イネは語る(5)~「道上の道」と人の移動とイネの伝播
前回、イネは古代東南アジアにあったスンダランドから直接伝わった、という話をしました。
皆さんのなかにはそれを読んで、日本からみてはるか遠い地域から直接伝わるなどということがあるのだろうか、と思われた方も多いと思います。
ここで改めて、前々回お話した「新・海上の道」を再掲します。「新・海上の道」とは、小田静夫氏(元東京都教育庁文化課職員)の命名で、”柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、「黒曜石」の分析結果から「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列島人の南方渡来説を追跡してきた”ものです。
<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>
石斧の伝搬した時代は、はるかに古く3~4万年前と推定されてますが、その時代からこのような海流を利用した伝播ルートがあったことになります。イネの伝搬は、それと比べればはるかに新しい時代ですが、当然その時代にもこのルートはあったでしょう。
このようにみてくると、熱帯ジャポニカの伝搬ルートは、「海上の道」による
東南アジア(スンダランド)
↓
日本
という可能性が充分ありうることがわかります。
さらに別の観点からみてっましょう。
このようなイネや石斧の伝播、大きく表現すれば「文明の伝播」があったのであれば、当然のことながら人も移動したはずです。
こうした移動は、日本人の成り立ちとどのような関係なのでしょうか?。
まったく関係なしに、「文明の伝播」だけがあったのでしょうか?
そんなはずはありません。当然、人の移動を伴ったはずです。というよりむしろ、人の移動により伝播した、というほうが正確かもしれません。
私たち日本人の祖先がどこからやってきたのか、については様々な説があり、まだよくわかっていません。
北方からやってきたとする説、南方からやってきたとする説、中国朝鮮半島からやってきたとする説など、さまざまです。
有名なものとして「日本人二重構造モデル」があります。埴原和郎東京大学名誉教授が提唱したもので、簡単にいうと、
”東南アジア起源の縄文人という基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された”
というものです。
この説に対しては、その後さまざまな意見が出て、方向性が出ませんでした。ところが近年のY染色体DNA解析技術の向上により、日本人の起源についてさまざまなことがわかってきました。
下の図はそれを示す一例です。
(Family Root DNA による)
A,B・・・などは、ハプログループといい、Y染色体DNAをグループ分けしたものです。父親から息子へは同じハプログループが伝わりますので、それを追いかければ、男性の移動がわかります。
この図をみると、C・Dタイプの人々が、東南アジア(スンダランド)から直接日本列島にやってきたことを示してますね。
もちろんこれは数ある説の一つにすぎませんが、参考になるでしょう。
さらに最近では、核DNAそのものの解析により、
”縄文人はこれまで考えられていたより古い時代に他の東アジア人集団から孤立し、独自の進化をとげた集団である可能性が出てきた。”(「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く(神澤秀明(国立科学博物館)(生命誌ジャーナル)より)
この研究成果はまだ具体的なことまで言及してませんが、少なくとも”日本人が大陸からやってきた、という単純なものではない”、ということを示してます。
となると、”どこか遠いところから大陸を経ずに舟でやってきた”、と考えざるをえません。それはどこからか、となれば、海流に乗って東南アジア方面からやってきた可能性が高いでしょう。
そうだとすれば、それに伴いイネをもってきたと考えても、不自然ではありません。
このようにまだ確定的なことはわかっていないとはいうものの、ここ近年の研究成果は、”イネが東南アジア(スンダランド)からやってきたとする説を充分支持している”と言えるでしょう。
ここでひとつ疑問が浮かびます。
最古の稲作遺跡は、
中国長江流域の浙江(せっこう)省・河姆渡(かぼと)遺跡と羅家角(らかく)遺跡で、約7000年前のものです。
さらに
