古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?
さてここ数回にわたり、前方後円墳について、客観的データを基にした分析をしてきました。その結果わかったことは、「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という私たちの認識と大きく異なるものでした。
そうなると、そもそも「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という前提自体、「?」ということになります。今回は、この点をみていきましょう。
これまで「前方後円墳が、大和王権の全国支配の象徴である」という表現を使ってきましたが、難しい表現をすると、「前方後円墳体制」と呼ばれます。この言葉は、都出比呂志氏(大阪大学名誉教授)が提唱しました。
”奈良県桜井市の箸墓古墳をはじめとする定型化した前方後円墳の造営をもって古墳時代の始まりとし、古墳時代は、その当初からすでに国家段階に達していたとして、葬制の定型化にみられるような一元化された政治秩序を前方後円墳体制と呼ぶべきだ”としました。
その後多くの方が使っており、たとえば
広瀬和雄氏(国立歴史民俗 博物館考古研究系教授)は、
”日本列島各地に展開した前方後円墳の特質として「見せる王権」としての可視性、形状における斉一性、そして、墳丘規模に顕現する階層性の3点を掲げ、前方後円墳を、大和政権を中心とした首長層ネットワークすなわち「前方後円墳国家」と呼ぶべき国家の表象である”
としてます。(以上Wikipediaより)
小難しい表現ですが、いずれにしろ「大和王権による全国支配」が前提であり、その「象徴的存在である」点は、同じとみていいでしょう。
もう少しかみくだいていうと、たとえば
・大和王権が、地方豪族に対して築造を命じて、支配の象徴とした。
あるいは
・地方の豪族が、大和王権に服属の証として、自らの意志で築造した。
といったところでしょうか。
さてそれでは、「前方後円墳体制」が成立しているとみなすのには、どのような要件が考えられるでしょうか?
「前方後円墳体制が成立していたことを立証するための要件」ということです。
以下のものが考えられます。
1.数、分布
大和王権が中心であるということは、当然大和を中心に分布しており、数も畿内が圧倒的に多いはずである。
2.築造の時代推移
大和王権が日本において築造の先導的であり、したがって大和王権が最も早く築造を開始して、その動きが同心円上に地方に伝わり、大和王権による築造中止とともに、地方も次第に築造を中止しているはずある。
3.祖型
当然のことながら、最古の前方後円墳は大和にあり、その祖型も大和にあるはずである。
4.規模
前方後円墳が支配・権威の象徴であるからには、大和王権築造の前方後円墳,特に天皇陵を上回る築造は、認められないはずである。同時代築造においては、なおさらありえないはずである。
いかがでしょうか。「前方後円墳体制」というと、常識的に考えて、このようなことが当然のこととして思い浮かぶのではないでしょうか?。
では実際のデータでみていきます。
1.数、分布
すでにお話ししたとおり、前方後円墳の築造数は、東国が多く、千葉・茨城・群馬県で上位3番を占めます。4位に奈良県が入りますが、以下5位福岡県、6位鳥取県で、7位に大阪府、8位岡山県となります。
つまり、数、分布からみると、前方後円墳体制成立要件「数、分布は畿内が圧倒的に多い」は満たしていません。
2.築造の時代推移
では、次に「前方後円墳の築造は畿内で始まり、同心円状に広がり、同心円状に終焉する」は、満たしているでしょうか?
