纏向遺跡は邪馬台国か?(5)~魏志倭人伝記載との検証
ここまで纏向遺跡の概要をお話してきました。遺跡内には、遺構、遺物、古墳などがあるわけですが、ではそうした考古学的なものは、三国志魏志倭人伝に描かれているものと、一致しているのでしょうか?。そのあたりをみてみます。
改めて魏志倭人伝の描く倭国の様子を再掲します。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、少なくとも3万ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。馬はいない。
6.矛、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。
では一つずつ検証してみましょう。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
魏志倭人伝の”漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”
という記載は、後漢書倭伝の
”建武中元二年(57年)、倭奴国(いなこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。”
を指していると考えられます。
つまり、倭奴国(いなこく)は倭国と同義と考えられますが、少なくとも紀元前後からあった国です。ということは、倭国の都であった邪馬台国も紀元前後からあったと推定されます。
一方、纏向遺跡はどうでしょうか?。
3世紀から4世紀にかけての遺跡であり、弥生時代の遺構・遺物はほとんどありません。ということは、1の要件を満たしていませんね。
2は、長くなるので、回を改めてお話します。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
”潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”とあります。対海(たいかい)国や末盧(まつろ)国にも同様の記載がありますが、倭国全体の話として捉えていいでしょう。当然、都である邪馬台国も該当しているとみるのが自然です。
一方、纏向遺跡といえば、奈良盆地内の南東にあり、海辺とはほど遠いですね。確かに、山(生駒山)を超えれば河内から海沿いに出ることはできますが、かなりの行程です。少なくとも纏向遺跡を邪馬台国とすると、合致してません。
4.稲・麻を栽培している。
水田稲作は、弥生時代には畿内に伝搬してましたから、これは合格です。麻も栽培していたでしょう。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。馬はいない。
纏向遺跡から、弥生時代の絹は発掘されてません。巾着状絹製品は発掘されてますが、3世紀後半から4世紀のものと推定されており、時代が新しいです。
馬もいないとあります。箸墓古墳周濠の上層に堆積した植物層中層から木製輪鎧(わあぶみ)出土しましたが、これは4世紀初め頃のものとみられます。
以上から、少なくとも絹に関しては、纏向遺跡は要件を満たしてません。
6.矛、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
倭国の特徴を最もよく表しているものの一つが、「矛」でしょう。これが「銅矛」なのか、「鉄矛」なのかはわかりませんが、いずれかです。
弥生時代の「矛」の分布に、明確な地域性が表れていることは有名ですね。簡単にいえば、九州北部を中心とする「銅矛」圏と、畿内を中心とする「銅鐸」圏、瀬戸内海を中心とする「銅剣」圏の分布です。
(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)
鉄の各地域の出土数もみてみましょう。
鉄矛、鉄鏃とも、福岡県に集中してます。奈良県は、鉄矛はゼロ、鉄の鏃もほとんど出土しません。
さてこうしたなか、纏向遺跡はどうでしょうか?。
これまでのところ「矛」は出土してませんね。
となると、弥生時代の倭国を象徴する「矛」について、纏向遺跡は、まったく合致していないことがわかります。
7.南方系の風習である。
気候温暖であり、中国南方系の風習をもっている、ということです。一つには、
男は、大人も子供も、顔にクマドリして、体にはイレズミをしている。赤土で作った絵の具を体に塗る。
というのがあります。
弥生人が実際にイレズミをしていたのかの検証は、難しいところがありますが、「古事記」に、ヒントとなる話があります。
神武天皇の巻です。
”7人の少女が、高佐士野(タカサジノ)に遊びに行ったときに、その7人の少女の中にイスケヨリヒメがいました。
そのとき神武天皇の家来の大久米命(オオクメノ命)がイスケヨリヒメを見て、歌で神武天皇に申し上げました。
「大和の高佐士野を行く、7人の少女たちのうち誰を妻にしますか」
イスケヨリヒメは少女たちの先頭に立っていました。神武天皇はその少女たちを見て、歌で答えました。
「ともかく一番先に立っている年上の少女を妻としよう」
そこでオオクメノ命が神武天皇の言葉をイスケヨリヒメに伝えました。するとイスケヨリヒメは、オオクメノ命が目尻に入れ墨をして精悍な眼つきをしているのを見て、不思議に思って歌い尋ねました。
「どうしてそんなに大きな目をしているのですか??」
オオクメノ命は歌って答えました。
「お嬢さんをお見つけしようと大きな目になったのです」
こうしてイスケヨリヒメは天皇に「仕えます」と答え、天皇の后となることを承知しました。”(「古事記」福永武彦訳参照)
この話から、イケスヨリヒメは、「目尻の入れ墨」を初めて見たことが推察されます。
考古学的にはどうでしょうか?
