古墳は語る(14)~前方後円墳分布の不可思議
新年明けましておめでとうございます。
今年も精魂こめて発信していきたいと考えてます。
よろしくお願いいたします。
さて、前回は、前方後円墳の分布について、データを基にした全体的な傾向をみてきました。
前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であるなら、常識的に考えれば、その分布の傾向として、
1.数量は、大和を中心とした畿内(中枢域)が最も多いはずである。
2.時代の推移に伴う築造数は、中枢域から同心円的に波及するはずである。たとえば、中枢域での築造が減少するに連れ、その他の地域でも減少していくはずである。
という視点で、解析しました。
すると、私たちの予想とは大きく反し、
1.数量が最も多い地域は、東国(千葉・茨城・群馬県)である。
2.中枢域での築造が減少した古墳時代後期に、東国で最も盛んに築造された。
という事実が、浮かび上がってきました。
さて前回は、主として中枢域と東国との比較をメインとしましたが、西国特に私が九州王朝があったと考えている、九州北部との比較をします。
まず数量ですが、福岡県が267基と、奈良県(312基)に迫り、大阪府(202基)・京都府(128基)を上回っていることは、前回グラフの通りです。
次に、数量の推移です。果たして、中枢域が減少していくにしたがい、九州北部でも、減少しているでしょうか?
図でみてみましょう。
下図は、中枢域である畿内(摂津・和泉・河内・大和・山城)における主な前方後円墳を記載したものです。
ご覧のとおり、3世紀中頃(古墳時代前期)、大和において大型前方後円墳の築造が始まり、4世紀後半(古墳時代中期)になり、河内・和泉において、大仙陵古墳、誉田御陵山古墳をはじめとした巨大前方後円墳が築造されます。ところが、突然5世紀終わりごろ(古墳時代後期)には大古墳は築造されなくなります。以後、大規模な前方後円墳は築造されなくなります。例外として、大和最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳(318m)が、終末期の6世紀後半に築造されます。なぜこの時期に突然築造されたのか、「?」ですね。
では次に、九州北部ではどうだったのか、みてみましょう。
見ての通り、1期(古墳時代初頭)には、糸島~今宿平野、早良~福岡~糠屋平野、遠賀川流域で、多くの前方後円墳が築造されてます。その後大きな古墳(銚子塚古墳など)が築造されますが、5期(古墳時代中期)あたりから数が減り、規模も小さくなっていきます。
そのまま衰退に向かうのかと思いきや、再び築造数が増え始めます。その後の最大規模の前方後円墳も、
糸島~今宿平野では、今宿大塚古墳(9期)
早良~福岡~糠屋平野では、東光寺剣塚古墳(9期)
津屋崎・宗像・遠賀川下流域では、在自剣塚古墳(9期)
遠賀川中流では、桂川大塚古墳(9期)
と、終末期に築造されます。
また、久留米、八女地方では、前方後円墳築造が中期以降活発になりますが、最大のものは、筑紫の君磐井の墓として有名な岩戸山古墳(9期)です。ちなみに岩戸山古墳は、墳長138mで、北部九州最大の前方後円墳です。
以上みてきたとおり、畿内において前方後円墳築造が隆盛を極める古墳時代中期(5世紀、5・6・7期)に、九州北部では築造が衰退し、畿内で衰退する古墳時代後期(6世紀、8・9・10期)において、九州北部で再び活発化することが、わかります。
この事実を、どのように解釈すればいいのでしょうか?
これに対して、たとえば
「畿内で大古墳が築造されていた中期は、他の地方では築造が規制されたが、畿内で築造されなくなった後期は、規制がなくなり、各地方で自由に築造できるようになったのだ。」
という説明がされるかもしれません。
実際、天皇陵も、用明天皇(587年没)以降は、方墳・八角墳へと変遷します。それに伴い、前方後円墳は全国支配の象徴ではなくなった、という解釈です。
しかしながら、そのようなことが現実的にありうるでしょうか?
”畿内においては、後期になって前方後円墳に対する興味がなくなり、各地方の豪族に対して、
「以後、ご自由に造ってくださって結構です。」
などという詔でも出した。”
ということでしょうか?。
それほど大和朝廷は、地方豪族に寛容で心優しい人々の集団だったのでしょうか。
そんなことはありえないでしょう。
たとえ築造を自由に許すにしても、少なくとも「天皇陵を上回るものは築造してはならない。」程度の規制はかけるはずです。そうでなければ、過去の天皇陵の権威を、貶めてしまいかねないからです。
ところが実際には、八女の岩戸山古墳(9期)は、墳長138mであり、同年代の天皇陵の墳長を上回ってます。他にも、同時代の天皇陵を上回る古墳が数多くあります。こんなことを、当時の大和朝廷が、やすやすと認めたのでしょうか?。
こうなってくると、そもそも「前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であった。」という前提自体、「?」ということになってこざるをえません。
↓ シリーズ第二弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。
にほんブログ村

