を掘ってそこに直接埋める「土壙墓(どこうぼ)」が一般的だったと考えられます。
これは考えてみればよくわかることですね。人が亡くなって、その亡骸をどうかするときに、もっとも簡単で、手間のかからないやり方ですから、それが一般的だったのではないか、と考えられます。
<土壙墓>
”他にも、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を埋めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓など、実にバラエティーに富んでいました。”(「縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域」(佐々木藤雄、国際縄文学協会)より)
<配石墓>

(以上、三内丸山遺跡HPより)
埋葬方法は、当初は手足を折り曲げてしゃがんだ姿勢で埋葬する「屈葬」がほとんどであり、次第に体を伸ばした姿勢で埋葬する「伸展葬が増えていったとみられます。
甕棺墓は、弥生時代の九州北部を中心に大いに取り入れられますが、縄文時代においては、主として子供や乳幼児が埋葬されました。
また、地中に埋められた甕棺の上に数個の支石を並べ、その上を平らな1枚石で覆う「支石墓」が、縄文時代晩期に出現します。
なお、日本各地にあるストーンサークル(環状列石、かんじょうれっせき)も、配石墓ではないかとの見方もあり、興味深いところです。
2.弥生時代
弥生時代になると、さらに発展した形の墓が出現します。以下、Wikipediの分類に基づき整理します。
①甕棺墓
”甕・壺を棺とする墓である。弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。この頃は、支石墓の直下に甕棺を埋葬する形態も見られた。弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎える。主として糸島市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布していた。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
弥生時代の甕棺墓の特色は、成人を埋葬した点、成人埋葬用に大型の甕棺を製造した点にあり、世界的にも朝鮮半島南部や中国の長江中流域の遺跡にも見られ、非常に珍しいとされている。”
<甕棺墓>
(吉野ヶ里遺跡展示より)
②支石墓
”数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。”
<新町支石墓群、福岡県糸島市>

(文化遺産オンラインより)
③石棺墓
”板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。弥生中期には、北部九州で甕棺墓が主流となり、石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。”
<綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)、山口県下関市>
(Wikiwandより)
④木棺墓
”木製の棺を用いる墓である。北部九州でも当初は木棺を用いた。しかし、前期末以降は集団墓地が中核となり、独自に生み出された甕棺を用いる甕棺墓へと変遷していった。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。木棺を作るには、製板技術が必要であり、そのためには金属器(または磨製石器)の使用が不可欠であることから、弥生時代前期に出現したと考えられている。しかし木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく判っていない。”
<雁屋遺跡、大阪府四条畷市>
(四条畷市HPより)
⑤墳丘墓
”遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく。
a.方形周溝墓(方形低墳丘墓)
木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。”
<平原1号墳、福岡県糸島市>
(Wikipediaより)
b.大型墳丘墓
”弥生後期、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(特殊器台・特殊壺)。
山陰にも墳丘墓の大型化が起こるが形態は四隅突出型墳丘墓と呼ばれる方墳の角が突き出したような形態となっている。
これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。”
<四隅突出型墳丘墓>
(島根県HPより)
3.古墳時代
3世紀頃から、突如大規模な墳丘墓が築造され始めます。以下「日本大百科全書(ニッポニカ)」によります。
”規模の大小は別として、土もしくは石を積んだ墳丘を有し、その内部に遺骸(いがい)の埋葬施設をもっている。また質・量に関係なく副葬品が添えてあることが基本的な姿である。この遺骸埋葬施設を、古墳の内部主体あるいは内部構造とよんでいる。
古墳は死者に対する手厚い埋葬の方法であり、だれもが古墳に埋葬されたものではなく、ある特定の人物のための墓であり、一般民衆の墓ではない。つまり政治的権力者あるいは社会に君臨した支配者のための墓であって、それ自身が墓であると同時に、一種の歴史的・社会的な記念物である。したがって古墳の出現は政治的権力者の登場、政治的社会への変質を意味しているので、前の弥生時代と区別して、古墳がつくられていた時代すなわち「古墳時代」とよんでいる。[大塚初重]”
形状により名称がつけられてます。
円墳・帆立貝形古墳・方墳・上円下方墳・前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・双方中方墳・双円墳・八角墳などです。
古墳というと「前方後円墳」を連想しますが、耳慣れない名前の古墳も多いですね。
<前方後円墳、大仙陵古墳>
(Wikipediaより)
以上が、縄文時代から、弥生時代、古墳時代までの、お墓の歴史です。
いろいろな墓の名前が出てきて、頭の中がこんがらがってきますね。後ほど整理しますので、ご安心を。
↓ 新著です。購読いただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。