鯨面絵画というものがあります。顔に入れ墨をした絵ですが、弥生後期に愛知、岐阜、岡山を中心に発掘されてますが、近畿地方からは一つも出土していないというのです(「三国志がみた倭人たち」設楽博己より)
以上より、畿内の男たちは、入れ墨の風習をもっていなかったことになります。
いずれにしろ、畿内の人々が南方系の風習をもっていたとは、考えにくいですね。
以上から、この要件も満たしてません。
8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
墓に関する倭国の大きな特徴です。槨(かく)とは、石棺の外側を覆うものです。そんな細かいところまでわざわざ記載したのは、中国人にとって興味深かったでしょう。
纏向遺跡の古墳のうち、内部調査されているものとして、ホケノ山古墳があります。内部構造は木棺ですが、石囲い木槨があります。その他の古墳も同様とみていいでしょう。
つまり、魏志倭人伝の記載と一致してません。
9.真珠・青玉が採れる。
青玉は、碧玉(jasper)ではないかと考えられます。
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。緑・青色碧玉は島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石と呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
ちなみに、”赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。”(同上)
とあります。
真珠もそうですが、碧玉は日本各地で採れますから、この要件は、合致してるといっていいでしょう。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
こちらも9同様、日本各地で採れますから、合致しているといっていいでしょう。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
宮殿・楼閣・倉庫(高床式)は、それと推定される遺構が纏向遺跡において発掘されてますから、合致してます。城柵というのは、宮殿・楼閣を守る軍事的な柵ですが、纏向遺跡で発掘された柵にその機能があったかは、不明です。
ただし、纏向遺跡を長年発掘された関川尚功氏(元橿原考古学研究所)によると、
”纏向遺跡は環濠をめぐらせる遺跡ではなく、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められなず、むしろ開放的な立地形態である。”としてます(「考古学からみた邪馬台国大和説への疑問(1)」季刊邪馬台国126号、2015年7月)。また柵についても、”柱痕とされる小穴は不揃いなところが多い。明確かつ整然とした柵と比較することは困難であろう。”と述べてます。
つまり、下の写真の吉野ヶ里遺跡でみられるような城柵とはいえない、ということです。
なお関川氏は、纏向遺跡の建物群についてさえ、”ただちに庄内期の頃の王宮クラスの遺構とするには、さらなる検証が必要である。”と述べてます。
<宮殿復元(纏向遺跡)>
(奈良県HP「歩く・なら」より)
<物見櫓と柵(吉野ヶ里遺跡)>
(筆者撮影)
以上より、城柵については合致しておらず、宮殿についても、まだ確証は得られてません。
12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。
大きな戦いとは、卑弥呼共立前の戦乱(いわゆる倭国大乱)、狗奴国との戦い、卑弥呼死去後の戦乱などです。こうした戦いが、邪馬台国内あるいは周辺で繰り広げられたわけです。ですから、邪馬台国の境界域あるいはその周辺は、厳重に防御施設で固められていたはずです。
関川氏によれば、纏向遺跡は、”防御的な性格は認められず、むしろ開放的な立地形態”ですから、これについても?ですね。また九州北部のように、戦死者とみられる人骨も見つかってません。つまりこの項目も合致しません。
