イネは語る(3)~弥生時代の稲作の実態とは?
前回は、稲作は縄文時代に伝わった、ということをお話しました。ただしそのイネは熱帯ジャポニカであり、陸稲稲作であったと考えられます。
その後弥生時代になり、温帯ジャポニカの水田稲作が伝わりました。
かつてその時期は、紀元前3~4世紀頃とされてきましたが、近年紀元前10世紀にまでさかのぼるとする説が発表され、衝撃を与えました。まだまだ異論もありますが、次第に浸透しているように感じます。
ところで学校の歴史の教科書では、このように習いませんでしたでしょうか?
”縄文時代は、家族単位の狩猟採集の移動生活でしたが、弥生時代になって稲作が伝わり、生活が安定向上して、定住するようになりました。”
ところがです。佐藤氏によれば、それは「幻想にすぎない」といいます。
”弥生時代がイネと稲作に関して歴史上の画期であるというのが一種の幻想ではなかったかとさえ思えるほどである。”
”今までの歴史観が正しいならば、水田の遺構を伴うような典型的な弥生時代の遺跡からは水稲。つまり温帯ジャポニカが出るはずである。ところが青森県田舎館(いなかだて)村・髙樋(たかひ)Ⅲ遺跡といわれる遺跡から出てきた一粒の炭化米が、熱帯ジャポニカの反応を示した。”
”熱帯ジャポニカが混ざっているという事象は、時期や場所によらず普遍的。”
”弥生時代が始まってから急速に温帯ジャポニカが広まったとはいいにくい状況にある。”
”弥生時代に稲作が一気に普及したというのは一種の幻想に過ぎず、実態はむしろ開田しては廃絶し、また新たな土地を田に開くということを繰り返していたのではないかとさえ考えられる。”
”耕作の放棄はイネを作りつづけることによる地力の低下、雑草の増加など生態的要因によるもの。”
静岡県曲金北(まがりかね)きた)遺跡は、1600年前の遺跡であり、5ha 中規模の野球場が2つ入る大きさです。 1区画数㎡の区画が、総数1万区画にのぼります。そこでの稲作について、推定してます。
”かつてイネを植えていた区画が何らかの理由で放棄されて草ぼうぼうになる。するとある一定のエリア内には水田として使われている部分と耕作が放棄された部分とが交錯するようになる。それは、幾年も前から見続けてきたラオスの焼畑での耕作と基本的な構造を一にするものであった。耕作と休耕をくりかえす焼畑のやり方。それが古墳時代の水田にも残されていたと考えられないだろうか。”
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)
以上を解説すると、稲作(陸稲、熱帯ジャポニカ)が伝わったのは縄文時代で、弥生時代になって水田稲作(温帯ジャポニカ)が伝わったが、そこに画期的なことは起こらなかった。もともと陸稲稲作という基盤があり、そこに水田による稲作技術が導入された。
水田稲作と言っても、私たちの思い描く水田ではない。もともとの陸稲(熱帯ジャポニカ)と混ざった状態で、しかも耕作と休耕を繰り返す焼畑のような形態だったというのです。稲作民は、耕作してから数年でその土地を放棄して別の地に移り、また耕作を始める、というものだったというのです。
広い水田でイネが風にソヨソヨとゆられるという一般的な田園風景とは、かけ離れてますね。そしてその状況は中世まで続き、近世になってようやく定住して水田を営む形態ができあがった、というのです。
ずいぶんと私たちのもつイメージと異なりますね。
さてその水田稲作すなわち温帯ジャポニカは、どのルートで日本に伝わったのでしょうか?
