古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎
さて、前方後円墳を、全国分布、築造時期の推移などのデータを、頭の中を白紙にして客観的にみていくと、「大和王権が全国支配した象徴である」ということは言えないと、いうことをお話ししてきました。
このような話をすると、かならず出てくるのは、
”いや、データを見ればそうかもしれないが、世界一と言われる大仙陵(伝仁徳天皇陵)など巨大古墳は、畿内に集中しているではないか。あれだけの古墳を築造できるのは、大和王権しかいないではないか。”
という反論です。
大仙陵が本当に仁徳天皇陵かどうかは別として、あれだけの古墳群を築造したということは、卓越した勢力が、古代あの地域に存在したことは確かでしょう。そのあたりを、どう解釈するかというテーマが出てきます。
ということで、今回は古代天皇陵について、データからみていきましょう。
下表は、実在説のある第10代崇神天皇から第42代文武天皇までの、古代天皇陵の位置、宮内庁比定の古墳とその推定築造年代等についてまとめたものです。参考までに、古事記・日本書記等から推定される亡くなった年(没年)も、記載してます。左側が皇紀、右側が二倍年歴によるものです。
二倍年歴とは、古事記・日本書記の年齢は、1年に二回の歳を数えたとする説です。
詳しくは
一年で二回の年を数えたという「二倍年歴」説は本当か?
をご覧ください。
(ここでは簡易的に、23代顕宗天皇以前を二倍年暦としてます。)
見づらくて恐縮ですが、各古墳の推定築造年代をご覧ください。各天皇の没年と全く合っていない古墳が、多数あります。そのような古墳は、年代に×をつけるとともに黄色で網掛けしました。また、その他の論拠により、明らかに別の陵であるとされている陵も、21代雄略天皇、26代継体天皇、29代欽明天皇、32代崇峻天皇、37代斉明天皇、42代文武天皇とあり、そうした古墳も×をつけ黄色で網掛けしました。
このようにみていくと、宮内庁比定の古代天皇陵のうち、実在とされる10代崇神天皇以降42代文武天皇までの32陵のうち、14陵が間違い、ということになります。なんと、44パーセントが、間違いということになります。
一般的に、仮説を立て(ここでは天皇陵比定)、調査実証した結果、44パーセントも間違ってましたとなると、そもそもの仮説の立て方(ここでは天皇陵比定の方法)が間違っていた、とされてしまいます。もっと言うと、残りの56パーセントも間違っているのではないか、という疑いをもたれるわけです。
これら天皇陵とされている古墳(10代崇神天皇~42代文武天皇)がどこに分布しているのか図示したのが下の図です。
天皇陵の所在エリアは、大きく分けて6つに分けられます。奈良県の大和・柳本・佐紀・馬見古墳群、大阪府南部の古市・百舌鳥古墳群、大阪府北部の三島野古墳群です。ずいぶんと広い範囲で分布しているのが、よくわかります。
移動を矢印で示しました。10代崇神天皇陵から30代敏達天皇陵までです。
10代の崇神天皇陵(行燈山古墳)は奈良県大和東南の柳本古墳群にあります。13代の成務天皇陵(石塚山古墳)は奈良県大和北部の佐紀古墳群にありますが、ここまでは、柳本古墳群↔佐紀古墳群と、大和の内部での移動です。
ところが14代の仲哀天皇になると、一気に大阪府東南部の古市(ふるいち)古墳群の岡ミサンザイ古墳に飛びます。ここから古市古墳群が続くかと思いきや、次の神功皇后陵(五社神古墳)は再び大和北部の佐紀古墳群に戻ります。
そして次の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は、古市古墳群です。
次の16代仁徳天皇陵が、あの巨大古墳である大仙陵古墳で、これは古市古墳群の西にある、百舌鳥古墳群です。17,18代と百舌鳥古墳群ですが、19代允恭天皇陵(市ノ山古墳)は古市古墳群に戻ります。
ここからがまた複雑で、20代安康天皇陵(古城1号墳、図には不記載)は佐紀古墳群、21代雄略天皇陵(高鷲丸山古墳、不記載)、22代清寧天皇陵(白髪山古墳)は古市古墳群、23代は馬見古墳群、24代は古市古墳群、25代に再び馬見古墳群近くと行き来して、26代の継体天皇陵は大阪府茨木市の三島野古墳群と、一気に大阪北部へ移動します。
ただしそこは一代限りで、27代安閑天皇陵は古市に戻り、28代・29代はまた大和南へ飛びます。そして30代敏達天皇陵は、再び古市に戻ります。
31代以降は、古市↔大和を繰り返し、38代天智天皇陵は京都府、39代弘文天皇陵は滋賀県です。40代天武天皇・41代持統天皇陵は合祀で奈良県明日香になり、42代文武天皇も同様です。最後の最後に、神武天皇陵のある橿原市の近辺に戻ってきたわけです。
ずいぶんと大きく移動しているのが、おわかりいただけたと思います。
もっともこれらはあくまで、宮内庁比定による陵墓位置を基にしているものであり、そもそもの信ぴょう性に欠ける、とされてます。実際、表を見ればわかるとおり、歴代天皇陵は時代順に並んでおらず、バラバラです。
こうしたことから、多くの学者から、天皇陵比定についての様々な説が提起されているわけです。
私は以前、天皇陵比定というのは古代からの言い伝えがあり、それを基にしているのかと思ってましたが、実はそうではないのです。
”現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。
江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林、本居宣長、蒲生君平、北浦定政、谷森善臣、平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。”(Wikipediayより)
ようするに、主として江戸時代になって文献や言い伝えを基に定められたのであり、逆に言えば、それ以前はほとんどわからなかった、ということです。
かつては学校の授業で、今の大仙陵古墳を仁徳天皇陵、誉田御廟山古墳を応神天皇陵と習いました。ところがその後、多くの学者(たとえば森浩一氏(同志社大学名誉教授))から、「論拠に乏しい」との指摘が出て、それぞれ大仙陵古墳、誉田御廟山古墳と呼ぶようになったわけです。その論争は、今でも続いています。
この論争は、半永久的に続くのでなないかと思われます。なぜなら、比定するための資料が、あまりにも少ないからです。ご存じのとおり、天皇陵の発掘調査は認められていません。肝心要の中身がわからなくては、断定的なことは言えません。あくまで推測に推測を重ねるだけでしょう。
この話の決着はさておき、興味深いことがあります。
応神天皇の皇紀による没年は313年です。一方、応神天皇陵に比定されている誉田御廟山古墳の推定築造年代は、5世紀初頭です。100年もの差異があります。いくらなんでも死後百年も経過して築造したということはないでしょう。これを二倍年歴ですと、没年が407年となり成立します。
「誉田御廟山古墳=応神天皇陵」と考えている方は、皇紀を無視しており、結果として二倍年歴を肯定していることになります。このあたりを、「誉田御廟山古墳=応神天皇陵」を唱えている方は、どのように解釈しているのでしょうか?。逆に、二倍年歴の正しさが、実証されているとも言えますね。
話を戻します。天皇陵の真陵については多くが不明と言っていいでしょうが、おおまかな場所については、日本書記等の記載からおおむね推定されてます。そこからわかることは、上記のとおり「大きな移動があった」ということです。
では、こうした「激しすぎる移動」は何を意味しているのでしょうか?。
次回、分析していきます。
↓ シリーズ第一弾を電子書籍でも出版しました。
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