”中国の国営通信、新華社は22日、中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかった、と伝えた。新華社電によると、これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。” (毎日新聞、2005年1月23日)
との報道もされたところです。
一方、日本では、岡山県の6400年前の朝寝鼻貝塚(岡山県)検出のプラントオパールが最古です。
”長江流域のほうがはるかに古いではないか。それをどう説明するのだ。”
という疑問です。
実は、日本ではそれらよりさらに古いのではないかとされるプラントオパールが見つかってます。
”鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラントオパールが検出されたことから、稲作起源地と想定されている中国長江流域より古い年代が与えられる結果となっている。”’(「九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討」(甲元眞之他、2003年3月31日、熊本大学学術リポジトリより))
この結果に対して、論文ではかなり慎重ですが、それは分析精度が不充分であり断定できない、といった趣旨です。否定しているわけではありません。
そのあたりは今後の科学的成果に期待したいところですが、可能性としては充分あるのではないかと考えます。
そうなると、ではなぜ日本において、もっと多くのプラントオパールや遺構が発見されないのか?、との疑問が浮かびます。
ここで考慮すべき、日本列島に大きな影響を及ぼした自然現象があります。
九州本島の南海底にある「鬼界カルデラ」の巨大噴火です。約7300年前に噴火して、九州南部は最大1mの火山灰で覆われ、火山灰は東北地方にまで達しました。
この噴火により、当時暮らしていた縄文人の生活は、壊滅的な被害を受けました。
<幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり>・・九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。
(Wikipediaより)
当然のことながら、当時の暮らしがわかるものは、すべて厚い火山灰の下に覆われてしまいました。また火山灰は酸性であり、化石などは残りにくいことが知られています。
ですから、1万年以上前などはるか遠い昔のイネのプラントオパールや稲作遺構がみつからなくても、それはやむおえません。
今後、中国でもさらに古いプラントオパールや稲作遺構がみつかることでしょう。日本においても、もしかしたら見つかるかもしれません。
どちらが古いのかの論争は永遠に続くかもしれません。ただし、「海上の道」を考えた場合、どちらに軍配があがってもおかしくないことになります。
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ここで改めて、前々回お話した「新・海上の道」を再掲します。「新・海上の道」とは、小田静夫氏(元東京都教育庁文化課職員)の命名で、”柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、「黒曜石」の分析結果から「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列島人の南方渡来説を追跡してきた”ものです。

<「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(小田静夫著)より>
石斧の伝搬した時代は、はるかに古く3~4万年前と推定されてますが、その時代からこのような海流を利用した伝播ルートがあったことになります。イネの伝搬は、それと比べればはるかに新しい時代ですが、当然その時代にもこのルートはあったでしょう。
このようにみてくると、熱帯ジャポニカの伝搬ルートは、「海上の道」による
東南アジア(スンダランド)
↓
日本
という可能性が充分ありうることがわかります。
さらに別の観点からみてっましょう。
このようなイネや石斧の伝播、大きく表現すれば「文明の伝播」があったのであれば、当然のことながら人も移動したはずです。
こうした移動は、日本人の成り立ちとどのような関係なのでしょうか?。
まったく関係なしに、「文明の伝播」だけがあったのでしょうか?
