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古墳は語る(22)~巨大古墳はすべてが人工物なのか?

さて、ここまで
・前方後円墳は、大和王権の全国支配の象徴ではないこと
・最古の古墳は大和にある、とは言えないこと
・前方後円墳発祥の地は、大和でないこと
・「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は、成立しえないこと

などをお話してきました。

ずいぶんと教科書で習った話と違うので、混乱されている方も多いでしょう。しかしながら、少なくとも、考古学的なデータを素直にみると、このようなことが自然と導き出されるわけです。

これに対して、次のような反論が予想されます。
大仙陵(伝仁徳天皇陵)や誉田御陵山(伝応神天皇陵)等の巨大古墳はどうなのだ。卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳だって当時としては、突出して大きい。あれだけの大きな古墳を造ったということは、それだけ大和王権が大きな勢力をもっていたということだ。」
というものです。

今回はこの点に関して、みていきましょう。

まず大前提として、あのような大古墳を築造したわけですから、巨大な勢力をもった支配者がいたことは、間違いありません。その点は、しっかりと押さえて置く必要があります。

大きさの比較の対象として、エジプトのクフ王ピラミッドや、中国の秦の始皇帝陵が挙げられますね




大仙陵規模比較 

(大阪府堺市HP「三次元表示による三大墳墓の比較」より)


とあるとおり、なんといってもその大きさに特徴があるわけです。

そのうえで、ではその「巨大な勢力をもった支配者」が、本当に大和王権の人々なのか?、という問題があります。

その疑問は、多くの学者からも提起されているところです。私も学校の歴史の授業では、仁徳天皇陵、応神天皇陵と習いました。ところが現在は、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、誉田御陵山(伝応神天皇陵)と呼ばれているわけで、そのあたりの状況をよく表していますね。

この件に関しては、ここまでで歴代天皇陵の連続性という観点から問題提起しました。

そもそも大仙陵古墳が仁徳天皇陵であり、誉田御陵山が応神天皇陵という論拠は希薄です。

”応神天皇の陵は、『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」、『日本書紀』には陵名の記載はないが雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。
『古事記』では、オオサザキ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は87年正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。”(Wikipediaより)

以上のとおり、位置についてかろうじて地名が記載されているだけです。もし本当にこの巨大古墳が、応神天皇陵や仁徳天皇陵であるなら、その築造について具体的に描かれていてもよさそうなものです。なぜなら多くの民が長年にわたり工事に狩り出されて築造されたはずだからです。

応神天皇陵を築造したのは、子である仁徳天皇です。仁徳天皇といえば、仁政で知られています。
”難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった。”
と言う記紀の逸話(民のかまど)があります。

このような民の心を思い量る心優しい仁徳天皇が、このたいへんな時期に、巨大土木工事に多くの民を従事させたのか?、という疑問が出ます。

「いやそういう時だからこそ、古墳造営といういわば公共事業をやることにより、経済を活性化させたのだ。」という考えもあるかもしれません。そうであるなら一層のこと、そのことを天皇を讃える事績として
「天皇はあえてこの時期に、先の天皇(応神天皇)の陵墓築造という巨大事業を敢行して、民の生活を向上させるというすばらしいことをされたのだ。」
という記載があって、しかるべきしょう。しかしながら、その記載はありません。

というより、むしろそれだったら、もっと民の生活を直接潤す施策ーたとえば食料の配給などーをやったほうがいいのではないか、考えてしまいます。

いずれにしろ、こうした議論も多くの論者がしているところですが、内部調査をしないことには、最終的な結論は出ないでしょう。

さてこのような巨大古墳は、どのように造られたのでしょうか?。

当時、建設機械はなかったのですから、人力で土を運んできて盛り土したことになります。盛り土といっても、ただ単に土を積み上げていったのでは、軟弱であり、地震などですぐに崩壊してしまいます。そこで使われた技術が、「版築(はんちく)」工法です。”

”中国古来の土壁,土壇の築造法。板わくの中に土を盛り,1層ずつ杵(きね)で突き固めていく方法。”(百科事典マイペディアより)

このように一層ずつ突き固めていけば、強固になります。先日この断面がよくわかる古墳の写真が新聞に掲載されました。

<船山1号墳、愛知県豊川市>
船山1号墳 断面

”「重さ約25キロの土の塊を運んで積み上げ、層をつくっていく築造過程の一端が明らかになった」という。近畿を中心とした西日本でよく見られる工法で、その影響を受けていることもわかった。”(朝日新聞デジタル、2月8日)

