イネは語る(1)~意外な実態とは?
このところ、数十回にわたり、土器、銅鐸、墳墓についてみてきました。一連のデータからわかったことは、大きな流れとして、「西→東」という移動があったことです。もちろん実際にはそのような単純な話ではなく、さまざまな複雑な流れがあったわけですが、大まかな流れとして、そのようなことが言えるわけです。
そして前回までの古墳の話のなかで、畿内王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデータからみれば無かったといわざるをえないこともお話しました。
つまり古墳時代の畿内は、さまざまな豪族が覇権を競い合っており、大和王権というものは、one of them に過ぎなかった、というこです。
この話は、土器や銅鐸のデータからみても同様に考えざるをえない、ということがわかります。教科書で習ったこととは、まったく違いますね。
このように客観的データを整理すると、今までの私たちの認識とは大きく異なる新たな世界が見えてきます。
さてそれでは、もう少しいろいろなデータをみていきましょう。
今回から「イネ」です。
「イネ」といえば、2千年以上にわたり私たち日本人が食べてきたもので、私たちの文化にも強く浸透しています。
「イネ」がどこから渡ってきて、どのように広まったのかは、実はよくわかってませんでした。なんとなく「弥生時代に大陸から伝わり、耕作されるようになり広まっていった。」といった程度でした。
ところが近年の科学技術の向上や遺跡の発掘等により、次第にさまざまなことが解明されつつあります。それを紹介しつつ、考えていきましょう。「イネの歴史」「イネの日本史」(佐藤洋一郎)を参照します。
「イネ」というと、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。
広々とした水田に規則正しく植えられている青々とした姿や、穂を豊かに実らせている姿を思い浮かべる方が、多いのではないでしょうか?。それが私たち日本人の心の奥深くに抱いている「原風景」だからでしょう。
学校の歴史の授業でも、”イネは弥生時代に伝わり、それ以降水田耕作が急速に広まった。”と習いましたね。私たち日本人は、2000年以上にわたり、営々と水田耕作をして、コメを主食としてきたことになります。これが私たちのもつ「原風景」の由来でしょう。
ところが佐藤氏によれば、こうしたことは近世以降のことであって、”「米」は中世までは人々の暮らしの中で、今の私たちが考えるほどには大きな位置を占めていなかった。”というのです。ずいぶんと私たちの認識と違いますね。
さらに驚くべき話が出ます。
”「水田稲作」は「稲作」の一部に過ぎない。”
”私たちが毎日みているような水田稲作のスタイルは、アジアの中では極めて例外的なスタイルである。”
のです。
そして
”水田稲作ともうひとつの稲作は、両者が並列な関係にあるのではない。”
としてます。
ここで「もうひとつの稲作」とは、「焼畑による陸稲栽培」などを指してますが、そのような稲作こそもともとの稲作であり、水田稲作はのちになって開発された栽培法だ、ということです。
つまり、、「焼畑による陸稲栽培」などが世界の多くの地域で行われている稲作だ、ということになります。冒頭から、イネについての認識が大きく揺るがされます。
<水田>
(Wikipediaより)
<焼畑>海南島内陸部にわずかに残る焼畑での陸稲栽培
(京都大学東南アジア研究所HPより)
実は一口にイネと言っても、さまざまな種類があります。皆さんのなかにも、ジャポニカ米とか、インディカ米という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
ジャポニカ米とは、普段私たち日本人が口にしている米で、「コシヒカリ」などがそれに当たります。
一方、インディカ米とは、俗に「タイ米」などと呼ばれrている米です。
特徴として一番わかりやすいものは食感です。ジャポニカ米はモチモチとして粘り気がありますが、インディカ米はパサパサとしてます。ですからインディカ米は、ピラフ・チャーハンなどに合います。南国にはそのような料理が多いですね。
そしてジャポニカ米は、「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」に分かれます。おおまかにいえばその名のとおり、「熱帯ジャポニカ」は熱帯に多く、「温帯ジャポニカ」は温帯に多いです。
イネはもともと熱帯のものですから、「熱帯ジャポニカ」からのちに「温帯ジャポニカ」が生まれたことになります。
ではイネの原産地はどこだと思いますか?
イネは南方のものということから、東南アジアと考える方が多いと思われます。
それはそうなのですが、ではさらにさかのぼりイネの原種(オリザといいます)は、どこで生まれたのでしょうか?