朝鮮半島ルートなのか、中国大陸から直接なのか?、です。
少し小難しくなりますが、イネ遺伝子DNAにはRMIというSSR領域があります。言ってみればイネの血液型みたいなものです。日本、中国、朝鮮半島のイネ(温帯ジャポニカ)250品種について調査したそうです。250種のイネのなかに8つの変型版があります。これらを、aからhまでの文字をあて、どこに分布しているかを示したのが、下の図です。
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))
するとたいへんおもしろいことがわかったのです。
中国には8タイプがすべてがあり、多様性があることがわかりました。
朝鮮半島には、bタイプを除く7タイプがありました。
それに対して日本はほとんどがaタイプまたはbタイプに限られてます。
ここからわかることは、”日本に運んでこられたイネの量は、ごくわずかだった”、というのです。なぜかと言えば、もし大量に運んできたのなら、、さまざまなタイプが紛れ込む可能性が高くなり、a或いはbタイプに限られる確率が、きわめて低いものになるからです。
佐藤氏は、RM1以外のSSR領域も調べ、同じ結論を導き出してます。
このことから、渡来ルートについて、
”bタイプの品種は、中国にも日本にも多く存在する。bタイプが朝鮮半島にだけなかった理由は、おそらくそれが中国で生まれ、朝鮮半島を経由せずに直接日本に来たからである”
”一方、aタイプのほうだが、これは朝鮮半島ではメジャーなタイプながら、中国における頻度はそう高くない。このタイプが、朝鮮半島で生まれたかまたは中国で生まれたかは別として、とにかく朝鮮半島から日本にきたことはたしかだろう。”
と推定してます。
ようは、中国から直接渡来したルート(bタイプ)と、朝鮮半島から渡来したルート(aタイプ)の二つである、ということです。
では、日本に渡来したイネ(温帯ジャポニカ)は、その後どのように伝播したのでしょうか?。
佐賀大学の和佐野喜久雄氏は、国内外の遺跡から出土する種子(炭化米)の大きさと形の分析から、日本列島にきたイネ品種に次の三つの波があったとしてます。
■第一波(縄文時代晩期、紀元前7,8世紀ころ、中国の春秋戦国時代)
・朝鮮半島から壱岐(いき)を経由
・粒のごく丸い品種
■第二波(縄文時代歳晩期から弥生時代はじめ、紀元前4,5世紀ころ)
・中国から「北部九州北岸域」に直接渡来
・短粒の品種
■第三波(弥生時代前期から中期、紀元前2,3世紀ころ)
・有明海に入りその後山陰地方から日本海岸に沿って北上
・長粒の品種を中心としたさまざまな変異を含んだ品種
この説は、寺澤薫氏(橿原考古学研究所=当時)の説を参考にしたものと思われる、ということです。寺澤氏の描いた図を載せます。
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))
和佐野氏の説とこの図が、完全に合致しているわけではありません。
たとえば和佐野氏は、第二波は中国からきたとしてますが、上の図では朝鮮半島からきたように見えます。
また第三波はどこから伝搬したのか明確にしてませんし、上の図でもよくわかりません。
そのあたり詳細はいろいろあるところですが、おおまかなルートということで理解したいと思います。
興味深いのは、第三波の直接有明海に入ったルートがある、としているところです。このあたりが、九州北部とどのような関係性になるのか、注目ですね。
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その後弥生時代になり、温帯ジャポニカの水田稲作が伝わりました。
かつてその時期は、紀元前3~4世紀頃とされてきましたが、近年紀元前10世紀にまでさかのぼるとする説が発表され、衝撃を与えました。まだまだ異論もありますが、次第に浸透しているように感じます。
ところで学校の歴史の教科書では、このように習いませんでしたでしょうか?
”縄文時代は、家族単位の狩猟採集の移動生活でしたが、弥生時代になって稲作が伝わり、生活が安定向上して、定住するようになりました。”
ところがです。佐藤氏によれば、それは「幻想にすぎない」といいます。
”弥生時代がイネと稲作に関して歴史上の画期であるというのが一種の幻想ではなかったかとさえ思えるほどである。”
”今までの歴史観が正しいならば、水田の遺構を伴うような典型的な弥生時代の遺跡からは水稲。つまり温帯ジャポニカが出るはずである。ところが青森県田舎館(いなかだて)村・髙樋(たかひ)Ⅲ遺跡といわれる遺跡から出てきた一粒の炭化米が、熱帯ジャポニカの反応を示した。”
”熱帯ジャポニカが混ざっているという事象は、時期や場所によらず普遍的。”
”弥生時代が始まってから急速に温帯ジャポニカが広まったとはいいにくい状況にある。”
”弥生時代に稲作が一気に普及したというのは一種の幻想に過ぎず、実態はむしろ開田しては廃絶し、また新たな土地を田に開くということを繰り返していたのではないかとさえ考えられる。”
”耕作の放棄はイネを作りつづけることによる地力の低下、雑草の増加など生態的要因によるもの。”
静岡県曲金北(まがりかね)きた)遺跡は、1600年前の遺跡であり、5ha 中規模の野球場が2つ入る大きさです。 1区画数㎡の区画が、総数1万区画にのぼります。そこでの稲作について、推定してます。
”かつてイネを植えていた区画が何らかの理由で放棄されて草ぼうぼうになる。するとある一定のエリア内には水田として使われている部分と耕作が放棄された部分とが交錯するようになる。それは、幾年も前から見続けてきたラオスの焼畑での耕作と基本的な構造を一にするものであった。耕作と休耕をくりかえす焼畑のやり方。それが古墳時代の水田にも残されていたと考えられないだろうか。”
(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)
以上を解説すると、稲作(陸稲、熱帯ジャポニカ)が伝わったのは縄文時代で、弥生時代になって水田稲作(温帯ジャポニカ)が伝わったが、そこに画期的なことは起こらなかった。もともと陸稲稲作という基盤があり、そこに水田による稲作技術が導入された。
水田稲作と言っても、私たちの思い描く水田ではない。もともとの陸稲(熱帯ジャポニカ)と混ざった状態で、しかも耕作と休耕を繰り返す焼畑のような形態だったというのです。稲作民は、耕作してから数年でその土地を放棄して別の地に移り、また耕作を始める、というものだったというのです。
広い水田でイネが風にソヨソヨとゆられるという一般的な田園風景とは、かけ離れてますね。そしてその状況は中世まで続き、近世になってようやく定住して水田を営む形態ができあがった、というのです。
ずいぶんと私たちのもつイメージと異なりますね。
さてその水田稲作すなわち温帯ジャポニカは、どのルートで日本に伝わったのでしょうか?
