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纏向遺跡は邪馬台国か?(3)~纏向遺跡とは

さて、それでは本論である「纏向遺跡」にはいります。

”奈良県桜井市域の北部、JR巻向駅周辺に展開する。3世紀初頭~4世紀前半にかけて存続した。南北約1.5km、東西約2kmにも及ぶ。現在までの調査は、全体面積の5%程度である。”(「邪馬台国ー近畿説の一例 纏向遺跡の調査とその特質」(橋本輝彦、桜井市教育委員会文化財課)より)

面積は約300ha(万㎡)にも及ぶ広大な弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡です。卑弥呼の時代(3世紀前半)にも合致し、遺跡の大きさもさることながら、宮殿ともみなされうる大型建物跡がみつかったことなどから、邪馬台国ではないか、と言われてます。

位置を確認しましょう。

纏向遺跡位置図 
さらに詳しく、奈良盆地での位置をみてみます。
奈良盆地の東南部、山辺の道沿いにあります。大型前方後円墳の集積する柳本古墳群内です。東には古代から信仰されている三輪山があります。
北には大和古墳群があり、物部氏と関わりが深い石上神社があります。
弥生時代の巨大集落として有名な唐古・鍵遺跡は、北東の近い位置にあります。

纏向遺跡というと、土地勘がないと、何となく初代天皇である神武天皇の陵や橿原宮、あるいは蘇我馬子の墓とされる石舞台で有名な明日香村などに近いのかと思ってしまいますが、そうではなく、前者は西南方向、後者は南方向にあり、距離もかなりありますね。

西方向には、葛城氏の拠点とされる、馬見古墳群があります。

また遺跡のさらに北方、現在のJR奈良駅北東には、神功皇后陵などがある佐紀古墳群がありますが、これもかなり距離が離れてます。

纏向遺跡位置


位置を把握したたところで、遺跡の概要をみてみましょう。 
特徴としては、以下の8つが挙げられてます。(「纏向遺跡と初期ヤマト政権」(寺澤薫)を要約)

1.集落規模が極めて大きく、前段階の弥生時代の拠点的な集落の規模をはるかに上回るばかりでなく、同時期の集落でも同等の規模を持つものは皆無であること。

2.弥生時代には過疎地域であった纏向遺跡に3世紀初めに突如として大規模集落が形成されること。また、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致していること。

3.本来近畿の墓の系譜には無い墓制である前方後円墳、纏向型前方後円墳と呼ばれる纏向型石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳などの共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在し、後の古墳祭祀に続く主要な要素をすでに完成させていたこと。

4.農具である鍬の出土量が極めて少なく、土木工事用の鋤などが多く出土しており、農業を営む一般集落懸離れた様相を呈していること。遺跡内の調査では未だ水田・畑跡が確認されていないことなどを考え合わせると農業をほとんど営んでいない可能性があること。

5.吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。孤帯文様を持つものは吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展したものであり、纏向遺跡ではこれらの祭式が直接古墳や集落での祭祀に取り入れられた可能性が高いこと。

6.他地域から運び込まれた土器が全体の15~30パーセント前後を占め、量的に極めて多いこと。そして、その範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からであること。

7.奈良盆地東南部という各地域への交通の要所に位置し、搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能をもった「大市」の存在が推定されること。

8.建物の中にほぼ真北方向に構築され、柵をめぐらし、付属建物を配する極めて特殊な掘立柱建物が存在すること。

等の要素が挙げられ、「新たに編成された政権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」と位置づけられるに至っている。


注目の一つは、「3世紀初めに突如として出現した集落であること」でしょう。これが卑弥呼の時代とほぼ重なることから、邪馬台国説の大きな論拠となってます。しかしながら、邪馬台国は少なくとも紀元前後から存在していたと考えられるわけですから、それとの整合はどうなのか、という問題が出てきます。別の場所から移動してきた、と考えるよりありませんが、ではどこからやってきたのか、が不明です。

ここには記載されてませんが、4世紀初頭頃には、忽然と遺跡がなくなります。つまり纏向遺跡というのは、わずか100年ほどの短い期間の遺跡です。では彼らはどこへ行ったのか?、という謎が残ります。

