古墳は語る(17)~天皇陵と宮の関係からわかること
前回は、古代天皇陵を一通り整理しました。そこからわかることは、古代天皇陵は代が代わるごとに激しく移動しているということでした。そしてその理由は何か?、というところまででした。
理由としては一般的には、
”古代は天皇陵に定められた場所があったということではなく、天皇が宮を置いたところなどにより定められたのだ。、宮も天皇ごとに移動しているから、天皇陵も移動しているのだ。”
といった説明がされます。
では天皇陵と宮の位置についてみていきましょう。
下の図は、古代天皇陵と宮の所在地をまとめた表です。天皇の宮と陵が同じ府県にあるものを、だいだい色で網掛けしました。
見づらくて恐縮ですが、10代崇神天皇から12代景行天皇までは、宮が奈良県桜井市、宮は奈良県天理市→奈良市→天理市と移動はするものの、同じ奈良県内です。ところが、13代の成務天皇は滋賀県大津市、14代仲哀天皇は最後は福岡県福岡市であり、陵(それぞれ奈良県、大阪府)とは全く別です。
次の神功皇后は最終宮は奈良県桜井市で、陵は奈良県奈良市で一致します。ところが15代の応神天皇の宮は奈良県橿原市に対して、陵は誉田御陵山古墳(大阪府)で一致しません。16代の仁徳天皇の宮は難波高津宮(大阪府)で陵も大仙陵(大阪府)と一致します。
以下17代履中天皇から25代武烈天皇まで、宮は18代(反正天皇)を除いて奈良県、陵は奈良県と大阪府を移動します。
特徴的なのは26代の継体天皇です。最終宮は奈良県桜井市ですが、陵はなんと大阪府北部の茨木市(三島野古墳群)と大きく飛びます。これは継体天皇の出身地が北陸であり、宮も当初大阪府枚方市(河内樟葉宮)にあったことが影響していると考えられます。ちなみに三島野古墳群にある天皇陵は、継体天皇陵だけです。
27代安閑天皇から35代皇極天皇まで宮は奈良県と安定しますが、陵は大阪府と奈良県をいったりきたりです。
36代孝徳天皇の宮が難波長柄豊碕宮 (難波宮)です。通説で、大阪府大阪市中央区法円坂とされてますが、よくわかっていません。陵は大阪府です。
37代の斉明天皇は、皇極天皇の重 (同一人物)で、最終宮は福岡県朝倉市です。これは唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いのためとされてます。陵は、奈良県です。
38代天智天皇の最終宮は近江大津京(滋賀県大津市)で、陵は京都府にあります。39代の弘文天皇の宮は天智天皇と同じで、陵は滋賀県大津市です。
40代天武天皇の宮は飛鳥浄御原(奈良県明日香村)で、陵も明日香村、41代の持統天皇から藤原京(奈良県橿原市)で陵は天武天皇と同じ明日香村です。42代の文武天皇の宮も藤原京、陵も明日香村です。つまり天武天皇から、宮と陵が一致してます。
以上みてきたとおり、天皇宮と天皇陵は、多くが同じ府県にありません。10代から42代の32天皇のうち、没時の宮と陵が同じ府県にないのは、15代であり、実に47%にものぼります。なお奈良県内に宮と陵があれば、すべて一致としてますが、実際には、大和北部の佐紀古墳群と南部の大和・柳本古墳群、西の馬見古墳群、さらに明日香村・橿原市周辺とは距離が離れ、別系統との見方があります。そうしたことも考慮に入れると、没時の宮と陵が一致していないとみなされるものは、さらに多くなり、一致しているものは、数えるほどしかないことになります。
もちろんこのなかには、熊襲征伐で九州に行き、そこで亡くなった仲哀天皇や、大阪府に宮があった継体天皇や、白村江の戦いで九州にいっていた斉明天皇など、特殊事情もあります。それを差し引いても、統計的にみれば、とてもではありませんが「天皇の没時の宮と陵は同じ地域である」とは言えません。
ここで話を整理します。
テーマは、天皇陵が代を替わるごとに大きく移動するのはなぜか?、です。
通説では、”当時は天皇が代わるたびに宮を移したのだから、それに合わせて陵も代ごとに移動したのだ。”という説明がされてます。ところが、上にみてきたとおり、その説は成り立っていないことがわかります。
では本当の理由は、何なのでしょうか?
