古墳は語る(3)~支石墓の伝播ルート
前回、日本古代の墳墓について、整理しました。見方によっては大胆な分類表かもしれませんが、おおまかなイメージをつかむのには、たいへんわかりやすいと思います。
これから詳細について、みていきます。
まず、支石墓です。
日本では、なかなか目にしない、特徴的なお墓です。支石墓とは、
”中国、朝鮮半島、日本に広く分布する巨石墳墓の一形態。北朝鮮で板石を3~4枚立てて方形石室をつくり、平たい大石をかぶせた卓子形のものを支石と称するのに由来する。
わが国には縄文時代晩期に農耕技術とともに西北九州地域に伝来した蓋石式、碁盤式があり、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島県に分布している。
西暦1世紀後半ごろまでにはほぼ姿を消してしまった。
”(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)
新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種であるドルメンの一種とする説もあります。確かに、同じ形ですね。西ヨーロッパが起源とされてますが、そこから伝播したというより、各地で独自に発祥したという説が有力です。
ただ、このような特異な形のものが、世界の各地で偶発的に発生するものなのか?、という疑問は残りますね。
<アイルランドのPoulnabroneにあるドルメン>
(Wikipediaより)
さて、東アジアの支石墓ですが、紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、その周辺(現在の中国吉林省付近)へ広まったようです。当初は、地上に支石を箱形に並べその上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていました。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布してます。
紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播したようです。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4~6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれてます。
南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りてます。大韓民国では、高くそびえるものテーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされます。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴です。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになりました。
朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)です。同地域ではもっとも多い場所で500~600基の支石墓が群集してます。
日本では、縄文時代最晩期の九州北西部に出現しました。朝鮮半島南西部の強い影響があったと想定されてますが、日本の支石墓は朝鮮半島のものより小型化が著しく、また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められます。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えました。
(Wikipredia他より)
一般論的に解説すれば、上記の通りですが、もう少し細かくみていきます。
まず、日本の支石墓は、韓国のどこから九州北部のどこへ伝わったのか、という「伝播ルート」についてです。
ここで、たいへん緻密に解析した論文があるので、それを引用します。「支石墓伝播のプロセス 韓半島南端部・九州北部を中心として(2003.7 端野晋平、九州大学大学院比較社会文化学府)」からです。
論文では、韓半島南端部(47遺跡)および九州北部(49遺跡)の支石墓を対象に、墓地形態・墓壙・石槨施設・密閉施設・支石・埋葬容器という項目について、統計的に処理し分析してます。
そのアプローチ方法もたいへん興味深いのですが、膨大になりますので割愛して、結論のみ紹介します。
【日本の支石墓の韓国での起源地】
”ⅡA1類とⅡA2類の共存が認められる南江流域以西地域が起源地として推定される。これまでの見解では単純に支石墓の密集度から全羅南道を範囲とする西南部が注目されてきた(西谷1980;本間1991)が,支石墓型式からみると慶尚南道南江流域もその候補地として挙げることが可能であろう。”
としたうえで、さらに
日本で主としてみられる,柱穴を中央土壙の外側にもつ松菊里式住居址(検丹里型),外湾刃半月形(短舟形)石庖丁、愛媛県大渕遺跡,岡山県南溝手遺跡,兵庫県口酒井遺跡,大阪府船橋遺跡等で出土しているナスビ紋土器の分布を重ね合わせ、
”日本支石墓の祖型は、韓半島南端部の南江流域に起源する可能性が最も高い。”