次の注目は、前方後円墳、纏向型前方後円墳を、「本来近畿の墓の系譜には無い墓制である」としている点です。墓制といものは、先祖代々引き継ぐものですから、それが近畿にないということはすなわち、纏向型前方後円墳のルーツは「近畿以外」ということになります。

ではどこか?、については、5に大きなヒントがあります。
「吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。」とあることから、吉備地域もしくは吉備地域と強い関係をもった地域からやってきた、と考えるのが自然でしょう。

次の注目は、「農具である鍬が少なく土木工事用の鋤が多こと、水田・畑が発見されていない」ことです。つまり、まったく農業を行わない遺跡、ということになります。となると、住んでいた人々の食料はどこから供給されたのか、という点も不明です。さらに今後の発掘状況にもよりますが、それほど多くの人々が生活していなかったのではないか?、ということにもなりえます。

また、「他地域からの搬入土器が多い」とあります。実は搬入土器の多くは炊飯用の甕とのことです。そこから当時の纏向遺跡の人に出会えば、1.5人~3人は外来の人が居たと推定されます。
また住居も、当時一般的であった竪穴式住居は確認されておらず、高床式の建物や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性が高いとのことです(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。

農業がまったく行われおらず、土木用の鋤が多い、土器も外来が多い、となると、出稼ぎでやってきた人たちが造った都市、というイメージですね。しかも竪穴式住居もないとなると、何となく人の生活の匂いが感じられない気もしますね。

なお橋本氏は、纏向遺跡について、
吉備などの祭りの道具立てを取り入れて纏向遺跡の中で古墳の祭祀を行ったり集落の祭祀を行ったり、そういうことがおこなわれている。あるいは近畿の中にもともとない墓制であるはずの前方後円墳の墓も吉備、瀬戸内海を中心とする弥生後期の墓制ですし、葺き石を葺く様なやり方もやはり近畿に元々ない、埋葬施設に鏡を納めるような風習も九州地域で多くみられたもので元々は近畿にない。そういった点を見ていきますと、この吉備地域からの孤文を用いたり祭りの道具に代表されるように、纏向遺跡の墓制、あるいは集落内における祭祀の様式に国内の他地域の要素というものが色濃く取り入れられ、祭祀のスタイルが完成されている。このことは大和が当時の社会の中で圧倒的に優位で、大和がほかの地域を制圧したという考えではなくて他の地域と協調関係・連合関係の中で纏向遺跡というものがつくりあげられたのではないかというふうに言われてます。”(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。

と述べてます。ずいぶんと一般的なイメージと違うのではないでしょうか?。こうした考えが、実際に纏向遺跡の発掘調査をしている方から発せられていることは注目です。

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No title

初めまして、失礼いたします。

纒向遺跡、特にその墓制について吉備の影響を述べられていますが、より大きな影響として、2世紀の糸島の平原王墓の直接の後継だったのでは?
割り竹型木棺に大量の朱、鏡の大量埋納等、BC1~2世紀に北部九州の王墓の後継は間違いなく、纒向に現れた、3世紀1~2四半期の纒向型前方後円墳で、その集大成が、250~260年前後に位置付けられる、箸墓古墳でしょう。

特に平原王墓に5面埋納され、王者の鏡ともされる、超大型内行花文鏡の存在は?
大和の初期古墳においても、下池山古墳、柳本大塚古墳等、3番手4番手の古墳の埋葬施設に特別に収められている等(平原の規模には及びませんが)。
おそらく、初期古墳の中の陵墓の中にも平原に匹敵するか、それを上回る超大型内行花文鏡が収められているでしょう。

3世紀第3~4四半期に比定される初期古墳は箸墓古墳を頂点に100M超の大和の古墳、一部の吉備を除いた北部九州~関東~南東北に中小型古墳が出現する様・・・・特に筑前に箸墓古墳の4分の一規模の那珂八幡山古墳が現れる事は、3世紀には北部九州~南東北まで、大和による統一がなされていると考えるのが自然では?

古墳はその出現期において、見事に階層化され、終末期に至るまで畿内の王権の規模を上回る事は一度も無かった。
この事からも邪馬台国は則ち大和であり、大和朝廷としか考えられないのでは?