可能性として、
1.天皇の宮と陵の位置比定が違っている。
2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。
などが、考えられます。
では分析してみましょう。
1.天皇の宮と陵の位置比定が間違っている。
この可能性は高いでしょう。実際、陵のみならず宮の位置にしても、多くの説が出されており、確定してません。それは、遺跡の発掘がされていないことも大きな要因であり、致し方ないところではあります。ただ、古事記、日本書記の記載から、おおむねの位置は推定されているわけですから、古事記、日本書記の記載は信用ならない、となってしまいます。
2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
この可能性も考えられなくもありませんが、そんな気まぐれのように陵の位置を移動させるものでしょうか?。祖霊信仰というものは、現代にくらべてはるかに大きかったと想像されます。そうであれば、なおさら、先祖が代々住んでいたとか、代々の陵があったとかの場所に陵を定めるのが、自然な考え方だと思われます。
なお宮にしても、すでにそこに都市機能があり、多くの人々が住んでいるわけで、それを天皇が代わるたびに、今まで住んでいた都市を捨てて、これほど激しく移動するものなのか、という疑問はあります。このあたりも興味深いところですね。
3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
これもありえそうな説ですね。当時は女系社会であったとの説もあり、そうなると天皇といえども、奥さんの実家に気を遣わなくてはならなかったはずです。なんだか、いつも奥さんの顔色をうかがっている肩身の狭い婿養子のようです。天皇としての威厳が、感じられませんね。
実際、佐紀古墳群は、和邇(わに)氏ならびに息長(おきなが)氏との関連が指摘されてます。大和・柳本古墳群近くには石上神社があり、物部氏の勢力範囲です。馬見古墳群は、葛城氏の勢力範囲です。こうした豪族の後ろ盾のもとに、大和王権が成り立っていたという説です。
たびたび引用させていただいている「前方後円墳の理解」(白井久美子)では、もう少し踏み込んだ表現をしています。
”百舌鳥・古市・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。”
とあります。
これだけ読むと、(大和)王権は、一つの系譜として継承されていたわけではないことを示唆している表現ですね。
4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。
これは、3の説(特に白井氏説)をさらに発展させたものでもあります。‘各天皇の宮と陵がこれだけ移動しており、またそこに関連性が見出せないのだから、大和王権が存在した証拠とならない。”ということです。
何の制約もなく古代天皇の宮と陵を見たとき、”バラバラであるのだから、それぞれに明確な関連性はない”、と考えれば、一番すっきり解釈できるわけです。
具体的にどういうことかと言えば、”畿内においては、各地域の豪族が興亡を繰り返していたのであり、それをあたかも一つの系譜としてつながっているように、古事記、日本書記が作文した。大和王権は、それらのうちの一つにすぎなかった、すなわちone of them に過ぎなかった。”という考え方です。
これだけ読むと、なんてへんなことを書くのだ、と思われた方も多いでしょう。ところが、古事記、日本書記を読めば、明らかに系譜が断絶していると考えられる箇所が、いくつも出てきます。また記載されている系譜自体、多くの矛盾があることは、多くの論者が指摘しているところです。
かつて学会においても「王朝交代説」として提唱されてます。
たとえば水野祐氏(早稲田大学名誉教授)は
・崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
・応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
・継体王朝(近江王朝)
の3つの王朝があったとしてます。
また岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)は、
・河内王朝
・播磨王朝
・越前王朝
・日本建国王朝(舒明天皇以降)
を挙げてます。
また鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)は、葛城王朝説を唱えたことで有名です。
これらの説は、主として文献を中心とした研究から導かれましたが、今回の古墳という考古学的視点からみた結論と似たようなものになってます。これは果たして偶然でしょうか?。
↓ シリーズ第一弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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理由としては一般的には、
”古代は天皇陵に定められた場所があったということではなく、天皇が宮を置いたところなどにより定められたのだ。、宮も天皇ごとに移動しているから、天皇陵も移動しているのだ。”
といった説明がされます。
では天皇陵と宮の位置についてみていきましょう。
下の図は、古代天皇陵と宮の所在地をまとめた表です。天皇の宮と陵が同じ府県にあるものを、だいだい色で網掛けしました。


見づらくて恐縮ですが、10代崇神天皇から12代景行天皇までは、宮が奈良県桜井市、宮は奈良県天理市→奈良市→天理市と移動はするものの、同じ奈良県内です。ところが、13代の成務天皇は滋賀県大津市、14代仲哀天皇は最後は福岡県福岡市であり、陵(それぞれ奈良県、大阪府)とは全く別です。
次の神功皇后は最終宮は奈良県桜井市で、陵は奈良県奈良市で一致します。ところが15代の応神天皇の宮は奈良県橿原市に対して、陵は誉田御陵山古墳(大阪府)で一致しません。16代の仁徳天皇の宮は難波高津宮(大阪府)で陵も大仙陵(大阪府)と一致します。
以下17代履中天皇から25代武烈天皇まで、宮は18代(反正天皇)を除いて奈良県、陵は奈良県と大阪府を移動します。
特徴的なのは26代の継体天皇です。最終宮は奈良県桜井市ですが、陵はなんと大阪府北部の茨木市(三島野古墳群)と大きく飛びます。これは継体天皇の出身地が北陸であり、宮も当初大阪府枚方市(河内樟葉宮)にあったことが影響していると考えられます。ちなみに三島野古墳群にある天皇陵は、継体天皇陵だけです。
27代安閑天皇から35代皇極天皇まで宮は奈良県と安定しますが、陵は大阪府と奈良県をいったりきたりです。
36代孝徳天皇の宮が難波長柄豊碕宮 (難波宮)です。通説で、大阪府大阪市中央区法円坂とされてますが、よくわかっていません。陵は大阪府です。
37代の斉明天皇は、皇極天皇の重 (同一人物)で、最終宮は福岡県朝倉市です。これは唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いのためとされてます。陵は、奈良県です。
38代天智天皇の最終宮は近江大津京(滋賀県大津市)で、陵は京都府にあります。39代の弘文天皇の宮は天智天皇と同じで、陵は滋賀県大津市です。
40代天武天皇の宮は飛鳥浄御原(奈良県明日香村)で、陵も明日香村、41代の持統天皇から藤原京(奈良県橿原市)で陵は天武天皇と同じ明日香村です。42代の文武天皇の宮も藤原京、陵も明日香村です。つまり天武天皇から、宮と陵が一致してます。
以上みてきたとおり、天皇宮と天皇陵は、多くが同じ府県にありません。10代から42代の32天皇のうち、没時の宮と陵が同じ府県にないのは、15代であり、実に47%にものぼります。なお奈良県内に宮と陵があれば、すべて一致としてますが、実際には、大和北部の佐紀古墳群と南部の大和・柳本古墳群、西の馬見古墳群、さらに明日香村・橿原市周辺とは距離が離れ、別系統との見方があります。そうしたことも考慮に入れると、没時の宮と陵が一致していないとみなされるものは、さらに多くなり、一致しているものは、数えるほどしかないことになります。
もちろんこのなかには、熊襲征伐で九州に行き、そこで亡くなった仲哀天皇や、大阪府に宮があった継体天皇や、白村江の戦いで九州にいっていた斉明天皇など、特殊事情もあります。それを差し引いても、統計的にみれば、とてもではありませんが「天皇の没時の宮と陵は同じ地域である」とは言えません。
ここで話を整理します。
テーマは、天皇陵が代を替わるごとに大きく移動するのはなぜか?、です。
通説では、”当時は天皇が代わるたびに宮を移したのだから、それに合わせて陵も代ごとに移動したのだ。”という説明がされてます。ところが、上にみてきたとおり、その説は成り立っていないことがわかります。
では本当の理由は、何なのでしょうか?
