纏向遺跡は邪馬台国か?(1)~まずは遺跡の整理から
前回までで、イネ・土器・銅鐸・古墳などのさまざまなデータから、日本古代史の動きを推定してきました。さらにそれらの動きを時系列的・横断的に整理して、史書に記されてい史実と対比させると、興味深い関連性があることも、お話しました。
それらをさらに極めていきたいと考えてます。
今回は、大和(奈良県)の纏向(まきむく)遺跡です。
纏向遺跡といえば、最近遺跡の発掘が進み、時期や規模の大きさ、出土物などから、邪馬台国ではないか、との報道がしばしばされていることは、承知のことと思います。
確かに上の時系列・横断整理表をみても、倭国大乱で卑弥呼が共立され国が治まった時期、青銅器祭祀が衰退し、銅鐸が消滅した時期、前方後円墳が築造され始めた時期、が3世紀前後であり、纏向にて巨大都市が造営され始めた時期と、ほぼ重なります。
こうしたことから、「纏向遺跡=邪馬台国」論に真実性があると捉えられるのも、無理からぬところはあると言えます。
しかしながらその結論は、あまりに拙速でしょう。
邪馬台国の様子は、中国史書「三国志魏志倭人伝」に文化・風習はじめ、事細かに記載されてます。まずそれらと合致しているのか、という問題があります。
また邪馬台国の候補地としては、国内だけでも数多くあるわけで、それらと比較して纏向遺跡が比較優位な条件を備えているのか、という視点も不可欠です。
それらを満たして初めて、「纏向遺跡=邪馬台国」論が真実味を帯びてきます。
魏志倭人伝には、邪馬台国の人口を、7万戸と記載してます。1戸当たり何人かは定かではありませんが、仮に1戸当たり6~7人とすると、42万人~49万人となります。とてつもない巨大都市ですね。
では、邪馬台国があったとされる弥生時代後期(3世紀前後)に、日本に大規模な集落がどれだけあるのかをみてみましょう。
関東以西に限っても、多くの集落があったことがわかります。
規模の大きな遺跡を挙げれば、畿内では、唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡が有名です。
・奈良盆地の中央にある弥生時代前期から古墳時代前期の環濠集落遺跡。外濠を含めた全体では約42ha(万平方メートル)の面積で、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴などの遺構で構成されている。
・出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土してます。
・近畿地方の盟主的な集落と考えられてます(田原本町唐古・鍵総合サイトより)。
<復元楼閣>
(Wikipediaより)
池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の環濠集落で、面積約60haにもわたります。
東奈良遺跡は、大阪府茨木市にある弥生時代前期から中世におよぶ集落址です。範囲は800m四方におよび、銅鐸(どうたく)、銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)の鋳型などが大量に発見され、これら、銅鐸などの製造地です。
一方九州では、吉野ヶ里遺跡が有名です。
・佐賀県神埼郡にある、弥生時代の大規模環濠集落で、面積は約50ha。最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構で、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。
・祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘、墓地は、甕棺、石棺、土坑墓、墳丘墓。
・出土物には、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。(Wikipediaより)
<南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~>
(吉野ヶ里歴史公園HPより)
福岡平野東側には、比恵・那珂遺跡があります。参照資料にはなぜか記載されてませんが、一帯とみなしうる周辺遺跡と合わせて面積は数百haにも及びます。一般的には「奴国」跡とされますが、私は「邪馬台国」ではないかとみてます。詳細はのちほどお話いたします。
他にも、福岡市糸島市の井原・南雲遺跡(約41 ha)、福岡県朝倉市の平塚川添遺跡(約17ha)などあります。
山陰地方では、妻木晩田(むきばんだ)遺跡が大規模遺跡です。鳥取県西伯郡から米子市かけて所在しており、面積は約156haにも及びます。