このように、巨大古墳は、人力の「版築工法」で築造されたわけです。

それはそれでいいのですが、ここでは、別の視点の問題提起をしたいと思います。それは、
「巨大古墳は、水田のような平坦な状態の土地に盛り土して造ったものなのか?」
です。

実際、平坦地から人力で造ったことは、当然の前提として語られてます。

”工程によって1日あたり最大で2000人が従事して、完成には15年8カ月の期間が必要という試算がある。”(毎日新聞 歴史散歩・時の手枕「大山古墳(仁徳天皇陵、堺市堺区) 風格堂々 都会の森」(2017.9.16)より)
という記事にも、それが表れています。

私はかつて土地造成の仕事をしていたことがあるので、このような話にはすぐにピンとくるのですが、いつもある疑問をもっていました。

「あれだけの盛り土をしたというからには、それだけの土をどこからかもってきたはずだが、それはどこか?」
という疑問です。

土地の造成をするということは、現地に搬入した土の量と採掘地から搬出した土の量は、当然イコールになるはずです。

「周囲を掘削して濠(ほり)を造り、その土を盛り土した。」という説明がされますが、大仙陵古墳の高さは、最大で35mほどもあり、盛り土の量でいうと、140万㎥という途方もない土量です。一方、濠の深さは、たかがしれています。とても濠の掘削土量だけではまかないきれません。

となれば、古墳近辺のどこかの山を削って、運んできたはずですが、上の図のとおり、ざっとみてピラミッドの容積と同じくらいの盛り土量です。ピラミッドくらいの大きさがある山が一山消えてなくなる計算です。そんなことを、当時本当にしたのでしょうか?。


しかも大仙陵古墳だけならいざしらず、その他の多くの古墳もすべて平地から造ったとすると、畿内の山々は軒並み削られたことになります。その掘削土量はピラミッド数十個分にもなるでしょう。そうしないと、盛り土を確保できません。

それだけの山々が消えてなくなったことなど考えられないでしょうし、そんな記録も一切ありません。

では真実は何か?です。

そこから導き出されることは、
「多くの古墳は、もともとの自然の地形を利用して造られたのではないか?」
ということです。

ここに大変興味深い論文があるので紹介します。
「応神天皇陵付近の地質と地形について」(梅田甲子郎、書陵部紀要第35号・昭和58年)
です。概要は次のとおりです。

崇神天皇陵、景行天皇陵および仁徳天皇陵などのような巨大な前方後円墳は、周辺の地質と地形からみて、平坦地に新しく築造されたものではなくて、既存の天然の小丘を十二分に利用して、それを前方後円状に整形したものと推定しているが、当地方の応神天皇陵をはじめその他の古墳も例外ではないと考えている。

応神天皇陵付近の大阪層群は、南北方向の断層運動によって隆起した羽曳野丘陵の大阪層群の北方延長であるとするのが妥当である。とくに、清寧天皇陵・白鳥陵・墓山古墳・応神天皇陵・皇后仲姫命および允恭天皇陵が羽曳野丘陵からみて同一方向にほぼ一直線にならんでおり、応神天皇陵と允恭天皇陵の大阪群層の方向も同じ方向を指しているという事実がこのことを裏付ける。

以上の地質構造より、当地方はもとより羽曳野丘陵の北部であったが、その後かなりに侵食を受けたものと考えられる。しかし、その丘陵頂部付近は侵食し尽くされずに残丘の列となった。原野に散在するこれらの残丘群は陵墓とするのに適当な大きさであったため、前方後円墳状に加工整形して陵墓としたものであろう。なお、これらの陵墓は、規模に差があるのみならず、形態にも違いがあり、向きもまちまちであることは、築造に関して出来るだけ残丘の原形を利用して労力の節約をはかったことを物語るものではないだろうか。”

大和の山の辺の道の崇神天皇陵・景行天皇陵付近や明日香村周辺などでは、墳丘以外にも似たような大きさの未利用の残丘が処々で散見され、陵墓はこのような残丘を利用したものであろうと自ら察し得る。ところが応神天皇陵付近では墳丘以外に残丘が見当たらないため、陵墓はすべて平坦地に新しく築造されたかに見えるので、地質構造から考え得る一つの見方をここに示した。



応神天皇陵付近


たしかに、何もない水田のような平坦地から築造したのであれば、古墳の向きもすべて同じ方向を向くなり、統一感のあるようにしてもよさそうなものですが、実際はバラバラの方向を向いてます。

