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纏向遺跡は邪馬台国か?(2)~魏志倭人伝が記す「倭国」の詳細

「邪馬台国」がどこなのか?、は日本古代史最大のミステリーと言ってもいいでしょう。前回は、同時代の西日本集落をまとめましたが、多くの遺跡があることがわかります。

ではどこなのかについては、議論百出といったところで、結論が出てません。

それは一つには、「邪馬台国」について最も詳細に記している中国史書「三国志魏志倭人伝」が示す位置が、いかようにでも解釈しうるからからです。実際には丁寧に読み解くと、位置はみえてくるのですが、そのあたりは、
邪馬台国までの道程をたどる(7)~中国史書のルールにしたがえば邪馬台国の位置はここだ!!
にてお話してますので、参照ください。

いずれにしても、今もって結論が出てないのが実情です。

ではそれ以上話が進まないじゃないかとなります。

幸い魏志倭人伝には、邪馬台国について、位置のほかにも文化・風習など事細かに記してます。それらが大きなヒントになります。そこで今回は、そのあたりをまとめてみましょう。

魏志倭人伝の全文から、抜粋します。訳文は、「歴史から消された邪馬台国の謎」(豊田有恒著)を一部修正してます。

A.”山ばかりの島で、国や集落を営んでいる。昔は百国ばかりあって、漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”
【解説】
 ”山ばかりの島”というのは、日本列島内すべてに当てはまりますね。
問題は次の、”漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”です。これは具体的には、後漢書倭伝
建武中元二年(57年)、倭奴国(いなこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫(だいふ)と自称した。倭奴国は、倭国の南界を極めたので、倭奴国の王に印章と下げ綬を賜った。”
を指していると推察されます。
これはCに出てくる”昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた。”との表現に共通してます。

ここから導きだされることは、倭国(倭奴国)は、少なくとも紀元57年から継続している国だということです。
ということは、その都である「邪馬台国」も、紀元後から継続している可能性が高い、ということになります。
もちろん都が移動した可能性もありますが、魏志倭人伝に「都が移動した」という記載はありません。

B.”南へ行くと、邪馬台(壹)国(やまいちこく)に着く。・・・七万戸ちょっとである。”
【解説】
邪馬台国(原文は邪馬壹国)に関する記述です。戸数が七万戸余とあります。一戸当たり何人なのかは定かでありませんが、仮に一戸当たり6~7人とすると、42~49万人と、すさまじい人口になります。

では、邪馬台国はどのくらいの広さだったのでしょうか?。
何も記載されていませんが、推定してみます。
吉野ヶ里遺跡の面積は、外環濠内で約40ha,人口は最大時で1200人程度、クニ全体で5400人程度と推定されてます(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
ここから人口密度は、
1200人 ÷ 40ha = 30 人/ha
となります。
クニの広さがわかりませんが、環濠の面積の10倍の400haと仮定します。
すると、人口密度は、
5400人 ÷ 400ha =13.5 人/ha
となります。
そうしますと、邪馬台国の人口からみた面積は、人口を45万人として
45万人 ÷  13.5人/ha = 約33,000 ha
となります。

これだけではピンとこないかもしれませんが、
福岡市の面積34,100haに匹敵する広さです。
ちなみに福岡市の現在の人口は約150万人ですから、人口密度は
150万人 ÷ 34100ha = 44人/ha
となります。 
そうなると、邪馬台国の人口密度は、現福岡市の3分の1となります。ずいぶんと高い人口密度ですね。もちろん計算の仮定を変えれば、それに応じて変わります。あくまで一つの目安として考えてください。

C.”昔からずっと、この国の使いは、中国へやってくると、みんな大夫だと自称していた。・・・現代の倭人は、潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”
【解説】
前半は、Aで解説したとおりです。後半に注目です。”潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”とあります。明らかに海辺に住み、漁業を盛んに行っていたことを表しています。対海(たいかい)国や末盧(まつろ)国に同様の記載がありますが、邪馬台国を含む倭国全体の様子と理解して差し支えないでしょう。