弥生時代中古末(1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)の遺跡で、弥生時代後期に栄えた古代出雲の中心地と考えらえれてます。
集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されてます。土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している(Wikipediaより)。
(鳥取県大山町役場 観光商工課HP、観光マップより)
あまり知られていませんが、特徴的な遺跡として、滋賀県守山市・栗東市の伊勢遺跡があります。弥生時代後期(紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていた)遺跡で、面積は約30haにも及びます 。
特筆すべきこととして、
・弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
・さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。 建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。
・このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。
・弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。 。(NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)
<伊勢遺跡の建物(復元想像図)、後ろは三上山(近江富士) >
(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏、NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)
また東海地方では、愛知県の朝日遺跡が知られてます。弥生時代の東海地方最大の環濠集落で、面積は80haにも及びます。最古型式である菱環紐式銅鐸の石製鋳型が出土しました。尾張地域を特徴付ける赤彩土器(パレス・スタイル土器)も出土してます。
(朝日遺跡インターネット博物館、愛知県教育委員会HPより)
以上主な弥生時代の集落を紹介しましたが、全国各地に多くの集落遺跡があったことが確認できます。未発掘のものも数多くあると推定されますから、さらに多くの集落があったことでしょう。
ところで、ここまでで纏向遺跡がないことに、あれっと思われたことも多いのではないでしょうか?
実は、纏向遺跡には、大集落跡が未だに発見されてません。そのため、参照した資料に記載されなかったのかもしれません。となると、それだけで「纏向遺跡=邪馬台国」説は成立しなくなるのですが、それではここで話が終わってしまいます。今後の発掘により発見される可能性もあるので、結論づけることはできません。その他の要素もみながら、総合的に推定すべきでしょう。それはのちほど・・・。
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今回は、大和(奈良県)の纏向(まきむく)遺跡です。
纏向遺跡といえば、最近遺跡の発掘が進み、時期や規模の大きさ、出土物などから、邪馬台国ではないか、との報道がしばしばされていることは、承知のことと思います。
確かに上の時系列・横断整理表をみても、倭国大乱で卑弥呼が共立され国が治まった時期、青銅器祭祀が衰退し、銅鐸が消滅した時期、前方後円墳が築造され始めた時期、が3世紀前後であり、纏向にて巨大都市が造営され始めた時期と、ほぼ重なります。
こうしたことから、「纏向遺跡=邪馬台国」論に真実性があると捉えられるのも、無理からぬところはあると言えます。
しかしながらその結論は、あまりに拙速でしょう。
邪馬台国の様子は、中国史書「三国志魏志倭人伝」に文化・風習はじめ、事細かに記載されてます。まずそれらと合致しているのか、という問題があります。
また邪馬台国の候補地としては、国内だけでも数多くあるわけで、それらと比較して纏向遺跡が比較優位な条件を備えているのか、という視点も不可欠です。
それらを満たして初めて、「纏向遺跡=邪馬台国」論が真実味を帯びてきます。
魏志倭人伝には、邪馬台国の人口を、7万戸と記載してます。1戸当たり何人かは定かではありませんが、仮に1戸当たり6~7人とすると、42万人~49万人となります。とてつもない巨大都市ですね。
では、邪馬台国があったとされる弥生時代後期(3世紀前後)に、日本に大規模な集落がどれだけあるのかをみてみましょう。

