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古墳は語る(9)-積石塚は前方後円墳の祖型?

前回、四隅突出型墳丘墓の祖型が積石塚であり、積石塚が朝鮮半島北部(高麗)に多いことから、四隅突出型墳丘墓は朝鮮半島由来ではないか、という大塚初重氏の説を紹介しました。大塚氏はさらに、前方後円墳の祖型は積石塚ではないか、との説も唱えてますが、このあたりは見解が分かれます。


さてその積石塚ですが、どこが発祥なのか?、というテーマがあります。とても興味深い話なので、今回はこのテーマを掘り下げます。


まず、そもそも積石塚とは何なのか、を確認しましょう。

”石を積み上げて棺槨(かんかく)をおおった墳墓をいい,礫石(れきせき)を封土の代りに積んだケルンと,切石を規則的に置いた石塚とに分けられる。ケルンは,バルト海周辺,ヨーロッパロシア,シベリアに多く,石塚は中国東北,朝鮮半島に数段からなる形式の整ったものが見える。”(百科事典マイペディアより)


中国東北部と言えば、以前お話しした遼河地域があります。そこで栄えた文明を、遼河文明と呼びます(紀元前6200年~紀元前500年頃)。そのうちの紅山文化は、中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部にわたり、紀元前4700年~紀元前2900年頃に栄えました。

”龍をかたどったヒスイの玉や泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)などが特徴的ですが、後期には、敖漢四家子草帽山の積石塚、咯左東山嘴の祭壇、牛河梁の女神廟、積石塚といった巨大な「ピラミッド式」建築が造られました。
そして、東山嘴の祭壇の前円・後方、左右対称の作りが、以後の中国の壇・廟・塚の有機的統一体の大型建築群の 矢となった、との説もあります。”(以上「紅山文化と中国北方文明の起源について」(徐子峰)より抜粋要旨)

牛河梁の積石塚 >
牛河梁積石塚 
( 中文百科在線「遼寧凌源牛河梁新石器時代遺址」より)

遼河文明が、のちの黄河文明など中国古代文明に大きな影響を与えたと考えられてますが、その流れで当然朝鮮半島にも大きな影響を与えたことでしょう。朝鮮半島に積石塚が多くある理由がわかります。

ところで東アジアの積石塚とともに、バルト海周辺,ヨーロッパロシア,シベリアにも同様なものがあり、ケルンと呼ばれています。ケルンというと、近年では,登頂の記念に登降路や尾根・山頂にピラミッド型に積んだ石のことを意味するようになりましたが、もともとは,石を積み上げて墓室を覆ったものをいいます(百科事典マイペディアより)。

ここでこのブログを通して読まれている方の中には、ピンときた方もいるかもしれません。

「遼河文明~シベリア~バルト海周辺」です。


そうです。「櫛目文土器」の想定伝播ルートと重なりますね。そしてその伝播は、DNAのY染色体ハプログルプN系統の人たちが伝えたのではないか、との説も紹介しました。
土器が語ること(11) ~ 中国遼河文明と縄文土器との関係

残念ながら、今のところそのような報告はされてないようです。土器が伝播したのであれば、墓地も伝播するのも自然な流れだと考えますが・・・。積石塚とケルンは違うということなのでしょうか?

それはともかく、遼河文明の積石塚が、朝鮮半島に伝播したのは、間違いないでしょう。
下の写真は、中国と北朝鮮の国境付近にある将軍塚です(中国吉林省集安市)。高句麗第20代国王の長寿王(394-491年)の墓とされてます。
かなりがっしりとした造りですね。

<将軍塚>
将軍塚 
(Wikipediaより)

積石塚は、韓国にもあります。石村洞古墳群です。ソウル特別市松坡区(ソンパく)にある、三国時代百済の古墳群です。そのうちの3号古墳は、百済第13代王の近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 -375年)の墓との説もあります。

<石村洞古墳群>
石村洞古墳 
(Wikipediaより)

こうした積石塚の文化が、日本列島にも伝播したと考えて差支えないでしょう。

日本列島の主要な積石塚としては、

・剣崎長瀞西遺跡(群馬県)  5世紀後半
・下芝谷ツ古墳(群馬県)   6世紀初頭
・横根・桜井積石塚古墳群(山梨県) 6世紀後半~7世紀
・大室古墳群(長野県)       5世紀~7世紀
・二本ケ谷積石塚群(静岡県)  5世紀後半~6世紀前半
・茶臼塚古墳群(大阪府)    4世紀
・石清尾山古墳群(香川県)   4世紀~5世紀
・野田院古墳(香川県)      3世紀後半 
・相島積石塚群(福岡県)     4世紀~7世紀
・見島ジーコンボ古墳群(山口県) 8世紀~9世紀
などが有名です。

<野田院古墳>
野田院古墳 
(香川県善通寺市HPより)