さて以上みてきましたが、整理します。
・魏志倭人伝の記載と合致していると考えられるもの。
4.9.10・11(4項目)
・魏志倭人伝の記載と合致していないと考えられるもの。
1・3・5・6・7・8・12(7項目)
となります。
11項目のうち、合致しているのは、4項目、割合で言えば36%に過ぎません。
逆に合致していないものは、7項目で64%になります。
さて皆さんは、この結果をどのように考えるでしょうか?。
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改めて魏志倭人伝の描く倭国の様子を再掲します。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
2.周辺含めた全体領域は、少なくとも3万ha以上,人口は40~50万人に及ぶ。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
4.稲・麻を栽培している。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。馬はいない。
6.矛、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
7.南方系の風習である。
8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
9.真珠・青玉が採れる。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。
では一つずつ検証してみましょう。
1.紀元前後から継続している遺跡である。
魏志倭人伝の”漢の時代には、貢ぎ物を持ってくる国もあった。”
という記載は、後漢書倭伝の
”建武中元二年(57年)、倭奴国(いなこく)の使者が、貢物を捧げて後漢の光武帝のもとに挨拶にきた。”
を指していると考えられます。
つまり、倭奴国(いなこく)は倭国と同義と考えられますが、少なくとも紀元前後からあった国です。ということは、倭国の都であった邪馬台国も紀元前後からあったと推定されます。
一方、纏向遺跡はどうでしょうか?。
3世紀から4世紀にかけての遺跡であり、弥生時代の遺構・遺物はほとんどありません。ということは、1の要件を満たしていませんね。
2は、長くなるので、回を改めてお話します。
3.海辺にあり、漁業を中心としている。
”潜るのが大好きで、魚やハマグリを採っている。”とあります。対海(たいかい)国や末盧(まつろ)国にも同様の記載がありますが、倭国全体の話として捉えていいでしょう。当然、都である邪馬台国も該当しているとみるのが自然です。
一方、纏向遺跡といえば、奈良盆地内の南東にあり、海辺とはほど遠いですね。確かに、山(生駒山)を超えれば河内から海沿いに出ることはできますが、かなりの行程です。少なくとも纏向遺跡を邪馬台国とすると、合致してません。
4.稲・麻を栽培している。
水田稲作は、弥生時代には畿内に伝搬してましたから、これは合格です。麻も栽培していたでしょう。
5.養蚕を行い、絹織物を生産している。錦も生産している。馬はいない。
纏向遺跡から、弥生時代の絹は発掘されてません。巾着状絹製品は発掘されてますが、3世紀後半から4世紀のものと推定されており、時代が新しいです。
馬もいないとあります。箸墓古墳周濠の上層に堆積した植物層中層から木製輪鎧(わあぶみ)出土しましたが、これは4世紀初め頃のものとみられます。
以上から、少なくとも絹に関しては、纏向遺跡は要件を満たしてません。
6.矛、盾、弓、鉄や骨の矢じりを兵器として、常備している。
倭国の特徴を最もよく表しているものの一つが、「矛」でしょう。これが「銅矛」なのか、「鉄矛」なのかはわかりませんが、いずれかです。
弥生時代の「矛」の分布に、明確な地域性が表れていることは有名ですね。簡単にいえば、九州北部を中心とする「銅矛」圏と、畿内を中心とする「銅鐸」圏、瀬戸内海を中心とする「銅剣」圏の分布です。