D.”稲と麻などを栽培している。蚕に桑を与え、絹糸を紡いだりしている。細い麻布や硬めの絹織物や真綿を作る。牛、、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)はいない。”
【解説】
当時の日本では、水田稲作が西日本から東日本へと伝搬してますので、どこでもみられる光景だったでしょう。注目は、「絹」です。すでに蚕から、絹を紡ぎ、絹織物を生産してます。中国に献上していることから、技術水準もある程度のものだったと考えらえれます。
がいないのも注目です。騎馬民族であれば、当然馬を飼い常備してるはずです。ここから、倭人は騎馬民族ではないことがわかります。

E.”武器としては、矛、盾、弓がある。この木の弓は、上半分が長く、下半分が短く、鉄や骨の矢じりを使う。”
【解説】
武器として、をまず挙げてます。鉄矛なのか銅矛なのかはわかりませんが、いずれか或いは両方でしょう。”鉄の鏃を使っていた”とあり、鉄が普及していたことがわかります。

F.”海南島の儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と、共通したところが多いようである。倭国の土地柄は、温暖であるから、一年中、生野菜が食べられる。”
【解説】
文化・風習は”海南島の儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)と共通している”とあります。海南島は中国のかなり南部にある島で、気候温暖です。その文化・風習に共通しているということは、南方からそうした文化・風習をもった人々がやってきた可能性が高いと言えます。

G.”人が死ぬと棺桶には入れるが、槨(かく)はない。埋めてから土を盛って塚を作る。”
【解説】
埋葬の仕方です。棺桶はありますが、その回りをふさぐもの槨(かく、棺の周囲を覆うもの)はない、と記してます。ここまで細かい描写をしたということは、この様式が中国人からみて特殊だと思ったからでしょう。実際、日本の墓地においても、の有無は、地域による大きな特徴となってます。

H.”真珠、青玉が採れる。”
【解説】
青玉は、「碧(へき)玉」ではないか、といわれてます(寺村光晴氏、和洋女子大学名誉教授)。
碧玉(Jasper)とは
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。硬さは石英よりやや低い。比重は 2.6~2.9で不純物が多いほど重い。色やつやにより次の種類がある。赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。緑・青色碧玉島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石とも呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

I.”山では(硫化水銀)がでる。”
【解説】
丹とは、
1 鉱物の一。辰砂(しんしゃ)。
2 赤色の顔料。赤い色。
3 丹砂を配合した不老不死の仙薬。
(デジタル大辞泉)
流化水銀は、国内に多くの産地があります。秦の始皇帝が、水銀を不老不死の仙薬として珍重したことは有名ですね。また墳墓の内部を赤く塗るのにも使われました。魔よけの意味もあったとされます。

J.”物納された税を入れる邸閣(大型倉庫)がある。”
【解説】
高床式の建物と考えられます。弥生時代を象徴する建物ですね。

<吉野ヶ里遺跡復元倉庫>
吉野ヶ里倉庫(Wikipediaより) 

K.”この国は、もともと男を王としていた。一つの都に七、八十年も住みつづけたのち、倭国は内乱になり、何年もの間、お互いに攻撃し合ったりしていた。そこで国々が協議して、一人の女を王に立てた。この女の名を卑弥呼という。”
【解説】
「倭国大乱」の話です。魏志倭人伝には「大乱」とはなってませんが、それはそれとして、大きな戦いがあったことは事実でしょう。

L.”卑弥呼のいる宮殿や楼観には、厳重な城柵がつくってあり、警備兵が武器をもって護衛している。”
【解説】
ものものしい雰囲気が伝わってきます。兵器とは、矛・盾・弓が中心だったでしょうから、そうした武器をもった兵士が護衛していた様子が見えます。

<吉野ヶ里遺跡北内郭想像図>
吉野ヶ里北内郭 
(吉野ヶ里歴史公園HPより)

M.”そこでそなたを親魏倭王に任命しよう。紫の綬(ひも)のついた金印も授けよう。
赤地に二頭の竜をデザインしたを五匹、赤いシャギー・モヘアの布地を十張、茜色の紬を五十匹、紺青の織物を五十匹など、そなたがもたらした貢物に報いてとらせよう。また、そなたには、特に、紺地に模様のついたを三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれを五十斤を、与えることにしよう。”
【解説】
魏の皇帝が卑弥呼に与えた品々です。紫の綬(ひも)のついた金印、錦、絹、刀、銅鏡、真珠等が列挙されてます。ちなみにこの時下賜された銅鏡(いわゆる卑弥呼の鏡)は、古墳から数多く出土している三角縁神獣鏡ではないか、という説があります。しかしながら近年の鉛成分分析等から、三角縁神獣鏡は国産であることがほぼ確実であり、成立しません。