にほんブログ村

次に、古墳をみてみます。何と言っても古代というと、あの大仙陵古墳などの、巨大な前方後円墳を思い出します。そしてそれが畿内に多くあることから、4世紀頃には大和朝廷が全国支配したという論拠になっているわけです。また邪馬台国畿内説の根拠にもなってます。
まず始めに基本的なことの整理です。古墳については、銅鐸や土器以上に、話が複雑かつ多岐にわたるため、ここをしっかりやらないと、話がごちゃごちゃになってしまいます。
まずそもそも「古墳」とはなんでしょうか?
単純に、”古代人のお墓”と考えがちですが、それだけでは不充分です。
厳密に言うと、
”古代の墓で,土を高く盛り上げ,その中に遺骸を納めたもの。中国,朝鮮にもみられるが,日本では3世紀の後半から7世紀頃にかけて造られた墳墓をさし,特にその時代の貴族や地方の豪族など当時の支配者またはそれに準じる身分の高い人を葬ったものと考えられている。日本史の時代区分ではこの古墳の造られた時代を古墳時代という。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
となります。
つまり、
形状・・・土を盛り上げている
時代・・・3世紀後半から7世紀頃
ことが条件となります。
土を盛り上げた墓は、弥生時代にも作られてますが、それは「古墳」とは呼ばず、「弥生墳丘墓」と呼びます。
このあたりがややこしいというか、わかりにくいところです。つまり、
「古墳」=”古墳時代に作られた墳丘墓”
であり、
「古墳時代」=”古墳が作られた時代”
ということです。
お互いを定義し合ってますね。数学的にみてこれでいいのかな?、と理工系出身の私としては思ってしまいます。
土器のときにも同じ話がありましたね。
「弥生土器」=”弥生時代に作られた土器”
であり、
「弥生時代」=”弥生土器の作られた時代”
でした。
もっとも、最近は、
「弥生時代の始まり」=”水田稲作の始まった時代”
となっているようですが・・・。
まあ、現状はこうなっているので、これはこれとして話を進めます。また、今回の題も、「古墳は語る」としてますが、これはこういった事情で、正確に書くと「弥生墳丘墓」だのとも表記する必要があるのですが、かえってわかりにくくなるので、あえてそうしましたこと、ご了解ください。
ここで、日本のお墓の歴史をみてみましょう。
1.縄文時代
縄文時代のお墓は、残された遺構から推定して、土を掘ってそこに直接埋める「土壙墓(どこうぼ)」が一般的だったと考えられます。
これは考えてみればよくわかることですね。人が亡くなって、その亡骸をどうかするときに、もっとも簡単で、手間のかからないやり方ですから、それが一般的だったのではないか、と考えられます。
<土壙墓>

”他にも、自然の洞窟や岩陰に遺体を葬ったものから、墓壙の上面や内部に礫を配した配石墓、板状あるいは扁平な礫を組み合わせた石棺内に遺体を納めた石組石棺墓、深鉢や甕などの土器内に遺体を埋めた土器棺墓(甕棺墓)、竪穴住居内に遺体を放置あるいは埋葬した廃屋墓など、実にバラエティーに富んでいました。”(「縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域」(佐々木藤雄、国際縄文学協会)より)
<配石墓>

(以上、三内丸山遺跡HPより)
埋葬方法は、当初は手足を折り曲げてしゃがんだ姿勢で埋葬する「屈葬」がほとんどであり、次第に体を伸ばした姿勢で埋葬する「伸展葬が増えていったとみられます。
甕棺墓は、弥生時代の九州北部を中心に大いに取り入れられますが、縄文時代においては、主として子供や乳幼児が埋葬されました。
また、地中に埋められた甕棺の上に数個の支石を並べ、その上を平らな1枚石で覆う「支石墓」が、縄文時代晩期に出現します。
なお、日本各地にあるストーンサークル(環状列石、かんじょうれっせき)も、配石墓ではないかとの見方もあり、興味深いところです。
2.弥生時代
弥生時代になると、さらに発展した形の墓が出現します。以下、Wikipediの分類に基づき整理します。
①甕棺墓
”甕・壺を棺とする墓である。弥生時代前期~中期の北部九州で非常に顕著に見られる。甕棺墓は縄文時代から一部に見られていたが、甕棺は小型でありもっぱら乳幼児の葬送用であった。弥生時代前期の北部九州において、成人埋葬用に大型の甕棺が製造され始め、甕棺墓が定着し始める。この頃は、支石墓の直下に甕棺を埋葬する形態も見られた。弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎える。主として糸島市付近、福岡市付近、佐賀県神埼郡付近などに分布していた。弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
弥生時代の甕棺墓の特色は、成人を埋葬した点、成人埋葬用に大型の甕棺を製造した点にあり、世界的にも朝鮮半島南部や中国の長江中流域の遺跡にも見られ、非常に珍しいとされている。”
<甕棺墓>