野田院古墳とは、
”3世紀後半につくられた全長44.5mの前方後円墳です。前方部は長さ23.5m×最大幅13m×高さ約1.6mで、盛り土をした後に表面に石を置き、後円部は直径21m×高さ約2mで石だけを積んでつくった「積石塚」になっています。
 平成9年(1997年)からの発掘調査では、それまで確認されていた堅穴式石室の他にもうひとつの石室が発見され、ガラス玉や鉄剣、土師器(はじき)などが出土、古墳の周囲からは壷形土器が数多く出土しました。こうした副葬品は弥生時代の特徴をもつもので、もっとも古い時代の古墳と考えられます。
 また、中世には野田院という山岳仏教寺院があったといわれています。”(香川県善通寺市HPより)

ご覧のとおり、前方後円墳の形状です。写真の右上部に、小さいながら前方にあたる張り出し部が確認できます。同じ型式の積石塚が、徳島県鳴門市の萩原墳墓群にあり、こちらは3世紀前葉の築造で国内最古の積石塚とされてます。前方後円墳の祖型として、注目されます。

日本各所にみられる積石塚ですが、伝播ルートとしては、朝鮮半島経由と、高麗から直接海路での2通り考えられます。両ルートの可能性もあるでしょう。

<伝播ルート>
積石塚伝播ルート

上の図で、赤丸(No.1)が紅山文化(遼河文明)です。ちなみにNo.2 が大汶口文化(だいぶんこうぶんか、黄河文明)、No.3が仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、黄河文明)、No.4が大渓文化(だいけいぶんか、長江文明)です。こうした位置関係をみると、遼河文明が黄河文明や長江文明に影響を及ぼしたという説も、よくわかります。

その遼河文明ですが、朝鮮半島、さらには日本に伝播して、縄文文化にも影響を及ぼしたと考えられてます。積石塚の伝播ルートも、それと同じルートになります。積石塚が伝播した時代は、弥生時代後期以降でしょうから時代は異なりますが、同じルートである点は注目ですね。

そして積石塚の積石が、日本では貼石に代わり、やがて葺石に変わっていった可能性があります。また東山嘴の祭壇の前円・後方、左右対称という思想が、日本の前方後円墳に取り入れられた可能性もあるでしょう。

↓ シリーズ第二弾を電子書籍でも出版しました。


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ベトナム系言語

青松様

「日本語の意外な歴史 第2話」が書き上がりましたので、ウェブ上に公開しました(https://drive.google.com/file/d/1Q543M6zMmDB0Cnyk4-UzuYJRVnB-wLu2/view)。お時間のある時に、ちらっと見ていただければ幸いです。

青松様のブログを拝見する限り、青松様はすでにかつて中国の東海岸地域でベトナム系の言語が話されていたことを十分に予想されていたと思いますが、私の研究もそれを裏付けています。

遼河文明の言語、黄河文明の言語、長江文明の言語という三つの有力な言語群が交わると、確かに複雑なことになりますね。

中国語を見て全く違うと感じた日本人が、日本語は北方の言語と関係があるのではないか、南方の言語と関係があるのではないか、あるいは北方の言語の要素と南方の言語の要素を併せ持っているのではないかと考えたのは、至極当然の成り行きでした。

しかし、そこから、北方の言語といえば朝鮮語、ツングース諸語、モンゴル語、テュルク諸語のことである、南方の言語といえばオーストロネシア語族(台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、オセアニアなどの言語から成る言語群)のことであるという固定観念ができてしまいました。そのあおりで、北方の「ウラル語族」と南方の「ベトナム系言語」は大して注目されないまま現在に至っており、これが日本語の歴史を明らかにできない主因になっています。

日本語の意外な歴史の第1話と第2話をご覧いただいて、青松様から「なかなかいいんじゃないですか」ぐらいの評価が頂けたら、このシリーズのブログ化および書籍化に関する計画を練り始めたいと思っています。

特に青松様の殷、周およびその前後の時代の記述は、私も楽しませていただいています。

Re: ベトナム系言語

金平さんへ

「日本語の意外な歴史 第2話」拝読しました。かなりタフな内容ですね。私は言語学についてまだ体系的に把握しておらず専門的知見も乏しいので、具体的には論評できませんが、いい内容ではないかと感じました。

古代史の視点からも、興味がもてます。
黄河文明、長江文明のみならず、遼河文明の影響を考察されたのは、いい視点ですね。

私としては、そうした言語がいつ、どのようなルートで入ってきたのか、が知りたいところです。それが拙著にもまとめた日本人の先祖が日本列島に入ってきた時期、ルートと同じなのか、といった点です。

遼河文明が日本列島にはいってきたのは想像できます。一方、ベトナム系言語が、いつどのようなルートで入ってきたのか、です。ベトナム系言語(オーストロ・アジア言語)の起源が長江下流域にあるなら、日本にもそこから伝わってきたことが推測されます。その時期は、渡来系弥生人がやってきた紀元前10~紀元後にかけての時期でしょうか。

また、私は、日本人の祖先の一派は、はるか昔の数万年前に東南アジア(スンダランド)からやってきたのではないか、との仮説を立ててます。一方最近の研究では、東南アジアからオーストリアに渡った人々(アポリジニ)との関連も指摘されてます。そのあたりの言語との関連は、残っていないのでしょうか?

ウラル語、インドヨーロッパ語と遼河文明との関係も、興味深いです。関係するとなると、どちらが故地なのでしょうか?。

以上いろいろ書きましたが、参考にしていただければ幸いです。ご健闘を祈念しております。


プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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