N.”倭王の位を授け、皇帝の命令書をもたらし、刀、鏡などの贈り物を与えた。”
【解説】
M同様です。

N.”倭の女王の卑弥呼は、狗奴国(くなこく)の男王の卑弥狗呼(ひみくこ)と以前から仲がよくなかった。・・・
卑弥呼は死に、大きな盛り土のある墓を造らせた。直径百歩あまりである。男女の奴隷を百人以上も殉葬した。あらためて男の王を立てたが、国中が従おうとしなかった。そのため殺し合いになり、そのとき千人以上も殺した。”

【解説】
卑弥呼と狗奴国との戦い、卑弥呼の死後の動乱と、国中が乱れます。ここでも多くの戦死者が出ました。

O.”かれらは、臺(魏の天子の宮殿および天子直属の中央政庁)にやってきて、男女の奴隷三十人を献上し、真珠五千個、大きな青玉二個、エスニック風デザインの錦二十匹などをもたらした。”
【解説】
卑弥呼のあとを継いだ壹与(いよ)が、魏の皇帝に朝貢した品々です。真珠、青玉、錦が倭国を代表する特産品だったことがうかがえます。錦とは、
”種々の色糸を使って模様を織り出した多彩色の織物の総称。
錦は、『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に異文雑錦(いもんざっきん)・倭錦(わきん)とみえるのが初見であるが、これは当時の事情から推して複雑な織機を使用したものではなく、簡単な縞織に類するものを錦とよんだのであろう。”(日本大百科全書(ニッポニカ))

他にも、動植物に関する記載もありますが、判然としないので、割愛します。

以上から、邪馬台国であるならば、遺跡・出土物には、以下の特徴があることが条件となります。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、33000ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。はいない。
6.、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、
槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。


だいぶイメージが浮かび上がってきました。

では纏向遺跡は、この条件に合致してるでしょうか?

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纏向遺跡は、この条件に合致してるでしょうか

>だいぶイメージが浮かび上がってきました。
 では纏向遺跡は、この条件に合致してるでしょうか?

〇今回の記事は、より包括的、たいへん説得力があります。
 以上の条件から邪馬台国は北九州にあったことは確実と思われます。
 続報が楽しみです。
 草々

何故だか分からないのですが?

お邪魔します(*^▽^*)
興味深く拝見させていただきました。
ありがとうございます。、

ご説明で一つだけ腑に落ちないことがあります。

魏志倭人伝の中の

「女王國東渡海千餘里復有國、皆倭種」

わたしはこの文が大きなのヒントだと思っていますが、
ここには触れられていないようですね。
この文をどういうようにご理解されているのか、
差支えなければお教えください(^◇^)

ちなみに、わたしはこの文から該当する場所は
宇佐しかないと考えています。
三国志の後に書かれた後漢書の編纂者范曄はこの文から、
狗奴国は邪馬台国の南ではなく東と読み取り、
范曄の時代は1里は約450mですから、
彼も女王國(邪馬台国)は纏向から西に1千里ほど
瀬戸内海を渡った宇佐だと認識していますよ(^_-)-☆
もしもお時間があればこちらにもどうぞ(*^。^*)

邪馬台国 水行陸行の謎?(最終回)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20180519

Re: 纏向遺跡は、この条件に合致してるでしょうか

レインボーさんへ

コメントありがとうございます。
とにかく客観的データを可視化して
蓄積したいと思います。
おのずと答えは見えてくるでしょう。

Re: 何故だか分からないのですが?

 刮目天さん

訪問ありがとうございます。
質問の件ですが、難解で解釈が分かれるところです。
すでに概略を書いてますので、お読みください。
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-category-7.html


Re:Re: 何故だか分からないのですが?

