古墳は語る(20)~箸墓(はしはか)古墳が「卑弥呼の墓」になりえないこれだけの理由②
前回、「箸墓古墳の被葬者と比定されている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は、伝承の内容からみても、時代的に見ても卑弥呼ではないことをお話しました。
今回は、実際の箸墓古墳を、卑弥呼の墓の条件と照らし合わせて、科学的に検証します。
検証の視点として、以下を挙げます。
1.築造時期
2.形状
3.規模
4.内部構造
では順にみていきます。
1.築造時期の一致
魏志倭人伝によれば、卑弥呼の没年は3世紀半ばです。一方の「箸墓古墳」は、従来は3世紀末~4世紀初頭とされていましたが、最近では少しさかのぼり3世紀半ば~3世紀後半とされてます。無理やりさかのぼらせたのではないか、との疑いもないわけではありませんが、ここではぎりぎりでセーフとしておきます。
2.形状
魏志倭人伝には、具体的な形状は記載してませんが、
・大作冢・・・土を小高く盛り上げて造った墓を大いに作った
・徑百餘歩・・・直径が百歩あまり
とありますから、さほど大きくない盛り土のある円墳ということになります。「箸墓古墳」は前方後円墳ですが、後円部を主丘とみれば、これもぎりぎりのセーフといったところです。
3.規模
ここが大きな議論の分かれ目です。従来の解釈ですと、
1歩=約1.3m
したがって、
100余歩=約150m
となり、「箸墓古墳」の後円部の直径150mとほぼ合っているとしてます。
一方、当時は、1里=約75mの短里でしたから、
1歩=約25cm
したがって、
100余歩=約30~35m
となることは、前回お話しました。となると、「箸墓古墳」の後円部の直径150mと合いません。
4.内部構造
箸墓古墳は内部調査されていないので、詳細は不明ですが、ほぼ同じ時期に築造されたと推定される「中山大塚古墳」「桜井茶臼山古墳」は、槨(かく、棺の周囲を覆うもの)がありますので、箸墓古墳にも槨(竪穴式石槨)があると推測されます。(「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東)より)
一方、魏志倭人伝には、当時の一般的な墓について、「槨なし」と記載してますから、卑弥呼の墓にも槨はなかったと推定されます。
槨についてはわかりにくいので、少し解説します。
まず竪穴式石室ですが、
”発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。竪穴式石室に割竹形木棺を埋葬する方法は、3世紀代から4世紀代にかけて流行した。
その基本構造は、割竹形木棺を墓壙の底に安置したあと、棺に接する部分に板状の石を重ねていき、棺と板石の間に角礫を隙間なく詰め込んで、最後に大きな蓋石をかぶせる。木棺を置く場所にあらかじめ粘土を敷いたり、墓壙の床全面に砂利を敷いたりしている。墓壙内に浸透してきた雨水を排水するための暗渠排水施設を設けている石室もある。 木棺と石で築いた壁のあいだに空間があまりないので、これを石室ではなく外側の棺と解釈して竪穴式石槨と表記する場合も多い。 4世紀半ばから簡略化された粘土槨が普及する。この場合も、木棺を覆う空間を残さず、直接木棺を棺床の粘土と同じ粘土で包み込んだ後、墓壙を埋める。その被覆粘土は、棒状の道具で念入りに叩き締められている。”(Wikipediaより)
ようは、竪穴式石室といっても、はじめに石室のような部屋を作るわけではなく、棺の周囲に板状の石を重ねて、最後に蓋石をかぶせるので、あたかも部屋のように見える、ということです。その点、はじめに部屋をきちんと作り、あとで棺を納める横穴式石室とは異なるということです。そして、この積み重ねた石を「石槨」とも呼ぶわけです。
解説が長くなりましたが、卑弥呼の墓には「槨」がなく、「箸墓古墳」には「槨」があることが推定されているので、内部構造については、一致してないことがわかります。
以上を整理しますと、
時期・・・ぎりぎりセーフ
形状・・・ぎりぎりセーフ
規模・・・アウト
内部構造・・・アウト
となります。
つまり、規模と内部構造からみても、、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」は成り立たない、ということがわかります。