この調査が、宮内庁書陵部からの依頼というのも、興味深いところですが、それはそれとして、梅田氏(元奈良教育大学教授)は、理学博士(京都大学)であり、地質に関する専門家です。史書などの記載をまったく考えずに、科学的に純粋に推論した結果を、報告しています。

論文最後に
”要するに古墳については門外漢の私見に過ぎないから、諸賢の御批判を賜らば望外の喜びである。”
と謙虚な姿勢を示していますが、論文に対する反論も見当たりません。

最終的な結論は、古墳自体の地質調査(ボーリング調査)を待つしかありませんが、可能性の高い推論と考えていいと思われます。

なお梅田氏は、大和の古墳については、別論文で発表してます(「山の辺の道付近の地質と地形」(奈良教育大学学術リポジトリNEAR、古文化財教育研究報告、1975-03-31)より)。

山の辺の道付近は、大和朝廷の頃は都心に近い便利な丘陵地帯であったため古墳が多いが、それらの古墳牒、表面の風化部を除くと極めて硬い岩盤である花こう岩地帯にはなく、すべてがなだらかであり軟い朝和累層の残丘を加工したものである。
また、会田陵のみは奈良市北部の古墳群と同じように南を正面とした前方後円墳であるが、崇神陵と仲山古墳は西北西を前面とし、景行陵はほぼ真西を前面とし、薯墓もほぼ西で心持ち南を向いた細長い前方後円墳である。これらの方向はそれぞれの地域の侵食方向即ち残丘の延びと配列の方向に一致している。このことは、古墳の築造に際して、東西方向に長く延びた残丘をそのまま十二分に利用し、原地形の変形に要する労力を節約するよう努力されたことを示すものと考えられる。”

<山の辺の道付近の地質と古墳>
山の辺の道 
(同論文より)

「大和前方後円墳集成」(奈良県立橿原考古学研究所)においても、同様の記載がされてます。
たとえば、箸墓古墳などは、
”古墳は墳丘の南を流れる巻向川の自然堤防を利用して築かれており、同じ微高地上にはホケノ山や堂ノ後などの古墳がある。” (P171)  ”
です。

このようにみてくると、前方後円墳は自然の地形を利用して、それを加工整形して築造されたと考えるのが妥当でしょう。

なお、古墳のなかに「横穴墓(よこあなぼ)」と呼ばれる墓があります。山の斜面に横穴を掘って埋葬する形式で、6~7世紀に、山陰・山陽近畿・東海・北陸・関東・東北南部まで分布しました。
大化2年(646年)に出された「薄葬(はくそう)令」前後から、急増したとされます。

<吉見百穴(よしみひゃくあな)、、埼玉県比企郡>
吉見百穴
(Wikipediaより)

横穴墓は、自然の山を利用して、なおかつ盛り土をまったくしないで造った墓であり、言わば「前方後円墳(横穴式石室)」の簡略版といったところです。

このような発想が、当然出現するとも思えません。もともとの前方後円墳のなかに、自然の山を利用するという思想があったからこそ、生み出されたのではないでしょうか?。

さて以上のとおり、前方後円墳は、自然の地形を活かしながら加工整形して築造された可能性が高いわけですが、だからと言って、巨大古墳の価値が下がるということではありません。盛り土して形を整え、内部には石室等を造り、外部には石を葺き埴輪を置き、さらに外側には濠を設けるなど、大変な労力を要したことでしょう。また独特の型式をもっており、芸術的にも、非常に美しいですね。

あくまで「純粋に科学的に考えるとこうなる」ということですので、その旨ご承知おきください。

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前方後円墳は自然の地形を活かしながら加工

>さて以上のとおり、前方後円墳は、自然の地形を活かしながら加工整形して築造された可能性が高い

〇記事と写真、拝見しました。
 たいへん説得力があります。また、横穴古墳と簡易な横穴墓との関連、するどい指摘と思われます。
 結論として、古墳は、適当な場所がなくなると小規模になっていくという感じでしょうか。そして最後は簡易な横穴になっていった。
 草々

Re: 前方後円墳は自然の地形を活かしながら加工

レインボーさんへ
コメントありがとうございます。

>  たいへん説得力があります。また、横穴古墳と簡易な横穴墓との関連、するどい指摘と思われます。
>  結論として、古墳は、適当な場所がなくなると小規模になっていくという感じでしょうか。そして最後は簡易な横穴になっていった。

「横穴墓は古墳の横穴式石室の簡略版である」と言っている方は他に見当たりません。あくまで私のアイデアレベルの話です。もちろん詳細な検証は必要ですが、可能性として充分ありうるのでは、と感じてます。
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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