古墳は語る(4) ~ 甕棺葬の起源地
次に「甕棺墓」です。
「甕棺墓」は、縄文時代からありましたが、縄文時代は、主として乳幼児の埋葬に使用されていました。弥生時代に入り、特に九州北部を中心にして、成人の埋葬用に広く採用されました。甕のなかに、うずくまるように埋葬されており(屈葬)、まるで胎児が、母親の胎内にいるときのような形ですね。
地上に大石を載せた「支石墓」であったり、墳丘を盛り土する「墳丘墓」であるものもあります。それらは身分の高い人の墓であったと考えられます。
そして何と言っても、特徴的なのは、副葬品の豪華さでしょう。
鏡・玉・剣の三種の神器をはじめとして、様々な品が、遺骸とともに副葬されていた墓もありました。
(吉野ヶ里遺跡展示より)
ところで、この「甕棺墓」ですが、どこから伝わったのでしょうか?
縄文時代にも、乳幼児を甕棺に入れて埋葬する風習はありましたから、それが発展したとも思えます。しかしながら、大人を埋葬する「甕棺墓」は、九州北部を中心として分布してますから、大陸の影響を受けたことは間違いありません。
では、中国には、「甕棺墓」はあったのでしょうか?
まず黄河流域ですが、中流域で仰韶(ぎょうしょう)文化が栄えました(紀元前4800年-同2700年頃)。そのなかの陝西省西安市の半坡(はんぱ)遺跡は、環濠で囲まれた集落ですが、墓も発見され、成人が土壙墓、幼児や子供は甕棺に入れられていました。
また、同じ中流域の河南省鄭州市の西山遺跡(紀元前3300年-同2700年)は、中国最古の城塞都市として話題になりました。そこからも、子供を埋葬した甕棺が出土しました。ちなみにこの遺跡は、「史記」に登場する五帝の初代「黄帝」の城跡ではないか、との説も出されました。
南の長江流域では、中流域で屈家嶺(くつかれい)文化が栄えました(紀元前2600年前-同2000年前頃)。その湖北省京山県屈家嶺遺跡は、城壁都市であり、甕棺墓も発見されました。成人が埋葬されていたかは、不明です。
以上みてきたとおり、古代中国においても、甕棺墓は存在してました。ただし、成人が埋葬されたかは不明で、子供・乳幼児用ということなら、日本の縄文時代と同じです。また、何と言っても、弥生時代からみると、時代が古すぎて、関連がよくわかりません。
そんななか、昨年中国で、甕棺発見のニュースがありました。
”河北省黄■市(■は馬へんに華)の郛堤城遺跡付近で、今年5月に初めて甕棺が埋葬された甕棺墓が見つかった。数カ月にわたる発掘調査を経て、現在まで113の甕棺墓が見つかっている。考古学者によると、同遺跡から出土した甕棺は戦国時代から漢代までの棺で、吉林大学辺境考古研究センターによってそのうち6基は一次葬として埋葬された大人の甕棺墓で、残りの107基は子供の墓と鑑定されている。新華社が伝えた。”(Record China、2016年10月12日、より)
弥生時代と同時代であり、しかも大人用にも使用されていた点も、同じです。
このことから、古代中国甕棺埋葬の風習は途切れることなく伝えられ、少なくとも戦国時代(紀元前403年-同221年)から漢代(前漢として紀元前206年-8年)までは、風習として残っていたと考えられます。
そうした戦乱を逃れて、多くの人々が日本列島にやってきたことは、繰り返しお話ししてきましたが、彼らが甕棺葬(特に成人の)の風習ももってきたのでしょう。
河北省黄驊市は、黄河河口北側にありますが、そこから南の揚子江下流域にかけてにも、甕棺葬の風習が残っていた可能性もあります。
朝鮮半島には、南部を除いて甕棺は発掘されてませんから、朝鮮半島経由陸路ではなく、海路で伝わった可能性が高いと考えられます。
<古代中国甕棺出土地>
なお、甕棺墓の風習は、東南アジアへも伝播したと考えられてますので、そのルートも図に記載しました。
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