また、糸島の王権が大和へ移動する様は原田大六氏が述べられている、2世紀の神武東征が妥当性が高いのでは?
(自分の考えはやや異なりますが・・・・)

考古学の立場では九州の研究者を含めて、ほぼ邪馬台国大和説で一致している現状です。

長文失礼しました。

Re: No title

花内眞一さんへ

コメントありがとうございます。

> 纒向遺跡、特にその墓制について吉備の影響を述べられていますが、より大きな影響として、2世紀の糸島の平原王墓の直接の後継だったのでは?

私も九州北部の後継の可能性ありとみてます。

> 大和の初期古墳においても、下池山古墳、柳本大塚古墳等、3番手4番手の古墳の埋葬施設に特別に収められている等(平原の規模には及びませんが)。
> おそらく、初期古墳の中の陵墓の中にも平原に匹敵するか、それを上回る超大型内行花文鏡が収められているでしょう。

下池山古墳、柳本大塚古墳に鏡があるから即、邪馬台国と結びつけることは早計です。内行花文鏡は国産説があり、三角縁神獣鏡とは結論できません。また何より「槨」があり、魏志倭人伝にある「槨なし」に合致しません。

> 古墳はその出現期において、見事に階層化され、終末期に至るまで畿内の王権の規模を上回る事は一度も無かった。

それが成立してないことはすでに書いてます。
https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-193.html

> 考古学の立場では九州の研究者を含めて、ほぼ邪馬台国大和説で一致している現状です。

何をもってそのように言われるのかわかりませんが、少なくとも私は多数決で真実を判定するという立場はとってません。
ちなみに吉野ヶ里遺跡の発掘に携わった高島忠平氏(佐賀女子短大元学長)は、邪馬台国九州説です。また長年纏向遺跡発掘に携わった関川尚功氏(元橿原考古学研究所)でさえ邪馬台国畿内説に疑問を呈してます。


No title

早速のコメントありがとうございます。

当方の考え方で、何点か述べていきたいと思います。

まずは、「棺あれど槨無し」は庶民について述べたもので、古墳に葬られるような権力者に及ばないと考えています。
現に2世紀の平原王墓には槨が有り、莫大な副葬品が収められています。畿内であれ、九州であれ権力者の墓に槨が無い例はほぼ無いのでは?

鏡の問題で、鏡には明らかに序列が有り、最高位の鏡は和製の超大型内行花文鏡では?
それに続くのは精緻な舶載鏡、特に日中で伴に出土する画文帯神獣鏡こそが卑弥呼が下賜された銅鏡100面の可能性が高いと考えています。
問題の三角縁神獣鏡は倭が帯方郡等、辺境の郡に葬具用として発注した交易品ではと考えています。
現状、三角縁神獣鏡は600面以上出土しており、おそらく数千面以上作成されたでしょう。
三角縁神獣鏡は雑な作りが多く、まさに大量生産品でしょう。
黒塚古墳やホケノ山古墳の埋葬方法からも舶載の画文帯神獣鏡の扱われ方の差がわかると思いますが。

筑前における最古級で最大の那珂八幡山古墳が全長で箸墓古墳の4分の1、体積で約64分の1であり、副葬品が1面の三角縁神獣鏡と僅かな玉類等、その差は歴然で、三角縁神獣鏡自体が大和より下賜されていると考えられています。
那珂八幡山古墳は那賀川沿い、奴国の中心遺跡にある事から、大和の配下と考えるのが自然でしょう。

また、弥生時代の糸島の三雲南小路遺跡~平原王墓の時代は北部九州にのみ王墓が有りますが、平原王墓以降、北部九州にはまったく王墓が存在しない事から、邪馬台国九州説には誤謬としか考えられません。

個人的に福岡を中心に何件かの博物館の学芸員の方と話し合った限りにおいても皆、邪馬台国大和説でした。
むしろ、熱心に活動してくださってるボランティアの方に悪くて邪馬台国大和説は話しにくいと言っておられました(九州のボランティアの方は九州説ですので)。
学芸員の方は孤立無援状態の高島さんを気の毒がってましたね。

主に考古学方面から述べましたが、倭人伝の内容からも、大和説を支持すると考えています。

北部九州の考古学の最新の成果は市立の博物館とも思えない程、素晴らしい図録を毎年発行している伊都国歴史博物館の図録をおすすめします。

最後に不躾な内容で申し訳ございません。

外来土器について

非常に重要な遺跡について整理していただきありがとうございます。
しかし、コメントのタイトルの件ですが、Wikiやその他の資料でも九州のものはないといった方が良いようです。

搬入土器の出身地割合(Wiki「纏向遺跡」より)
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系     : 10%
吉備系     : 7%
近江系     : 5%
関東系     : 5%
播磨系     : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系     : 1%

このことは纏向遺跡が邪馬台国でないということを端的に示すものです。

つまり、魏志倭人伝では伊都国に一大率を置いて女王への貢物をチェックするなどの役目があります。伊都国の間を大率やその部下らが邪馬台国である纏向にやって来ないなどということは考えられません。

その他にも、鉄鏃が北部九州に比べて極端に少ないとか、墓が棺あって槨なしなど、倭人伝の記述に合致しませんから、纏向が邪馬台国でないということがわかります。ちなみに、卑弥呼の墓も倭人伝にはただ径百歩余(直径約140m)の円形だということしかなく、前方後円墳だったとは書かれてません。

九州以外の人々、しかも掘立柱建物で生活する各地の首長クラスが集まった大規模な政治都市が邪馬台国時代の纏向に突然登場するわけですから、九州がのけ者にされていることがわかり、九州の邪馬台国に対抗するためにできたものだと容易に分かります。

さらに、邪馬台国と敵対する勢力は倭人伝には狗奴国しか書かれていないので、狗奴国であると推理できます。

倭人伝では邪馬台国の南にあると書いていますが、これは前回コメントさせていただいたとおり、「後漢書東夷伝倭条」の女王国から東に海を渡り1千里余(約450km)で狗奴国に至るという記事を考古学的に支える証拠ですから、倭人伝の記述が誤りで(政治的な理由から)、女王國(邪馬台国)は纏向の狗奴国の西、つまり九州東部(宇佐)に在ったことを示す証拠になります。

この点について、どのように考えられるのか?もしも反論がいただければ、是非お教えください。

これらのことを認めれば、邪馬台国の位置の問題も、卑弥呼が誰だったか、ヤマト王権成立の謎もほとんどすべて解明できます。お時間があれば、こちらへもどうぞ(*^-^*)

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20180320

邪馬台国 水行陸行の謎?(その1) からどうぞ(*^▽^*)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20180514

No title

失礼いたします。

邪馬台国について自分の考えを全て述べるのは労力的にも大変なので、ポイント毎に何点かお答えしたいと思います。

纒向に多数の外来土器がある点は、纒向が日本最初の都であった為だと考えています。
律令制の元で、納税の運搬は自弁、則ち地方から都まで貢納物を自ら輸送した。
また都の建設、そして古墳の造営等の労役等の為多数の民が都に集住した結果だと思います。
3世紀の倭は未熟ながら、すでに中央集権国家の段階だったと考えています。
為に律令国家に近い体制だったと考えられます。
ただ、まだ未熟な状態だった為、その最大の供給源は大和に近い、東海・伊勢だったのでは?
後、皇室の最も重要な祭祀対象が伊勢神宮と熱田神宮であるヒントがここにあるのではないでしょうか。

中央集権体制は後の歴史でも、集中と弛緩を繰り返し、纒向の後弛緩し、仁徳天皇の時代、強化されたのでしょう。
仁徳天皇の時代が朝鮮へ大軍を派遣し、時代としても高句麗好太王碑文の時代で、軍事的緊張が中央集権を強化したのでしょう。
その後、弛緩の後に律令国家の時代に最大限の集権化をもたらしたと考えています。

倭人伝でも国には官と副を置き、少なくとも魏使の目には郡太守の如き中央派遣の官僚と認識した点を注目すべきと思います。
特に一大卒を刺史の如きと言っている点、郡太守を監察すべき役職としての刺史の役割と上手く合致します。

大和にとって何より重要なのは、鉄資源や舶載品を移入する為の玄界灘諸国を確実に掌握する事だった筈です。
また、国毎の副に対馬・壱岐・奴・不弥に卑奴母離則ち鄙守、則ち辺境守備を置いている点、とても北部九州に王都が有ったとは考えられません。

そして狗奴国の位置、倭人伝には女王国の境の尽きる所、奴国の南となっています、筑前の南筑後川以南の記紀の熊襲そのものでしょう。
狗奴と熊はほぼ同音である上、狗奴国の官、ククチヒコは菊地彦と考えていいのでは。
纒向遺跡に九州系の土器の少なさは距離もありますが、九州の大部分は狗奴国の勢力下にあり、記紀による限り、大和が熊襲を制するのは4世紀と考えられます。

また、吉野ヶ里は狗奴国から玄界灘諸国を守る為の軍事拠点だったのではと考えています。
吉野ヶ里遺跡は明らかに南への備えの位置に有ります。
背振山地と筑後川によって南からの侵攻に備えていたと考えています。
また、吉野ヶ里遺跡の埋葬者の戦死者の多さも間接的に支持するのでは?

最後に魏使のルートとしては日本海を進んだと考えています、不弥国より水行20日の投馬国は出雲で、ツマはイツモの音の変化。
さらに水行10日で丹後付近、さらに陸行1月で大和に至ったと考えています。

Re: No title

花内眞一さんへ

事実と花内さんの推測が混ざっておりわかりにくいので、整理する必要があります。今回は冒頭だけにします。

> まずは、「棺あれど槨無し」は庶民について述べたもので、古墳に葬られるような権力者に及ばないと考えています。

このように考える根拠は何でしょうか?。魏志倭人伝には「庶民の墓は」と限定的には記載されてません。逆に卑弥呼の墓に「槨あり」とも記載されてません。

> 現に2世紀の平原王墓には槨が有り、莫大な副葬品が収められています。畿内であれ、九州であれ権力者の墓に槨が無い例はほぼ無いのでは?

平原古墳(1号墳)は「割竹型木棺」であり、明確な槨は検出されてません。何を根拠に「槨有り」としているのでしょうか?
また当時の九州北部の墓は槨がないのが一般的です。「九州であれ権力者の墓に槨が無い例はほぼ無いのでは?」とされる根拠を教えてください。


Re: 外来土器について

> 倭人伝では邪馬台国の南にあると書いていますが、これは前回コメントさせていただいたとおり、「後漢書東夷伝倭条」の女王国から東に海を渡り1千里余(約450km)で狗奴国に至るという記事を考古学的に支える証拠ですから、倭人伝の記述が誤りで(政治的な理由から)、女王國(邪馬台国)は纏向の狗奴国の西、つまり九州東部(宇佐)に在ったことを示す証拠になります。

女王国の位置は、あくまで魏志倭人伝等の中国史書から導くべきと考えます。
宇佐が古代史上重要であったことは事実でしょうが、紀元前後から3世紀前半までの遺跡が乏しいですね。邪馬台国にふさわしい遺構はじめ遺物、副葬品も出ていないといわざるを得ませんね。

Re::Re: 外来土器について

ご意見、感謝します。
>女王国の位置は、あくまで魏志倭人伝等の中国史書から導くべきと考えます。

わからないのですが、「後漢書 東夷伝倭条」は中国史書ですね。このシナの正史が、邪馬台国の位置が九州東部(宇佐)だと示しているという主張なのですが。

>宇佐が古代史上重要であったことは事実でしょうが、紀元前後から3世紀前半までの遺跡が乏しいですね。邪馬台国にふさわしい遺構はじめ遺物、副葬品も出ていないといわざるを得ませんね。

魏志倭人伝は西晋の宣帝司馬懿の偉業を称えるために作成された極めて政治性の強い文書であることは、東洋史の岡田英弘さんが指摘しています。詳しい説明は拙ブログ【新説】邪馬台国はここだ!(その2)陳寿の事情 
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20161212
に説明していますので、ご参照いただけると幸いです。

したがって、邪馬台国が実際よりも誇張されて書かれた可能性は大です。一番の誇張はその位置ですね。帯方郡から東南一万二千余里という途轍もない法螺ですからわかります( ^)o(^ )

さらに、会稽郡の東方海上にあってライバルの呉を挟み撃ちにできる位置にある強大な国としていることも同じ目的だと分かります。当時戦乱で魏の都洛陽が十万戸まで激減していたので、邪馬台国を7万戸、女王国から北のその他の国を含めると15万戸程ということにしたかったと推理しました。だから、戸数をそのまま信じて邪馬台国の遺跡も日本最大級だと考えるのは陳寿たちの罠に陥りますよ( ^)o(^ )

拙ブログ「邪馬台国 水行陸行の謎?」に詳しく書きましたが、魏志倭人伝の行程記事、それ以外の記事、そしてシナの歴史書、さらに考古学に基づく当時の地政学的考察と、最後に、日本の正史「日本書紀」と神社伝承に基づいて、卑弥呼の居城が宇佐市安心院町三柱山という結論を出しました。

そこには、卑弥呼の墓と考えられる円墳を含む8個の石棺群が見つかっています。残念ながら、卑弥呼の墓は副葬品ごと、妻垣神社(一柱謄宮)に移され、最後に宇佐神宮本殿下の亀山に移されている模様です。それ以外の石棺群の副葬品で一番めぼしいものは大平石棺群ですが、銅鏡や鉄検や玉類が見つかっています(遺跡ウォーカー参照)。

恐らく卑弥呼が第一次倭国大乱の戦乱を逃れて宗像より避難して女王になる前の王の墓だと思われます。あるいは卑弥呼の父親か?

その石棺群の南側に、弥生後期の宮ノ原遺跡があります。この中の三女神社が卑弥呼の宮室と思われ、南側は深見川を挟んで日本一美しいと司馬遼太郎が絶賛した安心院盆地が広がっています。遺跡にはV字溝が発見されていますので環濠集落でしょう。その中に湧水や河原に天然温泉が湧き出ています。また、遺跡から濁り酒を呑むための土製のおちょこも発見され、すっぽんが獲れますので、快適に生活できる女王にふさわしい居城だと思います(*^▽^*)

吉野ヶ里や纏向のような大規模集落を想定していると陳寿たちの罠にはまってしまい、いつまでたっても見つからないと思いますよ。よろしければ、拙ブログへもお越しいただき、議論してください(*^o^*)

Re: Re::Re: 外来土器について

刮目天さんへ

議論がかみ合わないと思ってましたが、その理由がわかりました。
そもそものスタンスが大きく異なるわけです。私は魏志倭人伝の記載が、すべてとは言わないまでも、かなりの部分信憑性が高いものと考え、理論構築してます。一方、貴殿は、そうではないわけです。
この件に関して議論することは、それはそれで意味があるのかもしれませんが、その時間的余裕もないので、ここいらで回答を終わりにしたいと思います。

ただし素朴な疑問が残ります。

> 魏志倭人伝は西晋の宣帝司馬懿の偉業を称えるために作成された極めて政治性の強い文書であることは、東洋史の岡田英弘さんが指摘しています。>
> したがって、邪馬台国が実際よりも誇張されて書かれた可能性は大です。一番の誇張はその位置ですね。帯方郡から東南一万二千余里という途轍もない法螺ですからわかります
>
> さらに、会稽郡の東方海上にあってライバルの呉を挟み撃ちにできる位置にある強大な国としていることも同じ目的だと分かります。当時戦乱で魏の都洛陽が十万戸まで激減していたので、邪馬台国を7万戸、女王国から北のその他の国を含めると15万戸程ということにしたかったと推理しました。だから、戸数をそのまま信じて邪馬台国の遺跡も日本最大級だと考えるのは陳寿たちの罠に陥りますよ

とあります。貴殿は、「魏志倭人伝は西晋の宣帝司馬懿の偉業を称えるために作成された極めて政治性の強い文書である」としてます。それはそれで結構ですが、そうなると、何を基準に、真実と誇張を峻別しているのでしょうか?

