イネは語る(4)~熱帯ジャポニカの原産地は?
縄文稲作(熱帯ジャポニカ)は、長江中下流域から、直接あるいは朝鮮半島経由で伝わったとする従来の説のほか、南方から伝わったとする「海上の道」説の可能性もある、とのことでした。

(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)
ここでよく見てください。弥生時代に伝わったとされる温帯ジャポニカは、揚子江下流から、あるいは朝鮮半島経由で日本に伝わったことが示されてます。
一方やや見にくいですが、縄文時代に伝わったとされる熱帯ジャポニカは、南方から「海上の道」で伝わった図になってます。
つまりこの図を見る限り、佐藤氏は、熱帯ジャポニカは南方の「海上の道」で伝わった、としているように見えます。
一方佐藤氏は、「イネの歴史」「イネの日本史」にて、稲作(熱帯ジャポニカ)の起源は、長江中下流域と結論づけてます。
「海上の道」の出発地がどこかは定かでありませんが、地図の西南の方向にあることは明らかです。そうなると、東南アジア島嶼部が挙げられます。
少なくとも長江流域ではないことは明らかです。そうなると整合性がないことになりますが、このあたりについて、著書からは確たることはわかりません。
ところで、2008年7月7日に、Nature Geneticsのonline版で、画期的な研究結果が公開されました。
「コメの大きさを決める遺伝子を発見!日本のお米の起源に新説!」(独)農業生物資源研究所他
です。
以下プレスリリースからの抜粋です。
”お米の粒の幅の決定に関与する遺伝子の一つである、qSW5遺伝子を発見しました。”
”お米の粒の形や大きさは、イネの収量に影響するため、農業にとって重要な形質ですが、どのような遺伝子がお米の粒の形や大きさを決めているかは今まで殆ど知見がありませんでした。今回、お米の粒の幅の決定に関与するqSW5遺伝子を世界で初めて発見し、qSW5が野生イネの栽培化の過程で遺伝子機能を失うことで、日本のお米(ジャポニカイネ)の外側のもみのサイズが約2割増大し、その結果、ジャポニカイネの米粒の幅が大きくなったことを明らかにしました。”
”さらに、様々な地域で栽培されていた約200種の古いイネ品種でqSW5の機能の有無等の遺伝子の変化を調査した結果、従来の学説(長江起源説)とは大きく異なり、ジャポニカイネの起源は東南アジアで、そこから中国へ伝わり、そこで温帯ジャポニカイネが生まれたことを示す結果が得られました。”
”インディカイネでは、qSW5, qSH1,WaxyのDNA変化はほとんど見られませんでしたが、ジャポニカイネでは、いろいろな変化のパターンが見られました。このことは、インディカイネとジャポニカイネは、独立な過程で栽培化が進んだことを示しています。また、比較した3つの遺伝子がオリジナル(変化する前の元の遺伝子)であるタイプのジャポニカイネが東南アジア、特に、インドネシアやフィリピンの在来種に見られることを見出しました。このことは、ジャポニカイネの起源がインドネシアやフィリピンであることを示唆していると考えられます(図2)。
従来、温帯ジャポニカイネの起源は、考古学的な水田遺跡の年代推定や遺跡から見つかったコメの遺物のDNA鑑定から中国の長江流域と考えられていました。今回の解析結果では、qSH1遺伝子の変化をもつ系統が中国や日本でしか見られず、東南アジアでは見つかりませんでした。このことと従来得られている証拠から、1.現在東南アジアで陸稲として栽培されている熱帯ジャポニカイネがジャポニカイネの起源に近い、2.熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた、3.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった、と考えられます(図2)。”
この研究は、イネの収量性の向上を目的としたものですが、そのなかでイネの原産についても判明したわけです。
かなり専門的な内容ですが、結論としては、
1.熱帯ジャポニカイネの起源は、東南アジア(インドネシア・フィリピンなど)である。
2.その熱帯ジャポニカイネが中国に伝わって長江流域で水田化され、温帯ジャポニカイネが生まれた。
3.温帯ジャポニカイネが更に日本に伝わった。
図2 栽培化遺伝子の変化からみたイネの栽培化
3つの栽培化遺伝子(qSW5, qSH1,Wx)が米の幅、穂からのでこぼれ易さ、米のモチモチ感を決定している。赤い矢印は、3つの栽培化遺伝子の変化から推定されるイネの栽培化の流れを示す。
この発表に対して、佐藤氏は否定的です。分析方法が不充分であるというのがその理由ですが、それ以前に、インドネシア・フィリピンには、当時の稲作遺跡が見つかってないことも、大きな根拠になってます。
ところがです。このブログを長らく読まれている方は、ピンときたのではないでしょうか?。
「日本人は、どこからやってきたか? (18) ~ 古代に「海上の道」があった!!②」
にて、かつて東南アジアにあった「スンダランド」の話をしました。
「スンダランド」とは、
”現在ではタイランド湾から南シナ海へかけての海底に没しており、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たる。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。最近では、紀元前70000年頃から紀元前14000年頃にかけてのヴュルム氷河期には陸地であった。紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。”
<スンダランド位置>
(以上Wikipediaより)
つまり、少なくとも14000年前までは、東南アジア島嶼部は陸地でつながっており、温暖化による海面上昇により徐々に陸地が狭まり、紀元前4000年までには完全に水没して、現在の姿になったことになります。
海面上昇は120mにも及んだと推定されてますから、当時の陸地は海面下最大120mに沈んでいるわけです。
当時の熱帯ジャポニカ(陸稲)がどのような場所で栽培されたのか、知るよしもありません。しかしながら、スンダランドにすんでいた人々はもともとは海洋性民族であったと考えられてますから、海岸に近い場所に住み、その近くでイネを栽培した可能性は充分あります。
となると仮にスンダランドでイネ栽培をしていたとしても、その遺構やプラントオパールが見つかる確率はきわめて低いでしょう。稲作の遺構が発見されていないことをもって、稲作が行われていなかった、と拙速に結論づけることはできないと考えます。
また佐藤氏は、分析方法が不充分であるとしてますが、それはあくまで「不充分」なのであって、「誤っている」とまでは言ってません。
このようにみてくると、「稲作(熱帯ジャポニカ)起源=スンダランド」説は充分可能性があるのではないか、と考えます。
もうひとつあります。
この論文では、イネの伝搬について、
東南アジア(熱帯ジャポニカ)
↓
中国長江流域(熱帯ジャポニカ)
↓
中国長江流域(温帯ジャポニカ)
↓
日本(温帯ジャポニカ)
としてます。
一方、日本列島に、縄文時代に熱帯ジャポニカが伝わったのは確実です。
現時点で最古の熱帯ジャポニカは、
・中国 長江河姆渡(かぼと)遺跡の7000年前
・日本 岡山県朝寝鼻貝塚の6400年前
です。
このことから、佐藤氏も
中国長江(熱帯ジャポニカ)
↓
日本(熱帯ジャポニカ)
と推定してます。
ところがもし佐藤氏のいう「海上の道」ルートで伝わったとしたらどうでしょう。わざわざ長江を経由する必要はなく、直接日本にきた可能性が高まります。
つまり、
東南アジア(熱帯ジャポニカ)
↓
日本(熱帯ジャポニカ)
となります。
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