纏向遺跡は邪馬台国か?(6)~広さを検証する
前回は、魏志倭人伝の記載と、纏向遺跡を比較すると、11項目のうち、合致しているといえるのはわずか4項目、36%に過ぎないことをお話しました。
今回は、前回検証を飛ばした項目について、みていきます。
その項目とは、「人口」と「面積」です。飛ばした理由は、実態があいまいであり、検証しにくいものだからです。とはいえそれでは話が進みませんから、仮定を設けて進めます。
魏志倭人伝に、「邪馬台国は七万戸余り」とあります。
一戸当たりの人口が何人だったのかはわかりませんが、仮に6~7人と仮定しますと、42万人~49万人という数字にあります。すさまじい人口ですね。「弥生時代に一つの国に、そんなに人がいたわけがない。」と思われた方も多いでしょうが、このまま進めます。
では仮にこの数字が正しかったとすると、どのくらいの広さだったのでしょうか?。
何も記載されていませんが、推定してみます。
すでにお話してますが、再記します。
吉野ヶ里遺跡の面積は、外環濠内で約40ha(400,000㎡),人口は最大時で1200人程度、クニ全体で5400人程度と推定されてます(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
ここから外環濠内の人口密度は、
1200人 ÷ 40ha = 30 人/ha
となります。
クニの広さがわかりませんが、環濠の面積の10倍の400haと仮定します。
すると、人口密度は、
5400人 ÷ 400ha =13.5 人/ha
となります。
そうしますと、邪馬台国の人口からみた面積は、人口を45万人として
45万人 ÷ 13.5人/ha = 約33,000 ha=約33千ha
となります。
これだけではピンとこないかもしれませんが、
福岡市の面積34,100haに匹敵する広さです。
ちなみに福岡市の現在の人口は約150万人ですから、人口密度は
150万人 ÷ 34100ha = 44人/ha
となります。
そうなると、邪馬台国の人口密度は、現福岡市の3分の1となります。ずいぶんと高い人口密度ですね。もちろん計算の仮定を変えれば、それに応じて変わります。
感覚的にも、人口45万人とはちょっと多いな、といったところですね。また人口密度も、今の福岡市の3分の1というのも、考えにくいですね。
仮定を変えて、人口を10分の1にして4.5万人、人口密度も10分の1にして、1.35人/haにしましょう。1.35人/haとは、100m×100mの面積に1人強が住んでいることを表しますので、ありえそうですね。
すると面積は、
4.5万人 ÷ 1.35人/ha = 約33,000ha=約33千ha
となります。
あたりまえのことですが、結果は同じですね。
ということで、あくまで仮定の仮定の話にはなりますが、仮定を設定しないと話が進まないので、これで進めます
では仮にこの仮定が正しかったとして、纏向遺跡を含めた地域、すなわち奈良盆地は、これだけの広さがありかつ当時、集落が分布していたのでしょうか。
まず奈良盆地ですが、現在人が住めるような平地は、おおよそ34千haほどあります。この数字だけみると、邪馬台国のクニの広さがあるではないか、と思われるでしょうが、そうは問屋がおろしません。
一つは、当時奈良盆地全体に人が住める状態だったのか、という問題があります。
まず奈良盆地の全体をつかみましょう。
盆地底は標高 40~80mの平坦な沖積地で,大和川の諸支流が集まってます。
”かつては瀬戸内海の前身にあたる海域の一部であったり、淡水の湖沼(こしょう)や沼沢地(しょうたくち)をなしていた時代があった。現在の大和川にあたる河川によって排水が進み、盆地底は次第に陸化した。
山地から奈良盆地に流入した河川によって扇状地が形成される。
「山辺の道」などは山麓扇状地や段丘状になった扇状地上を縫うように通じている。”(奈良検定より)
遠い太古の時代には、海や湖沼だったときもありましたが、扇状地が形成されるとともに、陸地化されたわけです。
弥生時代から古墳時代初頭にかけての時期には、まだ安定しておらず、盆地の中央部から西北の大和川にかけては、網状流路だったことが知られてます。
”川筋が幾本にも別れて、川の中に比較的不安定で小さな島を作った状態で流れ、まるで川が網の目のように流れている状態のことである。”(Wikiediaより)