お返事ありがとうございます。
ご説明では、
>魏志倭人伝には、「其南有狗奴国」とありますが、どこを起点として南なのかが、はっきりしてません。

とありますが、その前の文に「次奴国有、此女王境界所儘」(次に奴国が有り、ここが女王の領域の尽きるところ)とあるので、「其南」は女王の領域の境界にある奴国のこととはっきり分かりますね。でも「はっきりしてません」とお書きになった意味はどういうことでしょうか?

後漢書の記述と魏志倭人伝の記述が矛盾する狗奴国の位置がはっきりしないということで、今回の記事には無視されたのでしょうか?

でも、その下に
>もしこの東へ海を渡って千里という記載が、確かな根拠に基づくものであるなら、位置特定の大きな手がかりとなります。

とお書きになっているので、逆に後漢書は確かな根拠がないかも知れないから、はっきりしないと思われているのでしょうか?

でも後漢書の編纂者の范曄は恐らく魏志倭人伝の「女王國東渡海千餘里復有國、皆倭種」の倭種の国を狗奴国だと確かな根拠に基づき判断したのだと思いますよ。

というのも、ご存知の通り、後漢書が成立したのは魏志倭人伝成立よりも後の、426年頃と言われていますから、倭の五王の「讃」が南朝の宋に朝貢した421年の直後でもあり、倭国の情報は入手できて、倭王の都がヤマト、つまり邪馬台国と同じ発音だと分かっていたはずです。

そうなると女王の都「邪馬台国」と倭王讃の都の発音が全く同じであるのにも拘らず、後漢書の記述から狗奴国であると認識しているわけですから確かな根拠があると考えて間違いないのではないでしょうか。つまり、狗奴国は女王國の南ではなく東で、しかも海を渡って千里の場所に倭国=狗奴国の都「ヤマト」があるという理解が正しいと思います。そうなると、逆にヤマト(纏向)から西に約450kmくらい瀬戸内海を渡ったところに女王國があると断言しているわけです。つまり、女王國「邪馬台国」の場所は九州東部(宇佐)だと後漢書は明確に述べているとおもいます。

魏志倭人伝が同名の二つの奴国を記載したちょっとした矛盾は、孫栄健が「邪馬台国の全面解決」(ロッコウブックス、1972,p.48)で述べている、いわゆる「春秋の筆法」の中の「微言大義の原理」に従う陳寿の「魏志の筆法」だと理解できます。

Wikiにあるように「若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章に巧みで音律にも通じていた」当代一流の歴史家「范曄」が、陳寿の「魏志の筆法」を読み取れないはずないというのが私の意見です。

詳しくは「邪馬台国 水行陸行の謎?(その4)」https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20180517
に記載しましたので、よろしければぜひご参照いただけると幸いです。
どうも失礼しました( ^)o(^ )

Re: Re:Re: 何故だか分からないのですが?

> >魏志倭人伝には、「其南有狗奴国」とありますが、どこを起点として南なのかが、はっきりしてません。

>その前の文に「次奴国有、此女王境界所儘」(次に奴国が有り、ここが女王の領域の尽きるところ)とあるので、「其南」は女王の領域の境界にある奴国のこととはっきり分かりますね。でも「はっきりしてません」とお書きになった意味はどういうことでしょうか?

そのように解釈することもできます。一方、「其南有狗奴国」の「其の」を「女王国」ととる説もあります。これだけでは何とも言いようがありません。ですから「はっきりしていない」としました。

私は「狗奴国=畿内」という可能性もあると考えます。しかしこの記載だけをもって断定はできないと思います。魏志倭人伝と後漢書の違いは他にもあるわけで、そのあたりどちらが事実なのかをひとつづつ考察していくべきでしょう。






No title

奈良に当てはめるのは非常に苦しいかと思います。
近畿で当てはまるとすると、三重県ですが、古墳の郭なしというのが三重も苦しい。三重は安曇と同じ横穴式なので

Re: No title

dedsさんへ

コメントありがとうございます。

> 奈良に当てはめるのは非常に苦しいかと思います。
> 近畿で当てはまるとすると、三重県ですが、古墳の郭なしというのが三重も苦しい。三重は安曇と同じ横穴式なので

やはり「槨なし」というのがポイントになりそうです。

プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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