としてます。ⅡA1類・2類というのは、支石墓を形態等で分類した区分の名称です(詳細は煩雑になるので、割愛します)。
<韓国支石墓起源地推定図>
【日本への伝播ルート】
学会的には、「済州島ルート」と、「対馬・壱岐ルート」に分かれてるようですが、論文では、「対馬・壱岐ルート」としてます。
さらに、九州北部内での到達地について、「五島列島を含む長崎県の西北九州」と「玄界灘沿岸」の2説について検討し、「玄界灘沿岸」と結論づけてます。ここで「玄界灘沿岸」とは、佐賀県唐津市・東松浦郡、福岡県糸島市近辺を指していると思われます。
以上より、”韓半島南端部から玄界灘沿岸に到達し、そこから西北九州・佐賀平野へと拡散した”、としてます。
<支石墓伝播ルート>
【情報伝達の手段】
では、支石墓は、当時の在地系の縄文人、渡来系の弥生人と、どのような関わりのなかで伝播したのでしょうか?。論文によると、
”これまでの研究の中では特に本間元樹氏(1991)が出土人骨の形質との関係を踏まえ,この問題に踏み込んでいる。本間氏は福岡県新町遺跡・佐賀県大友遺跡・長崎県宇久松原遺跡の支石墓から検出された人骨がいずれも縄文的形質であり,かつ縄文的抜歯風習の頻度も高いことから,まず支石墓の伝播と渡来人の移住を分離する。そして,支石墓は渡来人の移住というよりは習俗の伝播の一例としてまず西北九州へ伝播し,一方,渡来人は支石墓よりやや遅れて稲作を始めとする諸技術を携え北部九州へ移住したと言うのである。”
という従来説を紹介してます。
これはしばしば引用される説です、ようは、支石墓の人骨が、低上顔・低身長であるから、在地の縄文人ではないのか?、という推測です。
ところが、縄文的形質をもつとされている新町遺跡出土9号人骨(熟年男性)の眼窩示数から、
”渡来人的であり、そのまま縄文人の末裔とすることはできない”、
としてます。そして、
”田中良之氏の研究(DoiandTanaka1987;土肥・田中1987)によると,人骨にみられる渡来的形質は,稲作適地である北部九州から適地ではない西北九州へと至るルートでは急激に失われていくという。これは先述の支石墓を含む稲作関連の諸要素の拡散の在り方と同様である。すなわち,北部九州(稲作適地)から西北九州(稲作不適地)へと至るにつれ,渡来人の遺伝的情報の欠落と同様に,支石墓を含む稲作関連の文化的情報も,変形あるいは欠落すると考えられるのである。”
と考察してます。さらに、
”縄文晩期から継続した少数の移住者を想定する(田中・小沢2001;田中2002)のが,現在の研究の到達点としては最も合理的であろう。”
”半島南部と九州北部の各地域間で移住・婚姻・交易等を含む情報伝達の在り方に濃淡がみられること,とりわけ韓半島南部から北部九州へと支石墓築造と稲作に関する文化的情報,及び遺伝的情報が,縄文晩期中葉以来の渡来人の継続的な少数の移住によって,より濃密に伝達され,二次的にそこを起点として,通常の婚姻・交易等を媒介として周辺へと拡散したということである。”
長くなりましたが、簡単に言えば、
韓半島南端部から、対馬・壱岐を経由して、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸に到達した。そこから九州西北部や佐賀平野へと伝播した。その伝播は、少数の渡来人が継続的にやってきたことによって、もたらされた。
ということです。
ここで注目したいことがあります。
一つは、九州北部への到達地点が、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸だった、という点です。このルートは、以前お話しした、中国の使節が、邪馬台国へとやってきたルートと、ほぼ同じです。詳しくは「邪馬台国までの道程をたどる」を参照ください。
つまり、このルートは決して偶然ではなく、長い間にわたり、韓半島と日本列島との交流・交易に使われていたルートである、ということがわかります。
もう一つが、九州北部での、伝播範囲です。北西および南へは伝播しましたが、東つまり隣の福岡平野には伝播しなかった点です(須玖岡本遺跡に支石墓に似た墓がありますが、支石墓と言えるかは、微妙です。)。
論文からです。
”支石墓不在地である福岡平野では,土器様式構造の変化,すなわち最古の弥生土器=板付I式の成立(田中1986)と連動して,支石墓の要素の内,上石・蓋石・石槨等の石を用いた構造物が欠落し,埋葬容器である木棺のみが導入される過程を示した。そして,このような変容過程を,周辺地域に対する福岡平野の文化的自立性の高まりを示すものと考えた。”
としてます。
少しわかりにくい表現ですが、ようは、福岡平野には確立された文化が形成されつつあり、容易に支石墓を受け入れなかった、ということでしょう。
実際、福岡平野(早良平野含む)には、吉武高木遺跡群、須玖岡本遺跡群など、三種の神器をはじめ豪華な副葬品が副葬された墓が数多く発見されてます。そしてそれらの墓は、支石のない甕棺墓や木棺墓などです。
こうしたことから推測するに、福岡平野(早良平野含む)には、当時すでに強大な権力をもった支配者がおり、彼らの文化とは異質であったため、支石墓の文化をもった人々はそこに入っていけなかった、ということが考えられます。
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