可能性として、
1.天皇の宮と陵の位置比定が違っている。
2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。
などが、考えられます。
では分析してみましょう。
1.天皇の宮と陵の位置比定が間違っている。
この可能性は高いでしょう。実際、陵のみならず宮の位置にしても、多くの説が出されており、確定してません。それは、遺跡の発掘がされていないことも大きな要因であり、致し方ないところではあります。ただ、古事記、日本書記の記載から、おおむねの位置は推定されているわけですから、古事記、日本書記の記載は信用ならない、となってしまいます。
2.法則性はない。その時々で決定した(例として神のお告げや風水の占いなどによる)。
この可能性も考えられなくもありませんが、そんな気まぐれのように陵の位置を移動させるものでしょうか?。祖霊信仰というものは、現代にくらべてはるかに大きかったと想像されます。そうであれば、なおさら、先祖が代々住んでいたとか、代々の陵があったとかの場所に陵を定めるのが、自然な考え方だと思われます。
なお宮にしても、すでにそこに都市機能があり、多くの人々が住んでいるわけで、それを天皇が代わるたびに、今まで住んでいた都市を捨てて、これほど激しく移動するものなのか、という疑問はあります。このあたりも興味深いところですね。
3.天皇を支えた豪族の拠点の近くに築造した。各豪族から天皇を輩出した。
これもありえそうな説ですね。当時は女系社会であったとの説もあり、そうなると天皇といえども、奥さんの実家に気を遣わなくてはならなかったはずです。なんだか、いつも奥さんの顔色をうかがっている肩身の狭い婿養子のようです。天皇としての威厳が、感じられませんね。
実際、佐紀古墳群は、和邇(わに)氏ならびに息長(おきなが)氏との関連が指摘されてます。大和・柳本古墳群近くには石上神社があり、物部氏の勢力範囲です。馬見古墳群は、葛城氏の勢力範囲です。こうした豪族の後ろ盾のもとに、大和王権が成り立っていたという説です。
たびたび引用させていただいている「前方後円墳の理解」(白井久美子)では、もう少し踏み込んだ表現をしています。
”百舌鳥・古市・佐紀から交互に輩出される王陵の動向を見ると、王権が特定の一族に限られていたわけではなく、中枢域の複数の勢力が政権を担っていた状況がわかる。”
とあります。
これだけ読むと、(大和)王権は、一つの系譜として継承されていたわけではないことを示唆している表現ですね。
4.そもそも大和王権なるものはなく、各地の豪族の事績をとりこんで系譜としてつなげただけだ。
これは、3の説(特に白井氏説)をさらに発展させたものでもあります。‘各天皇の宮と陵がこれだけ移動しており、またそこに関連性が見出せないのだから、大和王権が存在した証拠とならない。”ということです。
何の制約もなく古代天皇の宮と陵を見たとき、”バラバラであるのだから、それぞれに明確な関連性はない”、と考えれば、一番すっきり解釈できるわけです。
具体的にどういうことかと言えば、”畿内においては、各地域の豪族が興亡を繰り返していたのであり、それをあたかも一つの系譜としてつながっているように、古事記、日本書記が作文した。大和王権は、それらのうちの一つにすぎなかった、すなわちone of them に過ぎなかった。”という考え方です。
これだけ読むと、なんてへんなことを書くのだ、と思われた方も多いでしょう。ところが、古事記、日本書記を読めば、明らかに系譜が断絶していると考えられる箇所が、いくつも出てきます。また記載されている系譜自体、多くの矛盾があることは、多くの論者が指摘しているところです。
かつて学会においても「王朝交代説」として提唱されてます。
たとえば水野祐氏(早稲田大学名誉教授)は
・崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝)
・応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
・継体王朝(近江王朝)
の3つの王朝があったとしてます。
また岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)は、
・河内王朝
・播磨王朝
・越前王朝
・日本建国王朝(舒明天皇以降)
を挙げてます。
また鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)は、葛城王朝説を唱えたことで有名です。
これらの説は、主として文献を中心とした研究から導かれましたが、今回の古墳という考古学的視点からみた結論と似たようなものになってます。これは果たして偶然でしょうか?。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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