既にお話ししたとおり、東日本では、畿内で築造終息に向かった後期に、築造が大幅に増えています。
また、西日本においても、九州北部においては、後期に大型前方後円墳が築造されています。特に、岩戸山古墳(福岡県八女市)は、九州北部で最大の古墳です。
以上より、「前方後円墳の築造は畿内で始まり、同心円状に広がり、同心円状に終焉する」という要件は、満たしていません。
3.祖型
前方後円墳の祖型とされる「陸橋付円形周溝墓」の最古は、紀元前1世紀築造とされる四国の名東(みょうどう)遺跡です。「陸橋付方形周溝墓」になると、播磨の東武庫遺跡が、なんと紀元前5世紀にさかのぼります。九州北部でも、三雲南小路王墓が、紀元前1世紀とされてます。
以上より、祖型の最古は、大和にはありません。
なお、最古の前方後円墳についてはよくわかっていませんが、纏向石塚古墳(大和)の他にも、権権塚古墳(福岡県糸島市)、萩原2号墳(香川県)などもあり、どれが最古かはわかっていません。
4.規模
1,2,3とどれも成り立っていないとなると、いよいよ最後の砦です。「そんなことを言ったって、大仙陵、誉田御廟山古墳があるじゃないか。あれを大和王権が作ったということは、日本を支配した何よりの証拠だ。」、というわけです。
ではみていきましょう。
まず大仙陵、誉田御廟山古墳が、本当に、仁徳天皇陵、応神天皇陵なのか?、という問題があります。多くの学者から疑問を呈されてはいますが、それだけで一大テーマとなってしまいますので、ここではあえて触れません。真実の解明は、内部の発掘調査を待つしかないでしょう。
今回は、別の切り口でみます。
天皇陵が真実であるなら、少なくとも同時代の墳墓は、それより小規模であるはずです。そうでなければ、支配の象徴になりません。
下図は、古墳時代中期の前方後円墳を規模の大きいもの順に並べたものです。上が宮内庁比定の天皇陵、下が皇室関係を除いた(一般または被葬者不明)陵です。宮内庁比定の天皇陵のうち、明らかに真陵ではないとされているものは、除いてます。
ご覧のとおり、古墳時代中期の前方後円墳でみれば、確かに仁徳天皇陵(大仙陵)、応神天皇陵(誉田御陵山古墳)の大きさは突出してます。ところが、次の反正天皇陵になると、急激に小さくなり、清寧天皇陵にいたっては、115mに過ぎません。一方、下の一般の前方後円墳は、造山古墳360m、岡山県)を筆頭に、200mを超える大規模なものが5基もあります。さらに、清寧天皇陵を超えるものは、グラフのなかだけでも10基にものぼります。
この傾向は、後期になると、さらに著しくなります。
天皇陵が前方後円墳であったのは、30代の敏達天皇陵までであり、以後は方墳、八角墳などに変わっていきます。天皇陵の前方後円墳として最後と言える敏達天皇陵は93mであり、かなり小型化してます。一方、一般の前方後円墳は、断夫山古墳(愛知、151m)を始め大型古墳が多く築造されており、敏達天皇陵の大きさを上回る古墳は、このグラフだけでも、6基もあります。実際には、敏達天皇陵を上回る前方後円墳は、さらに多く全国に分布しています。
以上のとおりみてくると、「前方後円墳体制」があったことを立証する要件1・2・3・4は、一つも成立していないことがわかりました。
このことは何を意味するのでしょうか?。
それは言うまでもなく、”「前方後円墳体制」なるものはなかったのではないか?”、ということに他なりません。
これまで歴史の教科書で習ってきたことと正反対の結論なので、受け入れがたい、と感じられた方も多いかもしれません。しかしながら、純粋に古墳のデータだけみると、このような結論にならざるをえないわけです。
それは、前回紹介した「王朝交代説」~”畿内の王朝は大和王権のみがあって他地域の豪族を支配していたのではなく、いくつかの地域の豪族がかわるがわる支配した”~にも通じる考え方です。考古学的成果からみても、王朝交代説を支持する要素は多々あることは、お話ししました。
最後に、「前方後円墳体制」はなかったとする説を提唱する専門家の一人、藤田憲司氏(前大阪近つ飛鳥博物館長)の論文からです。
”巨大前方後円墳の築造が続いた約350年間の当初から「全土的」に一体的な体制が成立したという想定は、多くの問題点を抱えており、同意できない。「古墳時代」中期までは各地に大きな前方後円墳を築く権力構造が成立しており、「近畿中央部の首長と地方の首長との間にあったのはせいぜい同盟的な関係であったろう」(白石2002)という指摘は一つの指標になると思う。”(「日本前方後円墳時代研究課題」より)
さて皆さんは、どのように考えられるでしょうか?
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