関東以西に限っても、多くの集落があったことがわかります。
規模の大きな遺跡を挙げれば、畿内では、唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡が有名です。
・奈良盆地の中央にある弥生時代前期から古墳時代前期の環濠集落遺跡。外濠を含めた全体では約42ha(万平方メートル)の面積で、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴などの遺構で構成されている。
・出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土してます。
・近畿地方の盟主的な集落と考えられてます(田原本町唐古・鍵総合サイトより)。
<復元楼閣>

(Wikipediaより)
池上・曽根遺跡は、大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の環濠集落で、面積約60haにもわたります。
東奈良遺跡は、大阪府茨木市にある弥生時代前期から中世におよぶ集落址です。範囲は800m四方におよび、銅鐸(どうたく)、銅戈(どうか)、勾玉(まがたま)の鋳型などが大量に発見され、これら、銅鐸などの製造地です。
一方九州では、吉野ヶ里遺跡が有名です。
・佐賀県神埼郡にある、弥生時代の大規模環濠集落で、面積は約50ha。最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構で、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。
・祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡なども発掘、墓地は、甕棺、石棺、土坑墓、墳丘墓。
・出土物には、多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。(Wikipediaより)
<南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~>

(吉野ヶ里歴史公園HPより)
福岡平野東側には、比恵・那珂遺跡があります。参照資料にはなぜか記載されてませんが、一帯とみなしうる周辺遺跡と合わせて面積は数百haにも及びます。一般的には「奴国」跡とされますが、私は「邪馬台国」ではないかとみてます。詳細はのちほどお話いたします。
他にも、福岡市糸島市の井原・南雲遺跡(約41 ha)、福岡県朝倉市の平塚川添遺跡(約17ha)などあります。
山陰地方では、妻木晩田(むきばんだ)遺跡が大規模遺跡です。鳥取県西伯郡から米子市かけて所在しており、面積は約156haにも及びます。
弥生時代中古末(1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)の遺跡で、弥生時代後期に栄えた古代出雲の中心地と考えらえれてます。
集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されてます。土器、石器(調理具・農工具・狩猟具・武器)、鉄器(農工具・武器)、破鏡等が出土している(Wikipediaより)。

(鳥取県大山町役場 観光商工課HP、観光マップより)
あまり知られていませんが、特徴的な遺跡として、滋賀県守山市・栗東市の伊勢遺跡があります。弥生時代後期(紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えていた)遺跡で、面積は約30haにも及びます 。
特筆すべきこととして、
・弥生後期、近畿地方では、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散するなかで、伊勢遺跡のように巨大化する遺跡は稀です。
・さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見されており、それらが円と方形(発掘はL字形の部分)の組み合わせて計画的に配置されています。直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。そばには楼観が建っています。 建物の型式・配列から見て、巨大な祭祀空間が存在していたと考えられています。伊勢神宮の神明造りや出雲の大社作りとよく似た様式のものがあり、先駆的な建物として関連性が注目されます。
・このような大規模な遺跡であるにも関わらず、大勢の人たちが日常的に生活していたような痕跡が見当たりません。
・弥生時代後期半ばに、何もない扇状地に突然現れて巨大化し、後期末にはその使命を終えます。それは、紀元1世紀後半から2世紀末と考えられ、祭祀空間として栄えるのは 100年程度の短い間です。 。(NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)
<伊勢遺跡の建物(復元想像図)、後ろは三上山(近江富士) >

(CG制作:MKデザイン 小谷正澄氏、NPO法人 守山弥生遺跡研究会HPより)
また東海地方では、愛知県の朝日遺跡が知られてます。弥生時代の東海地方最大の環濠集落で、面積は80haにも及びます。最古型式である菱環紐式銅鐸の石製鋳型が出土しました。尾張地域を特徴付ける赤彩土器(パレス・スタイル土器)も出土してます。

(朝日遺跡インターネット博物館、愛知県教育委員会HPより)
以上主な弥生時代の集落を紹介しましたが、全国各地に多くの集落遺跡があったことが確認できます。未発掘のものも数多くあると推定されますから、さらに多くの集落があったことでしょう。
ところで、ここまでで纏向遺跡がないことに、あれっと思われたことも多いのではないでしょうか?
実は、纏向遺跡には、大集落跡が未だに発見されてません。そのため、参照した資料に記載されなかったのかもしれません。となると、それだけで「纏向遺跡=邪馬台国」説は成立しなくなるのですが、それではここで話が終わってしまいます。今後の発掘により発見される可能性もあるので、結論づけることはできません。その他の要素もみながら、総合的に推定すべきでしょう。それはのちほど・・・。
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