朝鮮半島ルートなのか、中国大陸から直接なのか?、です。
少し小難しくなりますが、イネ遺伝子DNAにはRMIというSSR領域があります。言ってみればイネの血液型みたいなものです。日本、中国、朝鮮半島のイネ(温帯ジャポニカ)250品種について調査したそうです。250種のイネのなかに8つの変型版があります。これらを、aからhまでの文字をあて、どこに分布しているかを示したのが、下の図です。

(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))
するとたいへんおもしろいことがわかったのです。
中国には8タイプがすべてがあり、多様性があることがわかりました。
朝鮮半島には、bタイプを除く7タイプがありました。
それに対して日本はほとんどがaタイプまたはbタイプに限られてます。
ここからわかることは、”日本に運んでこられたイネの量は、ごくわずかだった”、というのです。なぜかと言えば、もし大量に運んできたのなら、、さまざまなタイプが紛れ込む可能性が高くなり、a或いはbタイプに限られる確率が、きわめて低いものになるからです。
佐藤氏は、RM1以外のSSR領域も調べ、同じ結論を導き出してます。
このことから、渡来ルートについて、
”bタイプの品種は、中国にも日本にも多く存在する。bタイプが朝鮮半島にだけなかった理由は、おそらくそれが中国で生まれ、朝鮮半島を経由せずに直接日本に来たからである”
”一方、aタイプのほうだが、これは朝鮮半島ではメジャーなタイプながら、中国における頻度はそう高くない。このタイプが、朝鮮半島で生まれたかまたは中国で生まれたかは別として、とにかく朝鮮半島から日本にきたことはたしかだろう。”
と推定してます。
ようは、中国から直接渡来したルート(bタイプ)と、朝鮮半島から渡来したルート(aタイプ)の二つである、ということです。
では、日本に渡来したイネ(温帯ジャポニカ)は、その後どのように伝播したのでしょうか?。
佐賀大学の和佐野喜久雄氏は、国内外の遺跡から出土する種子(炭化米)の大きさと形の分析から、日本列島にきたイネ品種に次の三つの波があったとしてます。
■第一波(縄文時代晩期、紀元前7,8世紀ころ、中国の春秋戦国時代)
・朝鮮半島から壱岐(いき)を経由
・粒のごく丸い品種
■第二波(縄文時代歳晩期から弥生時代はじめ、紀元前4,5世紀ころ)
・中国から「北部九州北岸域」に直接渡来
・短粒の品種
■第三波(弥生時代前期から中期、紀元前2,3世紀ころ)
・有明海に入りその後山陰地方から日本海岸に沿って北上
・長粒の品種を中心としたさまざまな変異を含んだ品種
この説は、寺澤薫氏(橿原考古学研究所=当時)の説を参考にしたものと思われる、ということです。寺澤氏の描いた図を載せます。

(「イネの日本史」(佐藤洋一郎))
和佐野氏の説とこの図が、完全に合致しているわけではありません。
たとえば和佐野氏は、第二波は中国からきたとしてますが、上の図では朝鮮半島からきたように見えます。
また第三波はどこから伝搬したのか明確にしてませんし、上の図でもよくわかりません。
そのあたり詳細はいろいろあるところですが、おおまかなルートということで理解したいと思います。
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