古墳は語る(21)~卑弥呼の真の墓はどこにある?
前回、科学的見地からみて、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」は成り立たない、ということがわかりました。
では、本当の「卑弥呼の墓」は、どこにあるのでしょうか?。
今一度、条件を確認しましょう。
1.築造年代 3世紀中頃
2.形状 円墳または前方後円墳
3.規模 30~35m程度
4.内部構造 棺はあるが槨(棺の周囲を覆うもの)はない
5.副葬品等 三種の神器(鏡・玉・剣)、絹などが出土するのが望ましい
前回は5を入れてませんでしたが、真実の墓を探す際には、あれば望ましいという意味で加えました。
卑弥呼の墓といわれている墓は、全国各地にあります。そのすべてを検証することはできないので、主な古墳をみていきます。
a.楯築弥生墳丘墓
吉備(岡山県倉敷市)にある弥生時代最大の墳丘墓です。双方中円形という独特の形をしていることで知られてます。墳丘上には大正時代まで楯築神社があり、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文様が刻まれた石が安置されていました。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれてます。吉備津彦命(7代孝霊天皇皇子)が温羅(古代の鬼)との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わってます。
卑弥呼の墓と言われている墓は、他にも全国各地に多々ありますが、きりがないので、あとはこの条件に照らし合わせて、皆さんに考えていただければと思います。この条件を満たす古墳は、なかなか見当たらないのがわかると思います。
私は、邪馬台国は九州北部にあったと考えてますので、ここからは、九州北部の候補地をみていきます。
b.平原1号墳
福岡県糸島市にあります。日本最大の直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡をはじめ、豪華な副葬品が出たことでも知られてます。管玉、勾玉、耳璫(耳飾)なども副葬されており、女王の墓とみられます。邪馬台国甘木・朝倉説の、安本美典氏(元産業能率大学教授)が提唱してます。
(Wikipediaより)
(伊都国歴史博物館「常設展示展図録」より)
c.須玖岡本遺跡(D地点)
福岡県春日市にある、巨石下甕棺墓です。三種の神器(剣・鏡・玉)や絹の出土など、豪華な出土品がありました。明治期に発見されたもので、今現在、遺物は散逸していて、正確な内容は不明です。古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が提唱しました。三種の神器や絹の出土など、王の墓にふさわしいといえますが、副葬品に武器が多く、男の王の墓ともみられます。また築造時期が、一般的には、紀元前1世紀頃とされており、卑弥呼の時代より3世紀ほど古いとされてます。ただし、古田氏によると、出土した夔鳳(きほう)鏡)からみて3世紀前半が上限としてます。
(筆者撮影)
d.祇園山古墳
福岡県久留米市にあります。九州自動車道建設の折に調査され、市民運動により、かろうじて8割ほどが保存されました。
(御井町誌HPより)
e.津古生掛(つこしょうがけ)古墳
福岡県小郡市で、昭和60年に住宅地造成により、発見されました。そのため現在は、消滅してます。歴史家の佃収氏(東アジアの古代文化を考える会会員)が提唱してます。
(小郡市埋蔵文化材調査センターHP「古代体験館おごおり」より)
f.那珂八幡古墳
福岡県福岡市博多区にある古墳です。那珂八幡社の下にあるため、主体部の調査はされていなません。絹の出土もあります。出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品などが注目されます。榊原英夫氏(福岡県糸島市立伊都国歴史博物館館長)が提唱してます。

(Wikipediaより)
詳細を表で整理しました。
まず、前回お話したとおり、箸墓古墳は、規模が大きすぎるうえ、槨(棺を覆うもの)があることが推定されますので、条件を満たしません。
・楯築墳丘墓は、時期が古く、大きさが過大です。
・平原1号墳は、豪華な副葬品があり、女王の墓と推定されるのでふさわしいのですが、時期がやや古いこと、方墳であること、規模が小さすぎることなどがネックです。
・須玖岡本遺跡は、時期が紀元前1世紀とされてます。3世紀中頃との見解もありますが、何とも言えません。豪華な副葬品があり、絹の出土もあるのですが、男王の墓とも考えられており、そのあたりがネックです。
・祇園山古墳は、方墳であり、規模がやや小さいです。
・津古生掛古墳は、比較的よく条件を満たしていますが、時期がやや新しいとみられるのが難です。
・那珂八幡古墳は、2号主体から絹の出土もあるなど、ふさわしいのですが、規模がやや過大です。
ところで、卑弥呼の墓は、当然のことながら、邪馬台国の領域内または周辺にあったことでしょう。邪馬台国の位置については、以前
出土物からみても邪馬台国はここだ!
でお話ししたとおり、九州福岡県の博多湾岸にあったと推定してます。
(なお、その後の研究成果より、邪馬台国、伊都国がもう少し広い可能性も考えられるため、下図はそれを反映したものになってます。)
この地図をみてのとおり、邪馬台国中心領域に、須玖岡本遺跡、那珂八幡古墳があり、やや離れたところに津古生掛古墳、周辺西に平原1号墳があります。ですからこの4つは、可能性があると言えます。なお祇園山古墳は、さらにずっと南にあります。
以上まとめますと、候補地としては九州北部にも数多くあります。ただし、どれも条件を完璧に満たしているとは言いがたい状況です。このなかのどれか一つなのか、それとも別にあるのか、あるいはまだ発見されておらず、土の中に眠っているのか、わかりません。遠い昔に、破壊されてしまった可能性もあります。
ただし、邪馬台国のあった地域内あるいは周辺にあったことは間違いありません。つまり、上の図のエリアにあった可能性が高いでしょう。
↓ シリーズ第一弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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では、本当の「卑弥呼の墓」は、どこにあるのでしょうか?。
今一度、条件を確認しましょう。
1.築造年代 3世紀中頃
2.形状 円墳または前方後円墳
3.規模 30~35m程度
4.内部構造 棺はあるが槨(棺の周囲を覆うもの)はない
5.副葬品等 三種の神器(鏡・玉・剣)、絹などが出土するのが望ましい
前回は5を入れてませんでしたが、真実の墓を探す際には、あれば望ましいという意味で加えました。
卑弥呼の墓といわれている墓は、全国各地にあります。そのすべてを検証することはできないので、主な古墳をみていきます。
a.楯築弥生墳丘墓
吉備(岡山県倉敷市)にある弥生時代最大の墳丘墓です。双方中円形という独特の形をしていることで知られてます。墳丘上には大正時代まで楯築神社があり、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文様が刻まれた石が安置されていました。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれてます。吉備津彦命(7代孝霊天皇皇子)が温羅(古代の鬼)との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わってます。