(「弥生銅鐸のGIS解析ー密度分布と埋納地からの可視領域ー」吉田広他より)
鉄の各地域の出土数もみてみましょう。
弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別) | ||||||||
順位 | 弥生時代の鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄 | |||||||
鉄の刀 | 鉄剣 | 鉄矛 | 計 | |||||
都道府県 | 個数 | 都道府県 | 個数 | 都道府県 | 個数 | 都道府県 | 個数 | |
1 | 福岡県 | 17 | 福岡県 | 46 | 福岡県 | 7 | 福岡県 | 70 |
2 | 鳥取県 | 16 | 京都府 | 44 | 佐賀・山口 | 2 | 京都府 | 48 |
3 | 福井県 | 6 | 長崎県 | 23 | 佐賀県 | 25 | ||
4 | 佐賀県 | 5 | 兵庫県 | 21 | 長崎・長野 | 1 | 長崎県 | 29 |
5 | 長崎県 | 5 | 佐賀県 | 18 | 鳥取県 | 16 | ||
6 | 京都府 | 4 | 群馬県 | 16 | 兵庫県 | 21 | ||
7 | 山口・広島 | 3 | 千葉県 | 14 | 群馬県 | 16 | ||
奈良県 | 0 | 奈良県 | 1 | 奈良県 | 0 | 奈良県 | 1 | |
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。 |
弥生時代の鉄出土状況表①(都道府県別) | ||||
順位 | 鉄の鏃 | |||
都道府県 | 個数 | |||
1 | 福岡県 | 398 | ||
2 | 熊本県 | 339 | ||
3 | 大分県 | 241 | ||
4 | 京都府 | 112 | ||
5 | 岡山県 | 104 | ||
6 | 宮崎県 | 100 | ||
7 | 山口県 | 97 | ||
奈良県 | 4 | |||
*「弥生時代鉄器総覧」(広島大学考古学研究室 川越哲志編、2002年2月刊行)による。 |
鉄矛、鉄鏃とも、福岡県に集中してます。奈良県は、鉄矛はゼロ、鉄の鏃もほとんど出土しません。
さてこうしたなか、纏向遺跡はどうでしょうか?。
これまでのところ「矛」は出土してませんね。
となると、弥生時代の倭国を象徴する「矛」について、纏向遺跡は、まったく合致していないことがわかります。
7.南方系の風習である。
気候温暖であり、中国南方系の風習をもっている、ということです。一つには、
男は、大人も子供も、顔にクマドリして、体にはイレズミをしている。赤土で作った絵の具を体に塗る。
というのがあります。
弥生人が実際にイレズミをしていたのかの検証は、難しいところがありますが、「古事記」に、ヒントとなる話があります。
神武天皇の巻です。
”7人の少女が、高佐士野(タカサジノ)に遊びに行ったときに、その7人の少女の中にイスケヨリヒメがいました。
そのとき神武天皇の家来の大久米命(オオクメノ命)がイスケヨリヒメを見て、歌で神武天皇に申し上げました。
「大和の高佐士野を行く、7人の少女たちのうち誰を妻にしますか」
イスケヨリヒメは少女たちの先頭に立っていました。神武天皇はその少女たちを見て、歌で答えました。
「ともかく一番先に立っている年上の少女を妻としよう」
そこでオオクメノ命が神武天皇の言葉をイスケヨリヒメに伝えました。するとイスケヨリヒメは、オオクメノ命が目尻に入れ墨をして精悍な眼つきをしているのを見て、不思議に思って歌い尋ねました。
「どうしてそんなに大きな目をしているのですか??」
オオクメノ命は歌って答えました。
「お嬢さんをお見つけしようと大きな目になったのです」
こうしてイスケヨリヒメは天皇に「仕えます」と答え、天皇の后となることを承知しました。”(「古事記」福永武彦訳参照)
この話から、イケスヨリヒメは、「目尻の入れ墨」を初めて見たことが推察されます。
考古学的にはどうでしょうか?