今年も精魂こめて発信していきたいと考えてます。
よろしくお願いいたします。
さて、前回は、前方後円墳の分布について、データを基にした全体的な傾向をみてきました。
前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であるなら、常識的に考えれば、その分布の傾向として、
1.数量は、大和を中心とした畿内(中枢域)が最も多いはずである。
2.時代の推移に伴う築造数は、中枢域から同心円的に波及するはずである。たとえば、中枢域での築造が減少するに連れ、その他の地域でも減少していくはずである。
という視点で、解析しました。
すると、私たちの予想とは大きく反し、
1.数量が最も多い地域は、東国(千葉・茨城・群馬県)である。
2.中枢域での築造が減少した古墳時代後期に、東国で最も盛んに築造された。
という事実が、浮かび上がってきました。
さて前回は、主として中枢域と東国との比較をメインとしましたが、西国特に私が九州王朝があったと考えている、九州北部との比較をします。
まず数量ですが、福岡県が267基と、奈良県(312基)に迫り、大阪府(202基)・京都府(128基)を上回っていることは、前回グラフの通りです。
次に、数量の推移です。果たして、中枢域が減少していくにしたがい、九州北部でも、減少しているでしょうか?
図でみてみましょう。
下図は、中枢域である畿内(摂津・和泉・河内・大和・山城)における主な前方後円墳を記載したものです。

ご覧のとおり、3世紀中頃(古墳時代前期)、大和において大型前方後円墳の築造が始まり、4世紀後半(古墳時代中期)になり、河内・和泉において、大仙陵古墳、誉田御陵山古墳をはじめとした巨大前方後円墳が築造されます。ところが、突然5世紀終わりごろ(古墳時代後期)には大古墳は築造されなくなります。以後、大規模な前方後円墳は築造されなくなります。例外として、大和最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳(318m)が、終末期の6世紀後半に築造されます。なぜこの時期に突然築造されたのか、「?」ですね。
では次に、九州北部ではどうだったのか、みてみましょう。



見ての通り、1期(古墳時代初頭)には、糸島~今宿平野、早良~福岡~糠屋平野、遠賀川流域で、多くの前方後円墳が築造されてます。その後大きな古墳(銚子塚古墳など)が築造されますが、5期(古墳時代中期)あたりから数が減り、規模も小さくなっていきます。
そのまま衰退に向かうのかと思いきや、再び築造数が増え始めます。その後の最大規模の前方後円墳も、
糸島~今宿平野では、今宿大塚古墳(9期)
早良~福岡~糠屋平野では、東光寺剣塚古墳(9期)
津屋崎・宗像・遠賀川下流域では、在自剣塚古墳(9期)
遠賀川中流では、桂川大塚古墳(9期)
と、終末期に築造されます。
また、久留米、八女地方では、前方後円墳築造が中期以降活発になりますが、最大のものは、筑紫の君磐井の墓として有名な岩戸山古墳(9期)です。ちなみに岩戸山古墳は、墳長138mで、北部九州最大の前方後円墳です。
以上みてきたとおり、畿内において前方後円墳築造が隆盛を極める古墳時代中期(5世紀、5・6・7期)に、九州北部では築造が衰退し、畿内で衰退する古墳時代後期(6世紀、8・9・10期)において、九州北部で再び活発化することが、わかります。
この事実を、どのように解釈すればいいのでしょうか?
これに対して、たとえば
「畿内で大古墳が築造されていた中期は、他の地方では築造が規制されたが、畿内で築造されなくなった後期は、規制がなくなり、各地方で自由に築造できるようになったのだ。」
という説明がされるかもしれません。
実際、天皇陵も、用明天皇(587年没)以降は、方墳・八角墳へと変遷します。それに伴い、前方後円墳は全国支配の象徴ではなくなった、という解釈です。
しかしながら、そのようなことが現実的にありうるでしょうか?
”畿内においては、後期になって前方後円墳に対する興味がなくなり、各地方の豪族に対して、
「以後、ご自由に造ってくださって結構です。」
などという詔でも出した。”
ということでしょうか?。
それほど大和朝廷は、地方豪族に寛容で心優しい人々の集団だったのでしょうか。
そんなことはありえないでしょう。
たとえ築造を自由に許すにしても、少なくとも「天皇陵を上回るものは築造してはならない。」程度の規制はかけるはずです。そうでなければ、過去の天皇陵の権威を、貶めてしまいかねないからです。
ところが実際には、八女の岩戸山古墳(9期)は、墳長138mであり、同年代の天皇陵の墳長を上回ってます。他にも、同時代の天皇陵を上回る古墳が数多くあります。こんなことを、当時の大和朝廷が、やすやすと認めたのでしょうか?。
こうなってくると、そもそも「前方後円墳が大和朝廷の全国支配の象徴であった。」という前提自体、「?」ということになってこざるをえません。
↓ シリーズ第二弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。


にほんブログ村

スポンサーサイト