(吉野ヶ里遺跡展示より)
②支石墓
”数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。”
<新町支石墓群、福岡県糸島市>

(文化遺産オンラインより)
③石棺墓
”板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺墓ともいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。弥生中期には、北部九州で甕棺墓が主流となり、石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった。”
<綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)、山口県下関市>

(Wikiwandより)
④木棺墓
”木製の棺を用いる墓である。北部九州でも当初は木棺を用いた。しかし、前期末以降は集団墓地が中核となり、独自に生み出された甕棺を用いる甕棺墓へと変遷していった。近畿地方や伊勢湾沿岸部での主流となった。木棺を作るには、製板技術が必要であり、そのためには金属器(または磨製石器)の使用が不可欠であることから、弥生時代前期に出現したと考えられている。しかし木材は土中の保存状態が悪く、その実態は詳しく判っていない。”
<雁屋遺跡、大阪府四条畷市>

(四条畷市HPより)
⑤墳丘墓
”遺体埋葬地に土で塚を築く墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、弥生時代前期から見られたが、比較的小規模であった。弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳へとつながっていく。
a.方形周溝墓(方形低墳丘墓)
木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。”
<平原1号墳、福岡県糸島市>

(Wikipediaより)
b.大型墳丘墓
”弥生後期、それまでより規模の大きい墳丘墓が営まれ始める。特に吉備地方(岡山県〜広島県東半)では、全長数十メートルに及ぶ墳丘墓も現れ、埴輪の祖型である大型の壺や器台を伴うようになる(特殊器台・特殊壺)。
山陰にも墳丘墓の大型化が起こるが形態は四隅突出型墳丘墓と呼ばれる方墳の角が突き出したような形態となっている。
これらの墳丘墓は、弥生中期以前の墳丘墓と規模的に一線を画している。このような墳丘墓は、3世紀中葉過ぎに出現する前方後円墳などの古墳へと発展することになる。”
<四隅突出型墳丘墓>

(島根県HPより)
3.古墳時代
3世紀頃から、突如大規模な墳丘墓が築造され始めます。以下「日本大百科全書(ニッポニカ)」によります。
”規模の大小は別として、土もしくは石を積んだ墳丘を有し、その内部に遺骸(いがい)の埋葬施設をもっている。また質・量に関係なく副葬品が添えてあることが基本的な姿である。この遺骸埋葬施設を、古墳の内部主体あるいは内部構造とよんでいる。
古墳は死者に対する手厚い埋葬の方法であり、だれもが古墳に埋葬されたものではなく、ある特定の人物のための墓であり、一般民衆の墓ではない。つまり政治的権力者あるいは社会に君臨した支配者のための墓であって、それ自身が墓であると同時に、一種の歴史的・社会的な記念物である。したがって古墳の出現は政治的権力者の登場、政治的社会への変質を意味しているので、前の弥生時代と区別して、古墳がつくられていた時代すなわち「古墳時代」とよんでいる。[大塚初重]”
形状により名称がつけられてます。
円墳・帆立貝形古墳・方墳・上円下方墳・前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・双方中方墳・双円墳・八角墳などです。
古墳というと「前方後円墳」を連想しますが、耳慣れない名前の古墳も多いですね。
<前方後円墳、大仙陵古墳>

(Wikipediaより)
以上が、縄文時代から、弥生時代、古墳時代までの、お墓の歴史です。
いろいろな墓の名前が出てきて、頭の中がこんがらがってきますね。後ほど整理しますので、ご安心を。
↓ 新著です。購読いただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。


にほんブログ村

スポンサーサイト