当時の集落は、山稜と網状流路地帯の間の扇状地や氾濫平野に集中してます。
図中、盆地内の網掛け部分が、網状流路地帯です。 確かに弥生時代の集落は、網状流路地帯(盆地中央部から西北の大和川にかけて)には、ありませんね。ようは河川の氾濫が頻発して、人が定住できなかったということです。
この地域を除いた面積、つまり人が定住できる面積は、おおよそですが、29千haとなります。
冒頭仮定した邪馬台国の面積33千ha以上と比べると、やや狭いですね。
こんなのは誤差の範囲ではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、ここで大きな問題があるのです。
ひとつは、奈良盆地内には、弥生時代の遺跡が密にはない、ということです。点在といっていいでしょう。となると、人口も多くは見込めません。
もうひとつは、仮に多くの集落があったとしても、はたしてこの奈良盆地内一帯を、弥生時代ひとつの「クニ」として認定できるのか、という問題です。
一つのクニというからには、同じ文化を共有していることが前提でしょう。
当時の文化の代表的なものに、銅鐸祭祀があります。実際、周辺の唐古・鍵遺跡では、銅鐸祭祀が行われていたことがわかっています。
ところが、纏向遺跡出現時期と同じような時期に、銅鐸祭祀は終焉を迎えます。他の遺跡からは、故意に破壊されたと考えられる銅鐸破片が見つかってます。詳しくは
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
を参照ください。
纏向遺跡からも銅鐸小片が見つかってますが、詳しいことはわかってません。ただし、古事記・日本書紀には銅鐸の記載が一切ないことから、大和王権は銅鐸祭祀を行っていなかったのではないか、との推測が成り立ちます。
もし纏向遺跡がのちの大和王権につながるのであれば、纏向遺跡では銅鐸祭祀を行っていなかったことになります。
となると、纏向遺跡はこれまでの奈良盆地内の他の弥生遺跡とは異なる文化をもっていた、ということになります。このことから、奈良盆地内全体を一つのクニとみなすことはできない、ということがいえます。
つまり、邪馬台国を奈良盆地全体とみなすことは、無理があるということです。
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今回は、前回検証を飛ばした項目について、みていきます。
その項目とは、「人口」と「面積」です。飛ばした理由は、実態があいまいであり、検証しにくいものだからです。とはいえそれでは話が進みませんから、仮定を設けて進めます。
魏志倭人伝に、「邪馬台国は七万戸余り」とあります。
一戸当たりの人口が何人だったのかはわかりませんが、仮に6~7人と仮定しますと、42万人~49万人という数字にあります。すさまじい人口ですね。「弥生時代に一つの国に、そんなに人がいたわけがない。」と思われた方も多いでしょうが、このまま進めます。
では仮にこの数字が正しかったとすると、どのくらいの広さだったのでしょうか?。
何も記載されていませんが、推定してみます。
すでにお話してますが、再記します。
吉野ヶ里遺跡の面積は、外環濠内で約40ha(400,000㎡),人口は最大時で1200人程度、クニ全体で5400人程度と推定されてます(吉野ヶ里歴史公園HPより)。
ここから外環濠内の人口密度は、
1200人 ÷ 40ha = 30 人/ha
となります。
クニの広さがわかりませんが、環濠の面積の10倍の400haと仮定します。
すると、人口密度は、
5400人 ÷ 400ha =13.5 人/ha
となります。
そうしますと、邪馬台国の人口からみた面積は、人口を45万人として
45万人 ÷ 13.5人/ha = 約33,000 ha=約33千ha
となります。
これだけではピンとこないかもしれませんが、
福岡市の面積34,100haに匹敵する広さです。
ちなみに福岡市の現在の人口は約150万人ですから、人口密度は
150万人 ÷ 34100ha = 44人/ha
となります。
そうなると、邪馬台国の人口密度は、現福岡市の3分の1となります。ずいぶんと高い人口密度ですね。もちろん計算の仮定を変えれば、それに応じて変わります。
感覚的にも、人口45万人とはちょっと多いな、といったところですね。また人口密度も、今の福岡市の3分の1というのも、考えにくいですね。