なんと、今のオーストラリアからパプアニューギニア一帯の地域と考える研究者が多いというのです。つまり、「イネはオセアニアの生まれ」ということです。
オリザの祖先は、もともとは森のすきまに生きてきた草の一つにすぎませんでした。日陰の植物であって、サンサンと日光を浴びて育つ植物のイメージとはほど遠いものだったそうです。
その後野生イネは長い年月をかけて広まり、突然変異などでさまざまな種類が生まれました。
その野生イネが北上して、長江の流域、湖南省あたりの中流域か江蘇省、浙江省あたりの下流域あたりで、初めて人の手で栽培されるようになったと推定しています。
(「イネの歴史」佐藤洋一郎より)
なぜイネの栽培が、長江の中流域から下流域にかけての地域で始まったのでしょうか?。
”長江流域でジャポニカの稲作が始まったひとつのきっかけになったのがヤンガードリアスの低温ではなかったかという仮説がある。ヤンガードリアスとは、二万年前ほどまえをピークとする最終氷期から温暖期(そのピークは7千年前ほど前の「ヒプシ・サーマル期」)に移行する途中に起きた急激な寒冷期のひとつ。低温によって野生植物の収穫が減ったことは農耕のひとつのきっかけにはなろう。”
つまり氷期の低温により、狩猟採集だけでは栄養補給ができなくなり、イネ栽培という食物自給方式への転換が行われたのではないか、としてます。一方、熱帯地域の場合、生態が豊かなため「狩猟採集」で十分であって、農耕を取り入れるモチベーションは一貫して低かった、として、
”このように考えれば、熱帯における農耕の開始は温帯地域より相当遅かったと考えるのが自然である。”
としてます。
一方のインデイカ米ですが、”インディカの起源地は熱帯にあると考えられるが、その誕生は相当最近のことなのかもしれない。”
としてます。
長江流域で初めに栽培されたジャポニカは、熱帯ジャポニカとみられます。それがのちに品種改良され「温帯ジャポニカ」が生まれたわけです。
ところでイネ栽培について、東南アジア(インドネシア・フィリッピン、マレーシアなど熱帯島嶼部)起源ではないか、との論文が2008年に「ネイチャー・ジェネティックス」という雑誌に掲載されました。
この論文に対して、佐藤氏は否定的です。理由として
・考古学的成果とまったく合わない。東南アジア島嶼部における稲作の始まりは、考古学的にはせいぜい4000年ほど前である。
・長江流域と島嶼部の間にある南中国や台湾にも、それほど古い遺跡はまったくない。
・これら島嶼部に現在住む人々の祖先が伝わったのが、せいぜい数千年前である。
としたうえで、遺伝子解析方法が不充分ではないか、と結論づけてます。
はたしてどうなのかは、後の回で改めてとりあげます。
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そして前回までの古墳の話のなかで、畿内王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデータからみれば無かったといわざるをえないこともお話しました。
つまり古墳時代の畿内は、さまざまな豪族が覇権を競い合っており、大和王権というものは、one of them に過ぎなかった、というこです。
この話は、土器や銅鐸のデータからみても同様に考えざるをえない、ということがわかります。教科書で習ったこととは、まったく違いますね。
このように客観的データを整理すると、今までの私たちの認識とは大きく異なる新たな世界が見えてきます。
さてそれでは、もう少しいろいろなデータをみていきましょう。
今回から「イネ」です。
「イネ」といえば、2千年以上にわたり私たち日本人が食べてきたもので、私たちの文化にも強く浸透しています。
「イネ」がどこから渡ってきて、どのように広まったのかは、実はよくわかってませんでした。なんとなく「弥生時代に大陸から伝わり、耕作されるようになり広まっていった。」といった程度でした。
ところが近年の科学技術の向上や遺跡の発掘等により、次第にさまざまなことが解明されつつあります。それを紹介しつつ、考えていきましょう。「イネの歴史」「イネの日本史」(佐藤洋一郎)を参照します。
「イネ」というと、どのような姿を思い浮かべるでしょうか。
広々とした水田に規則正しく植えられている青々とした姿や、穂を豊かに実らせている姿を思い浮かべる方が、多いのではないでしょうか?。それが私たち日本人の心の奥深くに抱いている「原風景」だからでしょう。
学校の歴史の授業でも、”イネは弥生時代に伝わり、それ以降水田耕作が急速に広まった。”と習いましたね。私たち日本人は、2000年以上にわたり、営々と水田耕作をして、コメを主食としてきたことになります。これが私たちのもつ「原風景」の由来でしょう。
ところが佐藤氏によれば、こうしたことは近世以降のことであって、”「米」は中世までは人々の暮らしの中で、今の私たちが考えるほどには大きな位置を占めていなかった。”というのです。ずいぶんと私たちの認識と違いますね。
さらに驚くべき話が出ます。
