古墳は語る(24)~墓制からみた中国と日本の関係

ところでその後の中国の墓制はどうなったでしょうか?。

中国の歴史をおさらいしますと、
三国志の時代に勝利して全土統一した魏(220-265年)ののちの西晋(265-316年)が滅亡後、南方に建康(南京)を都とする東晋(317-420年)ができます。その後、宋(420-479年)に替わり南朝が開始され、斉(479-502年)~梁(502-557年)~陳(557-589年)と続きます。

一方、北方は西晋から前趙(ぜんちょう)が独立(304年)、以後、多くの小国が興亡を繰り返す十六国の戦乱の時代となり、最後に北魏により統一され(439年)、北朝が開始されます。

その北朝系統のが、中国全土を統一します(581年)。ちなみに統一したのは、有名な隋の煬帝の父親文帝です。その後唐(618-907年)の時代になります。

以上のとおり、大きく分けて、魏の流れを引く南朝系と北方民族系の北朝系に分かれます。当然墓制も、異なる流れになります。

南朝系は、魏の流れを引いてますから、西晋~東晋と墓制も魏の「薄葬」を引き継ぎました。そしてその後東晋の時代すなわち5世紀半ば以降は、再び大規模な墳丘が築造されるようになります。

一方の北朝系ですが、4世紀初頭から十六国時代になり、「薄葬」が崩れはじめ、次第に大規模な墳丘が復活します。

つまり、大規模な墳丘の復活が、北朝系が早く(4世紀初頭)、南朝系は遅かった(5世紀半ば)、ということになります。話が複雑になったので、図で整理します。

中国王朝変遷


<南朝(宋)と北朝(北魏)>
中国南北朝 
(Wikipediaより)

ここでひとつ、日本の前方後円墳と関連して、面白い仮説が立てられます。

まずは畿内の天皇陵の系譜です。


天皇陵分布と移動  

築造開始当初(3世紀半ば頃)から、箸墓古墳はじめ大規模な前方後円墳が、次々と築造されているのがわかります。最大規模の大仙陵古墳や誉田五廟山古墳が築造されたのは、4世紀終わり~5世紀前半です。その後、古墳の規模は急速に小さくなっていきます。曹操の「薄葬令」とは関連がなさそうですし、むしろ中国南朝系の動きと逆ですね。

一方、九州北部はどうでしょうか?。

少し前のブログ
古墳は語る(14)~前方後円墳分布の不可思議
で、九州の前方後円墳は初期~中期にかけては、数も少なく規模が小さいのですが、後期になり築造が活発化して大型化することを、お話しました。岩戸山古墳(福岡県久留米市、6世紀初頭)は、九州北部で最大の前方後円墳です。大和で築造が縮小する6世紀に、地方では逆に活発化しています。こうしたことが謎とされ、専門家の方々も説明に窮しているわけです。



九州前方後円墳3


上の図のとおり、九州の久留米~八女地方では、古墳前期~中期前半には、前方後円墳がほとんど築造されていないのに、中期後半(5世紀半ば)以降、大きな古墳が築造され始めました。この時期は、中国南朝で大規模墳墓が築造され始めた時代です。一致してますね。

簡単に言うと、九州北部は中国南朝の影響を受け、畿内勢力は受けてないということです。

このことをどのように理解すればいいのでしょうか?

もちろん「単なる偶然だ」と解釈することもできるでしょう。

しかしながらもし実際に、九州北部が南朝の影響を受けていたのであるならどうでしょうか?。

中国皇帝(南朝系)に近かったのは九州北部勢力であり、畿内勢力は近しい関係になかった、ということになります。つまり、九州北部勢力がより中国皇帝に近い関係であった、ということになります。

もっと言えば、中国皇帝(南朝系)の外交上の相手は、九州北部だったということです。いわゆる九州王朝です。

「そんなのはこじつけだ」という方も多いと思いますが、データからみると、成立しうる話です。
逆に言えば、このような解釈をしないと、
なぜ畿内の前方後円墳築造が中期後半(5世紀半ば以降)には衰退する一方、九州北部ではそれ以降活発化したのか?”、という疑問に対する答えを見つけるのも、なかなか難しいところです。

ところでその北朝ですが、畿内との関係が強いとの説があります。北朝の北魏についてです。

北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。
法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)
・日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)
・北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。(福永光司の説)”
(Wikipediaより)

もし北魏と畿内との関係性が強いのであれば、墓制についても北魏にならった、との見方もできます。

北魏は、西魏~北周へと引き継がれていきます。実は北周(556-581年)は再び「薄葬化」へと向かいます。背景として、
北斉との政治、軍事的対峙及び数年間の戦争による経済的な困窮などと関係があり”
としてます。そして
”墳丘、陵園、神道、建物などすべての地上施設を徹底的に禁止した。”(P138)
とあります。

北周ののち、が建国されます(581年)。
2013年に、隋の煬帝のものではないかとされる墓が発掘されましたが、ずいぶんとこじんまりとしたものでした。

天皇陵も6世紀後半にはさらに小規模なものになっていきます。ちなみに推古天皇(628年没)陵は古市古墳群のなかの山田高塚古墳ですが、63m×56mの方墳というこじんまりとした陵です。この伝統はその後も引き継がれます。

このようにみてくると、
”大和王権の陵は、北朝の影響を受けている”
という可能性も出てきます。

そうなると、
九州王朝     ・・・中国南朝の影響
大和王権(王朝)・・・中国北朝の影響
という図式が成立するかもしれません。

もちろんこの考え方にはさらなる検証が必要ですが、現時点でひとつの仮説として提起したいと思います。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

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