後漢書倭伝を読む その1~ ここに歴史上初めて邪馬臺国の国名が出てくるのだが・・・
前回まで、三国志魏志倭人伝を紹介してきました。魏志倭人伝など信用できない、という意見もありますが、何せ、当時の日本の姿を詳細に記している最古の資料です。こうした史書がなければ、想像すらできなかったことが、たくさん書いてあるわけですから、有難いことです。
さて、当時の日本を記している中国史書は、時代は新しくなりますが、他にもあります。それらをじっくり読み、魏志倭人伝と同じ記載のところ、異なる記載のところなどを、比較検討していくことにより、より真実に近づいていけると、思います。
当時の日本を記している中国史書は、
・後漢書倭伝
・隋書俀国伝
・旧唐書
・新唐書
・翰苑(かんえん)
などです。
今回から、後漢書倭伝を、読んでいきます。「倭国伝(藤堂明保、竹田晃、影山輝国全訳注)」をもとに、自分なりの解釈を入れてます。
後漢書は、正式名称は後漢書東夷列伝倭条といい、宋の役人だった范曄(はんよう) により、432年に成立しました。後漢書の滅亡(220年)から200年以上経ってから成立しており、後漢のあとの時代を記述している三国志の成立が280年頃ですから、三国志より150年ほど遅れて成立したことになります。
つまり、 後漢書を書いた范曄 は、三国志を書いた陳寿のはるか後輩ということになります。
それまでにあった七、八種類の後漢書をまとめて、史記や三国志呉書の記述も取り入れ、独自の考えで書き改めたと言われてます。
つまり、范曄の解釈がかなり入っているとみなすべきであり、留意しなくてはいけません。
倭は、韓(朝鮮半島南部)に東南方の大海中にある。倭人は山の多い島に村落をつくっており、全部で百国余りある。
前漢の武帝が衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼしたあと、漢に使者を派遣してきたのはそのうち三十国ほどである。それらの国の首長は、それぞれ王を名乗り、王は世襲制である。その大倭王は、邪馬臺国[考えるに、邪摩惟(やまい)の訛りであろう]に住んでいる。
*[ ]内は、唐の章太子による注釈。
【解説】
冒頭は、魏志倭人伝の、漢の時代から交流があった、という記載とほぼ同じです。そしてつぎに大倭王のいるところとして、邪馬臺国という表記が出てきます。ここで邪馬臺国という国名が歴史上初めて登場します。
すでにお話ししたとおり、魏志倭人伝には、邪馬壹国と書かれてますが、後漢書では邪馬臺国となっていることから、壹は臺の書き誤りとされているわけです。
注目すべきことは、後年の唐の章太子による注釈文に、[邪摩惟(やまい)のなまり音である。]と書いている点です。つまり、邪馬臺国は、もともと「やまい」と発音されていたということです。わざわざ注釈したのは、当時から読み方について混乱があり、それをスッキリさせるために敢えて入れた、ということでしょう。そこで、はっきりと邪摩惟(やまい)と断定しているわけです。となると邪馬壹国という表記が、がぜん現実味を帯びてきます。
では、なぜ邪馬壹国が邪馬臺国になったのか、等々の詳しい話は、回を改めてお話しします。
後漢書東夷列伝倭条版本
楽浪郡の境界は、邪馬臺国から一万二千里離れており、また西北界の狗邪韓国(くやかんこく)から、七千里余り離れている。倭の地は、ほぼ中国の会稽郡(かいけいぐん)・東冶県(とうやけん)の東方に位置し、朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)とも近い。そのため倭の制度や風習は、朱崖や儋耳と同じものが多い。
【解説】
次に邪馬台国の位置について、距離の記載は、魏志倭人伝とほぼ同じです。
問題は、つぎの会稽東冶(かいけいとうや)です。魏志倭人伝で会稽東治(かいけいとうじ)とあるのを、東冶と修正してます。
下の図のとおり、会稽東冶の東ですと、はるか南方になってしまいます。「だから魏志倭人伝は信用できない。方角がいい加減だ。」等々の話になってくるわけです。また、この記載を根拠に、邪馬台国沖縄説を唱えている方もいます。
古田武彦氏は、中国史書を徹底的に読み分析した結果、「会稽東治とは、下の図にある地域を示している。」としてます。その東がちょうど倭にあたるわけです。ただし歴史的にも事情が複雑であるため、後代の范曄が勘違いをした、としており、一理あると考えます。
范曄が勘違いなどするのか?とも思えますが、次の記載を読むと、納得します。
「朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)とも近い。」とあります。これは、地図をご覧になれば一目瞭然ですが、朱崖や儋耳は、はるか南の地名であり、明らかな間違いです。魏志倭人伝では「倭の制度や風習は、朱崖や儋耳とほぼ同じである。」としか書いてありません。地理的感覚がない范曄が、思い込みで余計なことを書いた、としか言いようがありません。もっとも、范曄は、宋の役人であり、外の世界のことなど想像するしかなかったでしょうから、同情すべきことではあります。

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・隋書俀国伝
・旧唐書
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今回から、後漢書倭伝を、読んでいきます。「倭国伝(藤堂明保、竹田晃、影山輝国全訳注)」をもとに、自分なりの解釈を入れてます。
後漢書は、正式名称は後漢書東夷列伝倭条といい、宋の役人だった范曄(はんよう) により、432年に成立しました。後漢書の滅亡(220年)から200年以上経ってから成立しており、後漢のあとの時代を記述している三国志の成立が280年頃ですから、三国志より150年ほど遅れて成立したことになります。
つまり、 後漢書を書いた范曄 は、三国志を書いた陳寿のはるか後輩ということになります。
それまでにあった七、八種類の後漢書をまとめて、史記や三国志呉書の記述も取り入れ、独自の考えで書き改めたと言われてます。
つまり、范曄の解釈がかなり入っているとみなすべきであり、留意しなくてはいけません。
倭は、韓(朝鮮半島南部)に東南方の大海中にある。倭人は山の多い島に村落をつくっており、全部で百国余りある。
前漢の武帝が衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼしたあと、漢に使者を派遣してきたのはそのうち三十国ほどである。それらの国の首長は、それぞれ王を名乗り、王は世襲制である。その大倭王は、邪馬臺国[考えるに、邪摩惟(やまい)の訛りであろう]に住んでいる。
*[ ]内は、唐の章太子による注釈。
【解説】
冒頭は、魏志倭人伝の、漢の時代から交流があった、という記載とほぼ同じです。そしてつぎに大倭王のいるところとして、邪馬臺国という表記が出てきます。ここで邪馬臺国という国名が歴史上初めて登場します。
すでにお話ししたとおり、魏志倭人伝には、邪馬壹国と書かれてますが、後漢書では邪馬臺国となっていることから、壹は臺の書き誤りとされているわけです。
注目すべきことは、後年の唐の章太子による注釈文に、[邪摩惟(やまい)のなまり音である。]と書いている点です。つまり、邪馬臺国は、もともと「やまい」と発音されていたということです。わざわざ注釈したのは、当時から読み方について混乱があり、それをスッキリさせるために敢えて入れた、ということでしょう。そこで、はっきりと邪摩惟(やまい)と断定しているわけです。となると邪馬壹国という表記が、がぜん現実味を帯びてきます。
では、なぜ邪馬壹国が邪馬臺国になったのか、等々の詳しい話は、回を改めてお話しします。
後漢書東夷列伝倭条版本

楽浪郡の境界は、邪馬臺国から一万二千里離れており、また西北界の狗邪韓国(くやかんこく)から、七千里余り離れている。倭の地は、ほぼ中国の会稽郡(かいけいぐん)・東冶県(とうやけん)の東方に位置し、朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)とも近い。そのため倭の制度や風習は、朱崖や儋耳と同じものが多い。
【解説】
次に邪馬台国の位置について、距離の記載は、魏志倭人伝とほぼ同じです。
問題は、つぎの会稽東冶(かいけいとうや)です。魏志倭人伝で会稽東治(かいけいとうじ)とあるのを、東冶と修正してます。
下の図のとおり、会稽東冶の東ですと、はるか南方になってしまいます。「だから魏志倭人伝は信用できない。方角がいい加減だ。」等々の話になってくるわけです。また、この記載を根拠に、邪馬台国沖縄説を唱えている方もいます。
古田武彦氏は、中国史書を徹底的に読み分析した結果、「会稽東治とは、下の図にある地域を示している。」としてます。その東がちょうど倭にあたるわけです。ただし歴史的にも事情が複雑であるため、後代の范曄が勘違いをした、としており、一理あると考えます。
范曄が勘違いなどするのか?とも思えますが、次の記載を読むと、納得します。
「朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)とも近い。」とあります。これは、地図をご覧になれば一目瞭然ですが、朱崖や儋耳は、はるか南の地名であり、明らかな間違いです。魏志倭人伝では「倭の制度や風習は、朱崖や儋耳とほぼ同じである。」としか書いてありません。地理的感覚がない范曄が、思い込みで余計なことを書いた、としか言いようがありません。もっとも、范曄は、宋の役人であり、外の世界のことなど想像するしかなかったでしょうから、同情すべきことではあります。

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