”「水田稲作」は「稲作」の一部に過ぎない。”
”私たちが毎日みているような水田稲作のスタイルは、アジアの中では極めて例外的なスタイルである。”
のです。
そして
”水田稲作ともうひとつの稲作は、両者が並列な関係にあるのではない。”
としてます。
ここで「もうひとつの稲作」とは、「焼畑による陸稲栽培」などを指してますが、そのような稲作こそもともとの稲作であり、水田稲作はのちになって開発された栽培法だ、ということです。
つまり、、「焼畑による陸稲栽培」などが世界の多くの地域で行われている稲作だ、ということになります。冒頭から、イネについての認識が大きく揺るがされます。
<水田>

(Wikipediaより)
<焼畑>海南島内陸部にわずかに残る焼畑での陸稲栽培

(京都大学東南アジア研究所HPより)
実は一口にイネと言っても、さまざまな種類があります。皆さんのなかにも、ジャポニカ米とか、インディカ米という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
ジャポニカ米とは、普段私たち日本人が口にしている米で、「コシヒカリ」などがそれに当たります。
一方、インディカ米とは、俗に「タイ米」などと呼ばれrている米です。
特徴として一番わかりやすいものは食感です。ジャポニカ米はモチモチとして粘り気がありますが、インディカ米はパサパサとしてます。ですからインディカ米は、ピラフ・チャーハンなどに合います。南国にはそのような料理が多いですね。
そしてジャポニカ米は、「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」に分かれます。おおまかにいえばその名のとおり、「熱帯ジャポニカ」は熱帯に多く、「温帯ジャポニカ」は温帯に多いです。
イネはもともと熱帯のものですから、「熱帯ジャポニカ」からのちに「温帯ジャポニカ」が生まれたことになります。
ではイネの原産地はどこだと思いますか?
イネは南方のものということから、東南アジアと考える方が多いと思われます。
それはそうなのですが、ではさらにさかのぼりイネの原種(オリザといいます)は、どこで生まれたのでしょうか?
なんと、今のオーストラリアからパプアニューギニア一帯の地域と考える研究者が多いというのです。つまり、「イネはオセアニアの生まれ」ということです。
オリザの祖先は、もともとは森のすきまに生きてきた草の一つにすぎませんでした。日陰の植物であって、サンサンと日光を浴びて育つ植物のイメージとはほど遠いものだったそうです。
その後野生イネは長い年月をかけて広まり、突然変異などでさまざまな種類が生まれました。
その野生イネが北上して、長江の流域、湖南省あたりの中流域か江蘇省、浙江省あたりの下流域あたりで、初めて人の手で栽培されるようになったと推定しています。


(「イネの歴史」佐藤洋一郎より)
なぜイネの栽培が、長江の中流域から下流域にかけての地域で始まったのでしょうか?。
”長江流域でジャポニカの稲作が始まったひとつのきっかけになったのがヤンガードリアスの低温ではなかったかという仮説がある。ヤンガードリアスとは、二万年前ほどまえをピークとする最終氷期から温暖期(そのピークは7千年前ほど前の「ヒプシ・サーマル期」)に移行する途中に起きた急激な寒冷期のひとつ。低温によって野生植物の収穫が減ったことは農耕のひとつのきっかけにはなろう。”
つまり氷期の低温により、狩猟採集だけでは栄養補給ができなくなり、イネ栽培という食物自給方式への転換が行われたのではないか、としてます。一方、熱帯地域の場合、生態が豊かなため「狩猟採集」で十分であって、農耕を取り入れるモチベーションは一貫して低かった、として、
”このように考えれば、熱帯における農耕の開始は温帯地域より相当遅かったと考えるのが自然である。”
としてます。
一方のインデイカ米ですが、”インディカの起源地は熱帯にあると考えられるが、その誕生は相当最近のことなのかもしれない。”
としてます。
長江流域で初めに栽培されたジャポニカは、熱帯ジャポニカとみられます。それがのちに品種改良され「温帯ジャポニカ」が生まれたわけです。
ところでイネ栽培について、東南アジア(インドネシア・フィリッピン、マレーシアなど熱帯島嶼部)起源ではないか、との論文が2008年に「ネイチャー・ジェネティックス」という雑誌に掲載されました。
この論文に対して、佐藤氏は否定的です。理由として
・考古学的成果とまったく合わない。東南アジア島嶼部における稲作の始まりは、考古学的にはせいぜい4000年ほど前である。
・長江流域と島嶼部の間にある南中国や台湾にも、それほど古い遺跡はまったくない。
・これら島嶼部に現在住む人々の祖先が伝わったのが、せいぜい数千年前である。
としたうえで、遺伝子解析方法が不充分ではないか、と結論づけてます。
はたしてどうなのかは、後の回で改めてとりあげます。
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