卑弥呼の墓と言われている墓は、他にも全国各地に多々ありますが、きりがないので、あとはこの条件に照らし合わせて、皆さんに考えていただければと思います。この条件を満たす古墳は、なかなか見当たらないのがわかると思います。
私は、邪馬台国は九州北部にあったと考えてますので、ここからは、九州北部の候補地をみていきます。
b.平原1号墳
福岡県糸島市にあります。日本最大の直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡をはじめ、豪華な副葬品が出たことでも知られてます。管玉、勾玉、耳璫(耳飾)なども副葬されており、女王の墓とみられます。邪馬台国甘木・朝倉説の、安本美典氏(元産業能率大学教授)が提唱してます。


(伊都国歴史博物館「常設展示展図録」より)
c.須玖岡本遺跡(D地点)
福岡県春日市にある、巨石下甕棺墓です。三種の神器(剣・鏡・玉)や絹の出土など、豪華な出土品がありました。明治期に発見されたもので、今現在、遺物は散逸していて、正確な内容は不明です。古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が提唱しました。三種の神器や絹の出土など、王の墓にふさわしいといえますが、副葬品に武器が多く、男の王の墓ともみられます。また築造時期が、一般的には、紀元前1世紀頃とされており、卑弥呼の時代より3世紀ほど古いとされてます。ただし、古田氏によると、出土した夔鳳(きほう)鏡)からみて3世紀前半が上限としてます。


(筆者撮影)
d.祇園山古墳
福岡県久留米市にあります。九州自動車道建設の折に調査され、市民運動により、かろうじて8割ほどが保存されました。

(御井町誌HPより)
e.津古生掛(つこしょうがけ)古墳
福岡県小郡市で、昭和60年に住宅地造成により、発見されました。そのため現在は、消滅してます。歴史家の佃収氏(東アジアの古代文化を考える会会員)が提唱してます。

(小郡市埋蔵文化材調査センターHP「古代体験館おごおり」より)
f.那珂八幡古墳
福岡県福岡市博多区にある古墳です。那珂八幡社の下にあるため、主体部の調査はされていなません。絹の出土もあります。出土した三角縁神獣鏡の同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品などが注目されます。榊原英夫氏(福岡県糸島市立伊都国歴史博物館館長)が提唱してます。

(Wikipediaより)
詳細を表で整理しました。

まず、前回お話したとおり、箸墓古墳は、規模が大きすぎるうえ、槨(棺を覆うもの)があることが推定されますので、条件を満たしません。
・楯築墳丘墓は、時期が古く、大きさが過大です。
・平原1号墳は、豪華な副葬品があり、女王の墓と推定されるのでふさわしいのですが、時期がやや古いこと、方墳であること、規模が小さすぎることなどがネックです。
・須玖岡本遺跡は、時期が紀元前1世紀とされてます。3世紀中頃との見解もありますが、何とも言えません。豪華な副葬品があり、絹の出土もあるのですが、男王の墓とも考えられており、そのあたりがネックです。
・祇園山古墳は、方墳であり、規模がやや小さいです。
・津古生掛古墳は、比較的よく条件を満たしていますが、時期がやや新しいとみられるのが難です。
・那珂八幡古墳は、2号主体から絹の出土もあるなど、ふさわしいのですが、規模がやや過大です。
ところで、卑弥呼の墓は、当然のことながら、邪馬台国の領域内または周辺にあったことでしょう。邪馬台国の位置については、以前
出土物からみても邪馬台国はここだ!
でお話ししたとおり、九州福岡県の博多湾岸にあったと推定してます。
(なお、その後の研究成果より、邪馬台国、伊都国がもう少し広い可能性も考えられるため、下図はそれを反映したものになってます。)
この地図をみてのとおり、邪馬台国中心領域に、須玖岡本遺跡、那珂八幡古墳があり、やや離れたところに津古生掛古墳、周辺西に平原1号墳があります。ですからこの4つは、可能性があると言えます。なお祇園山古墳は、さらにずっと南にあります。

以上まとめますと、候補地としては九州北部にも数多くあります。ただし、どれも条件を完璧に満たしているとは言いがたい状況です。このなかのどれか一つなのか、それとも別にあるのか、あるいはまだ発見されておらず、土の中に眠っているのか、わかりません。遠い昔に、破壊されてしまった可能性もあります。
ただし、邪馬台国のあった地域内あるいは周辺にあったことは間違いありません。つまり、上の図のエリアにあった可能性が高いでしょう。
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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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