↓ シリーズ第一弾を電子書籍でも出版しました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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今回は、実際の箸墓古墳を、卑弥呼の墓の条件と照らし合わせて、科学的に検証します。
検証の視点として、以下を挙げます。
1.築造時期
2.形状
3.規模
4.内部構造
では順にみていきます。
1.築造時期の一致
魏志倭人伝によれば、卑弥呼の没年は3世紀半ばです。一方の「箸墓古墳」は、従来は3世紀末~4世紀初頭とされていましたが、最近では少しさかのぼり3世紀半ば~3世紀後半とされてます。無理やりさかのぼらせたのではないか、との疑いもないわけではありませんが、ここではぎりぎりでセーフとしておきます。
2.形状
魏志倭人伝には、具体的な形状は記載してませんが、
・大作冢・・・土を小高く盛り上げて造った墓を大いに作った
・徑百餘歩・・・直径が百歩あまり
とありますから、さほど大きくない盛り土のある円墳ということになります。「箸墓古墳」は前方後円墳ですが、後円部を主丘とみれば、これもぎりぎりのセーフといったところです。
3.規模
ここが大きな議論の分かれ目です。従来の解釈ですと、
1歩=約1.3m
したがって、
100余歩=約150m
となり、「箸墓古墳」の後円部の直径150mとほぼ合っているとしてます。
一方、当時は、1里=約75mの短里でしたから、
1歩=約25cm
したがって、
100余歩=約30~35m
となることは、前回お話しました。となると、「箸墓古墳」の後円部の直径150mと合いません。
4.内部構造
箸墓古墳は内部調査されていないので、詳細は不明ですが、ほぼ同じ時期に築造されたと推定される「中山大塚古墳」「桜井茶臼山古墳」は、槨(かく、棺の周囲を覆うもの)がありますので、箸墓古墳にも槨(竪穴式石槨)があると推測されます。(「中日古代墳丘墓の比較研究」(劉振東)より)
一方、魏志倭人伝には、当時の一般的な墓について、「槨なし」と記載してますから、卑弥呼の墓にも槨はなかったと推定されます。
槨についてはわかりにくいので、少し解説します。
まず竪穴式石室ですが、
”発掘過程で竪穴の石室のように検出する事からその名がついた。竪穴式石室に割竹形木棺を埋葬する方法は、3世紀代から4世紀代にかけて流行した。
その基本構造は、割竹形木棺を墓壙の底に安置したあと、棺に接する部分に板状の石を重ねていき、棺と板石の間に角礫を隙間なく詰め込んで、最後に大きな蓋石をかぶせる。木棺を置く場所にあらかじめ粘土を敷いたり、墓壙の床全面に砂利を敷いたりしている。墓壙内に浸透してきた雨水を排水するための暗渠排水施設を設けている石室もある。 木棺と石で築いた壁のあいだに空間があまりないので、これを石室ではなく外側の棺と解釈して竪穴式石槨と表記する場合も多い。 4世紀半ばから簡略化された粘土槨が普及する。この場合も、木棺を覆う空間を残さず、直接木棺を棺床の粘土と同じ粘土で包み込んだ後、墓壙を埋める。その被覆粘土は、棒状の道具で念入りに叩き締められている。”(Wikipediaより)
ようは、竪穴式石室といっても、はじめに石室のような部屋を作るわけではなく、棺の周囲に板状の石を重ねて、最後に蓋石をかぶせるので、あたかも部屋のように見える、ということです。その点、はじめに部屋をきちんと作り、あとで棺を納める横穴式石室とは異なるということです。そして、この積み重ねた石を「石槨」とも呼ぶわけです。


解説が長くなりましたが、卑弥呼の墓には「槨」がなく、「箸墓古墳」には「槨」があることが推定されているので、内部構造については、一致してないことがわかります。
以上を整理しますと、
時期・・・ぎりぎりセーフ
形状・・・ぎりぎりセーフ
規模・・・アウト
内部構造・・・アウト
となります。
つまり、規模と内部構造からみても、、「箸墓古墳」=「卑弥呼の墓」は成り立たない、ということがわかります。
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