FC2ブログ

古墳は語る(28)~まとめ

ここまで27回の長きにわたり、縄文時代の墓から弥生時代の墳丘墓、そして古墳時代の前方後円墳などを、時代を追ってみてきました。ここからわかることは、特に弥生時代以降は西から東への伝搬があったということです。
また前方後円墳については、その起源はまだよくわからないものの、少なくとも畿内が発祥ではないことは明らかです。そして私たちが歴史の教科書で習った「前方後円墳は、大和王権の全国支配の象徴である」といういわゆる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデータからみる限りはなかった、ということもわかりました。

話が多岐にわたりましたので、ここで整理します。

各時代の墓
a.縄文時代のお墓
・土壙墓(どこうぼ)が一般的
b.弥生時代の墓
・甕棺墓、支石墓、石棺墓、木棺墓
・墳丘墓 方形周溝墓(方形低墳丘墓)  
c.古墳時代
円墳・帆立貝形古墳・方墳・上円下方墳・前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・双方中方墳・双円墳・八角墳

支石墓
・縄文時代最晩期に、韓半島南端部から、対馬・壱岐を経由して、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸に到達した。そこから九州西北部や佐賀平野へと伝播した。北西および南へは伝播しましたが、東つまり隣の福岡平野には伝播しなかった。
・弥生時代中期以降、終焉する。

甕棺墓
・中国戦国時代(紀元前403年-同221年)の
戦乱を逃れて日本列島にやってきた人々が九州北部に伝えた。
・福岡平野の東、遠賀川下流域より東には、全く分布していない。
・弥生時代後期に、なぜか急に使用されなくなり、木棺や石棺に変わっていく。

楯築墳丘墓
・弥生時代最大規模である。
特殊器台・特殊壺が出土し、弧帯文石があり、九州北部から伝播している可能性

四隅突出型墳丘墓
・広島・島根・鳥取というエリアと、越すなわち北陸(福井・石川・富山)に多く分布。日本海を介した文化圏。
・四隅突出型墳丘墓は、方形貼石墓の四隅を突出させて発展させた可能性が高い。
・弥生時代の終焉とともに、忽然と姿を消す。

積石塚
・中国遼河文明の積石塚が、朝鮮半島に伝播した。
・徳島県鳴門市の萩原墳墓群にあるものが3世紀前葉の築造で、国内最古の積石塚とされている。前方後円墳の祖型として注目される。

古墳
・全国には約25万基前後の古墳が分布するが、その約95%が円墳。
・最も多いのは兵庫県で16,577基、以下、千葉県13,112基、鳥取県13,094基、福岡県11,311基、京都府11,310基とつづき、全国合計では161,560基となる。
・さまざまな形がある。
・内部構造は、竪穴式石室、横穴式石室に分かれる。

■前方後円墳
a.形の由来

・器物模倣説、
宮車模倣説、楯模倣説、家屋模倣説、壺模倣説、円丘・方丘合体説、前方部祭壇説、外来影響説、工法発生説など。

b.祖型
・近年は前方後円墳の先駆けは「陸橋付円形周溝墓」ではないかと考えられている。
・最古は、徳島県の名東(みょうどう)遺跡(紀元前1世紀)。
・最古の「方形周溝墓」では「東武庫(ひがしむこ)遺跡」(尼崎市、紀元前5世紀)。他にも福岡県糸島市にある王墓「三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓」(紀元前1世紀頃)。
「陸橋付周溝墓」が「前方後円墳」の祖型であるなら、「前方後円墳」の発祥は大和ではなく、四国東部、播磨、あるいは九州北部あたりの可能性が高い

c.分布

・全国で約4700基(5200基とも)。
・一番多い県は、千葉県(733基)、2位が東国の群馬県(455基)、3位も東国の茨城(391基)と続く。ようやく奈良県が4位(312基)で入るが、5位が福岡県(267基)、6位が鳥取県(252基)と続き、大阪府が7位(202基)。
・前方後円墳の分布は、数からみれば東国に多く、特に中枢域や西国で減少する古墳時代後期に急増していること、西国でもたとえば九州北部では、古墳時代中期に衰退するものの後期に隆盛を極める。そしてこうしたデータから見る限り、「前方後円墳が大和朝廷全国支配の象徴である」という通説は論拠に乏しい。

c.最古
・最古級である1期前方後円墳の数量第1位は、筑前つまり邪馬台国所在地として挙げている九州福岡県博多湾岸。第二位の播磨、第四位以下の備前~備中、讃岐と、瀬戸内海沿岸。大和は第3位。