鯨面絵画というものがあります。顔に入れ墨をした絵ですが、弥生後期に愛知、岐阜、岡山を中心に発掘されてますが、近畿地方からは一つも出土していないというのです(「三国志がみた倭人たち」設楽博己より)
以上より、畿内の男たちは、入れ墨の風習をもっていなかったことになります。
いずれにしろ、畿内の人々が南方系の風習をもっていたとは、考えにくいですね。
以上から、この要件も満たしてません。
8.棺はあるが、槨(かく)はない。埋葬してから盛り土する。
墓に関する倭国の大きな特徴です。槨(かく)とは、石棺の外側を覆うものです。そんな細かいところまでわざわざ記載したのは、中国人にとって興味深かったでしょう。
纏向遺跡の古墳のうち、内部調査されているものとして、ホケノ山古墳があります。内部構造は木棺ですが、石囲い木槨があります。その他の古墳も同様とみていいでしょう。
つまり、魏志倭人伝の記載と一致してません。
9.真珠・青玉が採れる。
青玉は、碧玉(jasper)ではないかと考えられます。
”ジャスパーとも呼ぶ。不純で不透明な玉髄。多くは酸化鉄によって紅,黄,褐,緑,黒などの色を呈する。緑・青色碧玉は島根県出雲地方の玉造石 (たまつくりいし) が名高く,歴代玉造りの中心素材であるため特に出雲石と呼ばれる。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
ちなみに、”赤碧玉は俗に赤玉といい,象眼 (ぞうがん) 細工に使われ (佐渡の岩首,石川県国府) ,また庭石として珍重される。”(同上)
とあります。
真珠もそうですが、碧玉は日本各地で採れますから、この要件は、合致してるといっていいでしょう。
10.丹(硫化水銀)が採れる。
こちらも9同様、日本各地で採れますから、合致しているといっていいでしょう。
11.宮殿・楼閣・倉庫(高床式)・城柵がある。
宮殿・楼閣・倉庫(高床式)は、それと推定される遺構が纏向遺跡において発掘されてますから、合致してます。城柵というのは、宮殿・楼閣を守る軍事的な柵ですが、纏向遺跡で発掘された柵にその機能があったかは、不明です。
ただし、纏向遺跡を長年発掘された関川尚功氏(元橿原考古学研究所)によると、
”纏向遺跡は環濠をめぐらせる遺跡ではなく、弥生環濠集落のような防御的あるいは閉鎖的な性格はあまり認められなず、むしろ開放的な立地形態である。”としてます(「考古学からみた邪馬台国大和説への疑問(1)」季刊邪馬台国126号、2015年7月)。また柵についても、”柱痕とされる小穴は不揃いなところが多い。明確かつ整然とした柵と比較することは困難であろう。”と述べてます。
つまり、下の写真の吉野ヶ里遺跡でみられるような城柵とはいえない、ということです。
なお関川氏は、纏向遺跡の建物群についてさえ、”ただちに庄内期の頃の王宮クラスの遺構とするには、さらなる検証が必要である。”と述べてます。
<宮殿復元(纏向遺跡)>

(奈良県HP「歩く・なら」より)
<物見櫓と柵(吉野ヶ里遺跡)>

(筆者撮影)
以上より、城柵については合致しておらず、宮殿についても、まだ確証は得られてません。
12.大きな戦いが繰り返され、多くの戦死者が出た。
大きな戦いとは、卑弥呼共立前の戦乱(いわゆる倭国大乱)、狗奴国との戦い、卑弥呼死去後の戦乱などです。こうした戦いが、邪馬台国内あるいは周辺で繰り広げられたわけです。ですから、邪馬台国の境界域あるいはその周辺は、厳重に防御施設で固められていたはずです。
関川氏によれば、纏向遺跡は、”防御的な性格は認められず、むしろ開放的な立地形態”ですから、これについても?ですね。また九州北部のように、戦死者とみられる人骨も見つかってません。つまりこの項目も合致しません。
さて以上みてきましたが、整理します。
・魏志倭人伝の記載と合致していると考えられるもの。
4.9.10・11(4項目)
・魏志倭人伝の記載と合致していないと考えられるもの。
1・3・5・6・7・8・12(7項目)
となります。
11項目のうち、合致しているのは、4項目、割合で言えば36%に過ぎません。
逆に合致していないものは、7項目で64%になります。
さて皆さんは、この結果をどのように考えるでしょうか?。
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