仮定を変えて、人口を10分の1にして4.5万人、人口密度も10分の1にして、1.35人/haにしましょう。1.35人/haとは、100m×100mの面積に1人強が住んでいることを表しますので、ありえそうですね。
すると面積は、
4.5万人 ÷ 1.35人/ha = 約33,000ha=約33千ha
となります。
あたりまえのことですが、結果は同じですね。
ということで、あくまで仮定の仮定の話にはなりますが、仮定を設定しないと話が進まないので、これで進めます
では仮にこの仮定が正しかったとして、纏向遺跡を含めた地域、すなわち奈良盆地は、これだけの広さがありかつ当時、集落が分布していたのでしょうか。
まず奈良盆地ですが、現在人が住めるような平地は、おおよそ34千haほどあります。この数字だけみると、邪馬台国のクニの広さがあるではないか、と思われるでしょうが、そうは問屋がおろしません。
一つは、当時奈良盆地全体に人が住める状態だったのか、という問題があります。
まず奈良盆地の全体をつかみましょう。
盆地底は標高 40~80mの平坦な沖積地で,大和川の諸支流が集まってます。
”かつては瀬戸内海の前身にあたる海域の一部であったり、淡水の湖沼(こしょう)や沼沢地(しょうたくち)をなしていた時代があった。現在の大和川にあたる河川によって排水が進み、盆地底は次第に陸化した。
山地から奈良盆地に流入した河川によって扇状地が形成される。
「山辺の道」などは山麓扇状地や段丘状になった扇状地上を縫うように通じている。”(奈良検定より)
遠い太古の時代には、海や湖沼だったときもありましたが、扇状地が形成されるとともに、陸地化されたわけです。
弥生時代から古墳時代初頭にかけての時期には、まだ安定しておらず、盆地の中央部から西北の大和川にかけては、網状流路だったことが知られてます。
”川筋が幾本にも別れて、川の中に比較的不安定で小さな島を作った状態で流れ、まるで川が網の目のように流れている状態のことである。”(Wikiediaより)
当時の集落は、山稜と網状流路地帯の間の扇状地や氾濫平野に集中してます。

図中、盆地内の網掛け部分が、網状流路地帯です。 確かに弥生時代の集落は、網状流路地帯(盆地中央部から西北の大和川にかけて)には、ありませんね。ようは河川の氾濫が頻発して、人が定住できなかったということです。
この地域を除いた面積、つまり人が定住できる面積は、おおよそですが、29千haとなります。
冒頭仮定した邪馬台国の面積33千ha以上と比べると、やや狭いですね。
こんなのは誤差の範囲ではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、ここで大きな問題があるのです。
ひとつは、奈良盆地内には、弥生時代の遺跡が密にはない、ということです。点在といっていいでしょう。となると、人口も多くは見込めません。
もうひとつは、仮に多くの集落があったとしても、はたしてこの奈良盆地内一帯を、弥生時代ひとつの「クニ」として認定できるのか、という問題です。
一つのクニというからには、同じ文化を共有していることが前提でしょう。
当時の文化の代表的なものに、銅鐸祭祀があります。実際、周辺の唐古・鍵遺跡では、銅鐸祭祀が行われていたことがわかっています。
ところが、纏向遺跡出現時期と同じような時期に、銅鐸祭祀は終焉を迎えます。他の遺跡からは、故意に破壊されたと考えられる銅鐸破片が見つかってます。詳しくは
銅鐸にみる「西→東」への権力移動 (9) ~ 銅鐸の「破壊」と「消滅」の謎
を参照ください。
纏向遺跡からも銅鐸小片が見つかってますが、詳しいことはわかってません。ただし、古事記・日本書紀には銅鐸の記載が一切ないことから、大和王権は銅鐸祭祀を行っていなかったのではないか、との推測が成り立ちます。
もし纏向遺跡がのちの大和王権につながるのであれば、纏向遺跡では銅鐸祭祀を行っていなかったことになります。
となると、纏向遺跡はこれまでの奈良盆地内の他の弥生遺跡とは異なる文化をもっていた、ということになります。このことから、奈良盆地内全体を一つのクニとみなすことはできない、ということがいえます。
つまり、邪馬台国を奈良盆地全体とみなすことは、無理があるということです。
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