d.天皇陵
・宮内庁比定の古代天皇陵のうち、実在とされる10代崇神天皇以降42代文武天皇までの32陵のうち、14陵が間違い。44%が、間違い。

e.天皇陵と宮の関係
・天皇宮と天皇陵は、多くが同じ府県にない。10代から42代の32天皇のうち、没時の宮と陵が同じ府県にないのは、15代であり、実に47%にものぼる。
・”畿内においては、各地域の豪族が興亡を繰り返していたのであり、それをあたかも一つの系譜としてつながっているように、古事記、日本書記が作文した。大和王権は、それらのうちの一つにすぎなかった、すなわちone of them に過ぎなかった。”という仮説が導き出される。

f.前方後円墳体制
1.数、分布 2.築造の時代推移 3.祖型、4.規模 からみる限り、「前方後円墳体制」なるものがあったことを立証しうるデータはない。

g.卑弥呼の墓
・奈良県の箸墓(はしはか)古墳は、1.築造時期、2.形状、3.規模、4.内部構造のうち、3の規模、4の内部構造の条件が合致しない。
平原1号墳、須玖岡本遺跡、祇園山古墳、津古生掛古墳、那珂八幡古墳が候補である。
・博多湾岸近辺にあったと推定できる。

h.前方後円墳築造方法
自然の地形を活かしながら加工整形して築造された可能性が高い。

i.中国墓制が与えた影響
倭国の古墳に、魏の曹操「薄葬令」が影響を及ぼした可能性が高い
九州王朝     ・・・中国南朝の影響
大和王権(王朝)・・・中国北朝の影響?

J.朝鮮半島の前方後円墳
南西部にある前方後円墳は、九州王朝から派遣された豪族の可能性が高い。

装飾古墳
・九州中北部から山陰・北陸・関東・東北地方太平洋岸に分布しており、海上ルートで伝搬したと考えられる。
・それは古代からの交易ルート上にある。交易を担ったのは「海人族」であり、本拠地は九州北部である。
・装飾古墳のある地域は、九州王朝の文化圏だったとも考えられる。

阿蘇のピンク石棺
「ピンク石」正確には「阿蘇山溶岩凝灰岩」を使用した石棺が、畿内にみられるが、出自は九州中北部と考えられる。

以上のとおりです。
大枠の話として、「中国本土、朝鮮半島→九州北部→西日本→東日本」という流れがあることがわかりました。

古墳にいたるまでに、支石墓、甕棺墓、四隅突出型墳丘墓など、さまざまな型式の墓がありましたが、古墳時代の終焉の頃には、すべて終焉していることがわかります。
その後古墳時代に入り、前方後円墳が隆盛を迎えます。ところが大和王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、データで見る限り存在していなかったこともわかりました。

ではその当時の古代日本の支配体制はどのような状況にあったのか、です。

九州王朝があったことは、繰り返しお話してきました。では九州王朝が中央集権国家のように完全に日本全国を支配していたのかといえば、そうではなかったでしょう。各地域は有力豪族たちが統治していたと推測します。九州王朝は、そうした豪族たちとゆるやかな同盟関係を結んでいたと考えます。

その地方の豪族たちは、当然のことながら群雄割拠しながら覇権を競っていたはずです。畿内もそうでしょうし、関東地方もそうだったのでしょう。そうした動きが、古墳の分布や推移などにも見事に表われていると言えるのではないでしょうか。

★「前方後円墳体制」はなかったのか?

<仁徳天皇>
仁徳天皇 
(「東錦昼夜競 仁徳天皇」(部分)楊洲周延画 明治19年(1886年)より)

<大仙陵古墳、伝仁徳天皇陵>
300px-NintokuTomb.jpg
(Wikipediaより)

無料メルマガ(まぐまぐ)での配信を開始しました。
↓ 登録はこちらから

http://www.mag2.com/m/0001682368.html

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
↓なるほどと思ったら、クリックくださると幸いです。皆様の応援が、励みになります。 



にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村


スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。

最新記事
最新コメント
読者登録
メールで更新情報をお知らせしますので、こちらに登録ください。
メルマガ購読・解除
図とデータで解き明かす日本古代史の謎
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
おすすめの本
ブロとも一覧

アアト日曜画家

魏志倭人伝その他諸々をひもといて卑弥呼の都へたどりつこう

☆☆ まり姫のあれこれ見聞録 ☆☆

中国通史で辿る名言・故事探訪

幕末多摩・ひがしやまと

客船の旅

黒田裕樹の歴史講座

しばやんの日々

Paradise of the Wild bird…野鳥の楽園…
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR