纏向遺跡は邪馬台国か?(3)~纏向遺跡とは
さて、それでは本論である「纏向遺跡」にはいります。
”奈良県桜井市域の北部、JR巻向駅周辺に展開する。3世紀初頭~4世紀前半にかけて存続した。南北約1.5km、東西約2kmにも及ぶ。現在までの調査は、全体面積の5%程度である。”(「邪馬台国ー近畿説の一例 纏向遺跡の調査とその特質」(橋本輝彦、桜井市教育委員会文化財課)より)
面積は約300ha(万㎡)にも及ぶ広大な弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡です。卑弥呼の時代(3世紀前半)にも合致し、遺跡の大きさもさることながら、宮殿ともみなされうる大型建物跡がみつかったことなどから、邪馬台国ではないか、と言われてます。
位置を確認しましょう。
さらに詳しく、奈良盆地での位置をみてみます。
奈良盆地の東南部、山辺の道沿いにあります。大型前方後円墳の集積する柳本古墳群内です。東には古代から信仰されている三輪山があります。
北には大和古墳群があり、物部氏と関わりが深い石上神社があります。
弥生時代の巨大集落として有名な唐古・鍵遺跡は、北東の近い位置にあります。
纏向遺跡というと、土地勘がないと、何となく初代天皇である神武天皇の陵や橿原宮、あるいは蘇我馬子の墓とされる石舞台で有名な明日香村などに近いのかと思ってしまいますが、そうではなく、前者は西南方向、後者は南方向にあり、距離もかなりありますね。
西方向には、葛城氏の拠点とされる、馬見古墳群があります。
また遺跡のさらに北方、現在のJR奈良駅北東には、神功皇后陵などがある佐紀古墳群がありますが、これもかなり距離が離れてます。
位置を把握したたところで、遺跡の概要をみてみましょう。
特徴としては、以下の8つが挙げられてます。(「纏向遺跡と初期ヤマト政権」(寺澤薫)を要約)
1.集落規模が極めて大きく、前段階の弥生時代の拠点的な集落の規模をはるかに上回るばかりでなく、同時期の集落でも同等の規模を持つものは皆無であること。
2.弥生時代には過疎地域であった纏向遺跡に3世紀初めに突如として大規模集落が形成されること。また、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致していること。
3.本来近畿の墓の系譜には無い墓制である前方後円墳、纏向型前方後円墳と呼ばれる纏向型石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳などの共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在し、後の古墳祭祀に続く主要な要素をすでに完成させていたこと。
4.農具である鍬の出土量が極めて少なく、土木工事用の鋤などが多く出土しており、農業を営む一般集落懸離れた様相を呈していること。遺跡内の調査では未だ水田・畑跡が確認されていないことなどを考え合わせると農業をほとんど営んでいない可能性があること。
5.吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。孤帯文様を持つものは吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展したものであり、纏向遺跡ではこれらの祭式が直接古墳や集落での祭祀に取り入れられた可能性が高いこと。
6.他地域から運び込まれた土器が全体の15~30パーセント前後を占め、量的に極めて多いこと。そして、その範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からであること。
7.奈良盆地東南部という各地域への交通の要所に位置し、搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能をもった「大市」の存在が推定されること。
8.建物の中にほぼ真北方向に構築され、柵をめぐらし、付属建物を配する極めて特殊な掘立柱建物が存在すること。
等の要素が挙げられ、「新たに編成された政権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」と位置づけられるに至っている。
注目の一つは、「3世紀初めに突如として出現した集落であること」でしょう。これが卑弥呼の時代とほぼ重なることから、邪馬台国説の大きな論拠となってます。しかしながら、邪馬台国は少なくとも紀元前後から存在していたと考えられるわけですから、それとの整合はどうなのか、という問題が出てきます。別の場所から移動してきた、と考えるよりありませんが、ではどこからやってきたのか、が不明です。
ここには記載されてませんが、4世紀初頭頃には、忽然と遺跡がなくなります。つまり纏向遺跡というのは、わずか100年ほどの短い期間の遺跡です。では彼らはどこへ行ったのか?、という謎が残ります。
次の注目は、前方後円墳、纏向型前方後円墳を、「本来近畿の墓の系譜には無い墓制である」としている点です。墓制といものは、先祖代々引き継ぐものですから、それが近畿にないということはすなわち、纏向型前方後円墳のルーツは「近畿以外」ということになります。
ではどこか?、については、5に大きなヒントがあります。
「吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。」とあることから、吉備地域もしくは吉備地域と強い関係をもった地域からやってきた、と考えるのが自然でしょう。
次の注目は、「農具である鍬が少なく土木工事用の鋤が多こと、水田・畑が発見されていない」ことです。つまり、まったく農業を行わない遺跡、ということになります。となると、住んでいた人々の食料はどこから供給されたのか、という点も不明です。さらに今後の発掘状況にもよりますが、それほど多くの人々が生活していなかったのではないか?、ということにもなりえます。
また、「他地域からの搬入土器が多い」とあります。実は搬入土器の多くは炊飯用の甕とのことです。そこから当時の纏向遺跡の人に出会えば、1.5人~3人は外来の人が居たと推定されます。
また住居も、当時一般的であった竪穴式住居は確認されておらず、高床式の建物や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性が高いとのことです(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。
農業がまったく行われおらず、土木用の鋤が多い、土器も外来が多い、となると、出稼ぎでやってきた人たちが造った都市、というイメージですね。しかも竪穴式住居もないとなると、何となく人の生活の匂いが感じられない気もしますね。
なお橋本氏は、纏向遺跡について、
”吉備などの祭りの道具立てを取り入れて纏向遺跡の中で古墳の祭祀を行ったり集落の祭祀を行ったり、そういうことがおこなわれている。あるいは近畿の中にもともとない墓制であるはずの前方後円墳の墓も吉備、瀬戸内海を中心とする弥生後期の墓制ですし、葺き石を葺く様なやり方もやはり近畿に元々ない、埋葬施設に鏡を納めるような風習も九州地域で多くみられたもので元々は近畿にない。そういった点を見ていきますと、この吉備地域からの孤文を用いたり祭りの道具に代表されるように、纏向遺跡の墓制、あるいは集落内における祭祀の様式に国内の他地域の要素というものが色濃く取り入れられ、祭祀のスタイルが完成されている。このことは大和が当時の社会の中で圧倒的に優位で、大和がほかの地域を制圧したという考えではなくて他の地域と協調関係・連合関係の中で纏向遺跡というものがつくりあげられたのではないかというふうに言われてます。”(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。
と述べてます。ずいぶんと一般的なイメージと違うのではないでしょうか?。こうした考えが、実際に纏向遺跡の発掘調査をしている方から発せられていることは注目です。
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”奈良県桜井市域の北部、JR巻向駅周辺に展開する。3世紀初頭~4世紀前半にかけて存続した。南北約1.5km、東西約2kmにも及ぶ。現在までの調査は、全体面積の5%程度である。”(「邪馬台国ー近畿説の一例 纏向遺跡の調査とその特質」(橋本輝彦、桜井市教育委員会文化財課)より)
面積は約300ha(万㎡)にも及ぶ広大な弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡です。卑弥呼の時代(3世紀前半)にも合致し、遺跡の大きさもさることながら、宮殿ともみなされうる大型建物跡がみつかったことなどから、邪馬台国ではないか、と言われてます。
位置を確認しましょう。

さらに詳しく、奈良盆地での位置をみてみます。
奈良盆地の東南部、山辺の道沿いにあります。大型前方後円墳の集積する柳本古墳群内です。東には古代から信仰されている三輪山があります。
北には大和古墳群があり、物部氏と関わりが深い石上神社があります。
弥生時代の巨大集落として有名な唐古・鍵遺跡は、北東の近い位置にあります。
纏向遺跡というと、土地勘がないと、何となく初代天皇である神武天皇の陵や橿原宮、あるいは蘇我馬子の墓とされる石舞台で有名な明日香村などに近いのかと思ってしまいますが、そうではなく、前者は西南方向、後者は南方向にあり、距離もかなりありますね。
西方向には、葛城氏の拠点とされる、馬見古墳群があります。
また遺跡のさらに北方、現在のJR奈良駅北東には、神功皇后陵などがある佐紀古墳群がありますが、これもかなり距離が離れてます。

位置を把握したたところで、遺跡の概要をみてみましょう。
特徴としては、以下の8つが挙げられてます。(「纏向遺跡と初期ヤマト政権」(寺澤薫)を要約)
1.集落規模が極めて大きく、前段階の弥生時代の拠点的な集落の規模をはるかに上回るばかりでなく、同時期の集落でも同等の規模を持つものは皆無であること。
2.弥生時代には過疎地域であった纏向遺跡に3世紀初めに突如として大規模集落が形成されること。また、遺跡の出現・繁栄や消長が周辺の前期古墳の動向と時期が一致していること。
3.本来近畿の墓の系譜には無い墓制である前方後円墳、纏向型前方後円墳と呼ばれる纏向型石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳などの共通の企画性を持った発生期の前方後円墳が存在し、後の古墳祭祀に続く主要な要素をすでに完成させていたこと。
4.農具である鍬の出土量が極めて少なく、土木工事用の鋤などが多く出土しており、農業を営む一般集落懸離れた様相を呈していること。遺跡内の調査では未だ水田・畑跡が確認されていないことなどを考え合わせると農業をほとんど営んでいない可能性があること。
5.吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。孤帯文様を持つものは吉備地方を中心に葬送儀礼に伴って発展したものであり、纏向遺跡ではこれらの祭式が直接古墳や集落での祭祀に取り入れられた可能性が高いこと。
6.他地域から運び込まれた土器が全体の15~30パーセント前後を占め、量的に極めて多いこと。そして、その範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からであること。
7.奈良盆地東南部という各地域への交通の要所に位置し、搬入土器の存在と合わせて付近に市場の機能をもった「大市」の存在が推定されること。
8.建物の中にほぼ真北方向に構築され、柵をめぐらし、付属建物を配する極めて特殊な掘立柱建物が存在すること。
等の要素が挙げられ、「新たに編成された政権の政治的意図によって建設された日本最初の都市」と位置づけられるに至っている。
注目の一つは、「3世紀初めに突如として出現した集落であること」でしょう。これが卑弥呼の時代とほぼ重なることから、邪馬台国説の大きな論拠となってます。しかしながら、邪馬台国は少なくとも紀元前後から存在していたと考えられるわけですから、それとの整合はどうなのか、という問題が出てきます。別の場所から移動してきた、と考えるよりありませんが、ではどこからやってきたのか、が不明です。
ここには記載されてませんが、4世紀初頭頃には、忽然と遺跡がなくなります。つまり纏向遺跡というのは、わずか100年ほどの短い期間の遺跡です。では彼らはどこへ行ったのか?、という謎が残ります。
次の注目は、前方後円墳、纏向型前方後円墳を、「本来近畿の墓の系譜には無い墓制である」としている点です。墓制といものは、先祖代々引き継ぐものですから、それが近畿にないということはすなわち、纏向型前方後円墳のルーツは「近畿以外」ということになります。
ではどこか?、については、5に大きなヒントがあります。
「吉備地域をルーツとする孤帯文様を持つ特殊器台・孤文円板・孤文石板などの出土から、吉備地域との直接的な関係が想定されること。」とあることから、吉備地域もしくは吉備地域と強い関係をもった地域からやってきた、と考えるのが自然でしょう。
次の注目は、「農具である鍬が少なく土木工事用の鋤が多こと、水田・畑が発見されていない」ことです。つまり、まったく農業を行わない遺跡、ということになります。となると、住んでいた人々の食料はどこから供給されたのか、という点も不明です。さらに今後の発掘状況にもよりますが、それほど多くの人々が生活していなかったのではないか?、ということにもなりえます。
また、「他地域からの搬入土器が多い」とあります。実は搬入土器の多くは炊飯用の甕とのことです。そこから当時の纏向遺跡の人に出会えば、1.5人~3人は外来の人が居たと推定されます。
また住居も、当時一般的であった竪穴式住居は確認されておらず、高床式の建物や平地式の建物で居住域が構成されていた可能性が高いとのことです(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。
農業がまったく行われおらず、土木用の鋤が多い、土器も外来が多い、となると、出稼ぎでやってきた人たちが造った都市、というイメージですね。しかも竪穴式住居もないとなると、何となく人の生活の匂いが感じられない気もしますね。
なお橋本氏は、纏向遺跡について、
”吉備などの祭りの道具立てを取り入れて纏向遺跡の中で古墳の祭祀を行ったり集落の祭祀を行ったり、そういうことがおこなわれている。あるいは近畿の中にもともとない墓制であるはずの前方後円墳の墓も吉備、瀬戸内海を中心とする弥生後期の墓制ですし、葺き石を葺く様なやり方もやはり近畿に元々ない、埋葬施設に鏡を納めるような風習も九州地域で多くみられたもので元々は近畿にない。そういった点を見ていきますと、この吉備地域からの孤文を用いたり祭りの道具に代表されるように、纏向遺跡の墓制、あるいは集落内における祭祀の様式に国内の他地域の要素というものが色濃く取り入れられ、祭祀のスタイルが完成されている。このことは大和が当時の社会の中で圧倒的に優位で、大和がほかの地域を制圧したという考えではなくて他の地域と協調関係・連合関係の中で纏向遺跡というものがつくりあげられたのではないかというふうに言われてます。”(「日本における都市の出現ー纏向遺跡の調査から」(橋本輝彦))。
と述べてます。ずいぶんと一般的なイメージと違うのではないでしょうか?。こうした考えが、実際に纏向遺跡の発掘調査をしている方から発せられていることは注目です。
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