たとえばもし貴殿の言うとおりなら、
「そもそも邪馬台国などなかったが、西晋の宣帝司馬懿の偉業を称えるために捏造したのだ。」
と言うこともできます。
同じように
「狗奴国をでっちあげ、あたかも邪馬台国と戦いがあったように書いたのだ。」
とも言えるわけです。

またなぜ帯方郡から東南一万二千余里について「途轍もない法螺」と言えるのでしょうか。
貴殿は後漢書が正しいとしているようですが、後漢書にも「楽浪郡徼去其國萬二千里」とありますが、それとの整合性はどのように考えているのでしょうか?

なお後漢書では、邪馬台国の位置を、朱崖、儋耳に近い、としてますが、宇佐の位置との関係はどう解釈しているのでしょうか?

以上です。

Re: Re: Re::Re: 外来土器について

お忙しい中、誠意あるご回答をありがとうございます。

>この件に関して議論することは、それはそれで意味があるのかもしれませんが、その時間的余裕もないので、ここいらで回答を終わりにしたいと思います。

ご疑問を教えていただいたこと、心から感謝します。
折角の有り難い機会ですので、ご迷惑かもしれませんが見解を述べさせてください。

>「狗奴国をでっちあげ、あたかも邪馬台国と戦いがあったように書いたのだ。」
とも言えるわけです。

それは狗奴国をでっち上げる理由がないので、狗奴国の存在を否定できません。むしろ、その後歴史から邪馬台国が消えたことで、敵対する狗奴国の存在が証明されていると思います。

もしも狗奴国が虚構だと言える証拠となるものが見つかれば話は別ですが、そういう証拠は今のところないと思います。ですから、邪馬台国すら存在しないという説にはわたしも青松様と同様に到底、組することができません( ^)o(^ )

つまり、陳寿や二人の魏使や帯方郡太守、そして一番切実な思いで、シナの朝廷の目を引くような女王国として魏に朝貢させた伊都国の男王たちには、邪馬台国が会稽郡の東方海上に存在することが重要だということです。そのために倭人伝が書かれたと言っても過言でないと思います。それによって魏のライバルの呉を圧迫する位置にある大国の倭国を魏の支配下にしたということが司馬懿を大いに称えることになるからです。

ですから倭人の物産は「朱崖・儋耳」に近いものだという記事は倭人伝の記述の説得力を増すためだと思います。その他の記述も同様に説得力を持たせるためだと思われます(ほとんどは魏使が目にしたり倭人から聞いたものを報告書にまとめたものなのでしょう。ただし、女王國は本当に女王が倭国の全権を支配していたのではなく、外交や軍事は伊都国男王が実権を握っていたのだと考えています。何故なら、伊都国だけに男王が居て、丁度年代的にも107年に後漢明帝に朝貢した帥升王の孫かひ孫でしょうから、彼が女王を共立した一方の勢力だと分かりますね)。

だから范曄が女王国(邪馬台国)の実際の位置を、「朱崖・儋耳」(福建省の南の海南島付近)から遠く離れた、范曄の時代の倭国王都ヤマト(纏向)である狗奴国の西に渡海千余里という正しい位置の記述をしたところで、范曄や当時のシナ人にとっては、日本地図を正確に頭に描いていたわけではないので、なんら矛盾を感じなかったということだと考えます。

それというのも「後漢書」に、倭人伝に描かれた倭人の物産だけでなく、倭人の制度や習俗も「朱崖、儋耳」と似たようなものだと明記しているのです。これについては、范曄はすでに陳寿が参考にしたかもしれない「三国志」の少し前に成立したと思われる「魏略」の、「倭人が太伯の後」という記述を知っていた可能性が高いからです。なぜなら、7世紀に完成した梁書や晋書にその記述がみられるからです。

つまり、狗奴国が旧奴国王族の国であり、そのルーツが、473年に越に滅ぼされた呉王族であり、越の王族と同じ夏華人でもあるので、越の支配下であった「朱崖・儋耳」と習俗も制度も似ているだろうと倭人伝の記述も頭に入れて書いているからです。ですから、范曄には現代人のような正確な地図を持っていないが、当時の知識から「朱崖・儋耳」に言及したのだと思います。

もしもお時間ができたらわたしのブログに訪問していただき、その他の疑問など、ご意見を頂戴できれば大変有り難いと思います。どうぞよろしくお願いいたします(*^▽^*)
プロフィール

青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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中国通史で辿る名言・故事探訪

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