そんなはずはありません。当然、人の移動を伴ったはずです。というよりむしろ、人の移動により伝播した、というほうが正確かもしれません。
私たち日本人の祖先がどこからやってきたのか、については様々な説があり、まだよくわかっていません。
北方からやってきたとする説、南方からやってきたとする説、中国朝鮮半島からやってきたとする説など、さまざまです。
有名なものとして「日本人二重構造モデル」があります。埴原和郎東京大学名誉教授が提唱したもので、簡単にいうと、
”東南アジア起源の縄文人という基層集団の上に、弥生時代以降、北東アジア起源の渡来系集団が覆いかぶさるように分布して混血することにより現代日本人が形成された”
というものです。
この説に対しては、その後さまざまな意見が出て、方向性が出ませんでした。ところが近年のY染色体DNA解析技術の向上により、日本人の起源についてさまざまなことがわかってきました。
下の図はそれを示す一例です。

(Family Root DNA による)
A,B・・・などは、ハプログループといい、Y染色体DNAをグループ分けしたものです。父親から息子へは同じハプログループが伝わりますので、それを追いかければ、男性の移動がわかります。
この図をみると、C・Dタイプの人々が、東南アジア(スンダランド)から直接日本列島にやってきたことを示してますね。
もちろんこれは数ある説の一つにすぎませんが、参考になるでしょう。
さらに最近では、核DNAそのものの解析により、
”縄文人はこれまで考えられていたより古い時代に他の東アジア人集団から孤立し、独自の進化をとげた集団である可能性が出てきた。”(「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く(神澤秀明(国立科学博物館)(生命誌ジャーナル)より)
この研究成果はまだ具体的なことまで言及してませんが、少なくとも”日本人が大陸からやってきた、という単純なものではない”、ということを示してます。
となると、”どこか遠いところから大陸を経ずに舟でやってきた”、と考えざるをえません。それはどこからか、となれば、海流に乗って東南アジア方面からやってきた可能性が高いでしょう。
そうだとすれば、それに伴いイネをもってきたと考えても、不自然ではありません。
このようにまだ確定的なことはわかっていないとはいうものの、ここ近年の研究成果は、”イネが東南アジア(スンダランド)からやってきたとする説を充分支持している”と言えるでしょう。
ここでひとつ疑問が浮かびます。
最古の稲作遺跡は、
中国長江流域の浙江(せっこう)省・河姆渡(かぼと)遺跡と羅家角(らかく)遺跡で、約7000年前のものです。
さらに
”中国の国営通信、新華社は22日、中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかった、と伝えた。新華社電によると、これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。” (毎日新聞、2005年1月23日)
との報道もされたところです。
一方、日本では、岡山県の6400年前の朝寝鼻貝塚(岡山県)検出のプラントオパールが最古です。
”長江流域のほうがはるかに古いではないか。それをどう説明するのだ。”
という疑問です。
実は、日本ではそれらよりさらに古いのではないかとされるプラントオパールが見つかってます。
”鹿児島県の遺跡では、12000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラントオパールが検出されたことから、稲作起源地と想定されている中国長江流域より古い年代が与えられる結果となっている。”’(「九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討」(甲元眞之他、2003年3月31日、熊本大学学術リポジトリより))
この結果に対して、論文ではかなり慎重ですが、それは分析精度が不充分であり断定できない、といった趣旨です。否定しているわけではありません。
そのあたりは今後の科学的成果に期待したいところですが、可能性としては充分あるのではないかと考えます。
そうなると、ではなぜ日本において、もっと多くのプラントオパールや遺構が発見されないのか?、との疑問が浮かびます。
ここで考慮すべき、日本列島に大きな影響を及ぼした自然現象があります。
九州本島の南海底にある「鬼界カルデラ」の巨大噴火です。約7300年前に噴火して、九州南部は最大1mの火山灰で覆われ、火山灰は東北地方にまで達しました。
この噴火により、当時暮らしていた縄文人の生活は、壊滅的な被害を受けました。
<幸屋火砕流と鬼界アカホヤの広がり>・・九州南部・東部、四国、本州瀬戸内海沿い、および和歌山県で20cm以上あり、広くは朝鮮半島南部や東北地方にも分布する。

(Wikipediaより)
当然のことながら、当時の暮らしがわかるものは、すべて厚い火山灰の下に覆われてしまいました。また火山灰は酸性であり、化石などは残りにくいことが知られています。
ですから、1万年以上前などはるか遠い昔のイネのプラントオパールや稲作遺構がみつからなくても、それはやむおえません。
今後、中国でもさらに古いプラントオパールや稲作遺構がみつかることでしょう。日本においても、もしかしたら見つかるかもしれません。
どちらが古いのかの論争は永遠に続くかもしれません。ただし、「海上の道」を考えた場合、どちらに軍配があがってもおかしくないことになります。
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